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第11話

 屋敷の補修計画が進みはじめた頃、晶子はある現実に直面していた。


 ──予算が足りない。


 使用人の臨時報酬に加え、補修工事には専門職人の手配や資材の購入が必要。自身の小遣いだけでは到底足りず、書斎の帳簿を前に頭を抱える日々が続いた。


(とはいえ、これって“侯爵家”の問題よね?)


 結論は出た。

 翌朝、晶子は徹夜で作成した分厚い書類を携え、侯爵アレクシスの執務室を訪れた。


「お時間、少しいただけるかしら」


 アレクシスは書類から目を上げ、彼女の姿を見て眉をわずかに上げた。


「どうした。屋敷に不満でも?」


「いえ、建設的な話よ」


 彼女はにっこりと微笑み、机の上に資料の束を置いた。


「お屋敷の補修作業費をお願いします。これは費目ごとの見積もりと必要性の根拠をまとめた資料です。全て確認済みよ」


 アレクシスは書類に目を通しながら、片眉を上げたまま黙っていた。


「ちなみに私は、どこぞの麗しい女性のように宝石類はいらないので──現金で結構です」


 にっこりと、しかし皮肉を忍ばせた微笑。

 侯爵の手が書類のページで止まった。


「……つまり、俺に“愛人への贈り物”と同じ程度の支出を、妻にもよこせと?」


「正確には、“屋敷の主婦”としての提案です。見返りは、快適で清潔な生活環境と──使用人たちの忠誠心。……あなたにとって損な話ではないはず」


 静かだが、論理と情熱を込めた言葉。

 アレクシスはしばらく無言のまま書類に目を落としたあと、視線を彼女に戻した。


「君は変わったな、ティエナ」


「変わった? そちらが望んだ“お飾りの妻”では、なかったかしら?」


「いや──今の君の方が、よほど俺を苛立たせる」


 静かな声に、わずかに混じる苛立ちと、別の感情。


「……分かった。だが、一つ条件をつける」


「条件?」


「補修の過程を、俺にも見せろ。金を出す以上、使い道に目を光らせるのは当然だろう」


(それってつまり──干渉ってやつね)


 晶子は一瞬、警戒の色を瞳に宿した。


「了解。でも条件を付けるなら、こっちからもひとつ。あなたの愛人関係に、私は一切干渉しないから、私の屋敷改革にも口出しは最小限でお願い」


 一拍置いて、彼女は続けた。


「……お互い、気持ちよく“利害”で付き合いましょ?」


 しばしの沈黙。

 アレクシスはわずかに笑った。


「本当に変わったな。……まあいい、今の君は“見ていて飽きない”」


「それ、褒め言葉と受け取っておくわ」


 二人の間に、短く火花のような気配が走った。


 そして晶子は、さらなる“屋敷改革”のため、動き出す。

 侯爵アレクシスの視線がどれだけ彼女に向けられていようと──彼女が見るのは、前だけだった。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 予算が正式に下りると、ティエナ──いや晶子は即座に動き出した。

 屋敷の修復計画に沿って、老朽化の目立つ部分の洗い出し、必要な工具や備品の発注、職人の選定に至るまで、彼女の采配は的確で迷いがなかった。


「ここは床板が浮いてるから張り替えね。あと、ここの窓枠、金具の緩みがある……」


 現代日本の価値観と労働感覚を持つ彼女にとって、作業の効率化は何より重要だった。現場にいる職人たちとも積極的に話し合い、必要ならメモを取り、実際に手伝うことさえあった。


「みんなの仕事の邪魔にならないようにするから、遠慮なく作業してちょうだいね」


 使用人たちへの配慮も忘れず、修復活動が混乱なく進むよう細かく調整を続けていた。

 そして──その様子を「視察」と称して顔を出す者がいた。


「ふむ、思ったよりも本格的だな」


 侯爵アレクシスだった。


 わざわざ仕立ての良いジャケットを羽織り、革靴のまま工事現場に顔を出す彼の姿は、正直言って浮いていた。しかし、彼はそれを気にする様子もない。


「侯爵様、お足元にお気をつけて。埃が服に付きますよ?」


 晶子は手にしていた設計図を広げたまま、皮肉混じりの微笑みを返した。


「俺の屋敷だ。視察に来るのは当然だろう」


「ええ、もちろん。“干渉”でなければ歓迎するわ」


 そう返しながらも、晶子は心の中で苦笑していた。


(どう考えても視察の頻度が高すぎるんだけど……)


 初日は数歩離れた場所から静観していたアレクシスだが、日を追うごとに少しずつ距離を詰め、ついには職人に質問をするまでになった。


「この接合部、角度が甘い。補強し直すのか?」


「え、あっ……はい、奥様のご指示で……」


 明らかにアレクシスの存在に緊張する職人をよそに、晶子はさらりと間に入った。


「侯爵様、ご心配なく。現場の監督はこちらで万全です。必要なら報告書をご用意しますが?」


「……いや、そこまで言うなら任せよう」


 どこか不満そうに言いながらも、それでも彼は翌日も姿を現した。


(まったく、気になるなら気になるって言えばいいのに)


 晶子はそんな彼の不器用さを“可愛い”とは思わなかったが──“面倒くさい”とも思わなかった。不思議と、その存在が現場の緊張を引き締めているようにも思えた。


 そして、その日の作業が終わる頃。


「……しかし君、本当に変わったな」


 ぽつりとアレクシスが言った。


「そうかしら? 私は、ただ“好きなやり方”でやってるだけよ」


「それが前と違うと言ってる」


「それが“良い変化”って意味なら、ありがとう。違うなら──放っておいて」


 侯爵はそれに何も返さなかった。ただ、立ち去る前にふと足を止めて一言だけ残した。


「……完成を楽しみにしている」


 その背中を見送りながら、晶子はふと笑った。


(そう、見てなさい。あんたの屋敷、最高に効率的で快適な空間にしてみせるんだから)


 そしてその笑みは、かつての“婚約破棄された貴族令嬢”のものではなく──

 一国の侯爵家に新しい風を吹き込む、“改革者”のそれだった。




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