第10話
夜の帳が別荘を静かに包み込んでいた。
月明かりが差し込む書斎の窓辺で、晶子は手鏡の光をじっと見つめていた。
鏡の中には、今日の使用人会議で出た意見の数々が、簡潔な文字でまとめられていた。
「水道管の修理」「食器室の換気不良」「人員配置の見直し」──どれも見落とされてきた“生活の綻び”だった。
晶子はそれを一つひとつ読みながら、小さく笑った。
「俄然やる気が出てきたわ……!」
言葉に力が宿る。
彼女の脳裏には、現代での苦い記憶がよぎっていた。
──パート勤め。
誰もが黙っていた職場で、晶子だけは改善案や工夫を口にした。
でも返ってきたのは感謝ではなく、「出しゃばり」と「空気が読めない女」のレッテルだった。
陰口、いじめ、疎外。
それでも、言い返すことは忘れなかった。だから尚更、居場所はなくなった。
「気づけば、責任押しつけられて辞める羽目になったっけ……」
母を看取り、気づけば一人きり。
転職活動では「年齢」と「空白期間」で門前払いが続いた。
「……そんなタイミングで、こっちに来たのよねぇ」
書斎の壁に掛かった大きな鏡に向かって、晶子はにやりと皮肉げに笑った。
「ティエナさん。私、何とかやっていくからね。あなたが捨てた命──無駄にはしない」
力強く頷き、ペンを走らせる。
屋敷の改善計画と、今後の人員再編、そして彼女自身のビジネス構想──“ティエナ”ブランドの立ち上げに向けたメモまで、びっしりと書き込まれていく。
一方その頃。
アレクシス・ヴェルハルト侯爵は、夜の書類仕事を終えた執務室で、紅茶を口にしていた。
その横には、屋敷の執事長ヘルマンが立っていた。
「……使用人たちが妙に落ち着きません。何か、空気が変わっております」
「……ほう?」
アレクシスは茶器を置き、椅子にもたれかかった。
「何かあったのか?」
「今朝、奥様が……“使用人会議”なるものを開かれました」
「……なんだと?」
「食堂に全員を集め、意見を求め……実際に、それをメモに取られておりました」
「誰の許可で?」
「……恐らく、どなたの許可も取っておられません」
アレクシスは軽く目を伏せ、しばらく黙った。
──あのティエナが、使用人を動かす?
かつては声も出せず、陰で泣いていた令嬢が。
今や、屋敷の労働環境を把握し、働き手の言葉を拾い、率先して改善に動いている。
しかも、誰の指示もなく──自らの意志で。
「……ふん」
侯爵は唇の端をわずかに持ち上げた。
「面白い女だ。いつの間に、そんな牙を持った?」
だがその笑みに、油断はなかった。
彼の目は冷たく光を宿しながら、視線を窓の向こうへと向ける。
「“支配されるだけの女”ではなくなった、ということか……」
その声は、独り言とも警告ともつかぬ響きで宙に溶けていった。
――翌朝。
侯爵は執務室の机に、届いた報告書を見つける。
“夫人による使用人再編案”
“補修必要箇所のリスト”
“屋敷再構築計画”
どれも、目を疑うほど実務的で明晰な提案だった。
アレクシスはその束を静かに見下ろし、指で一枚をめくる。
──明らかに、“見過ごせぬ存在”になっていた。
「ティエナ、お前……何を目指している?」
その問いに、誰も答えは返さない。
だが、屋敷に新しい風が吹いていることは、侯爵とて感じていた。
しかもそれは、かつて自分が与えようともしなかった「生きた熱」だった。
侯爵の瞳に、淡く苛立ちと興味が入り混じる。
「……妻としての価値を超えてみせるつもりか?」
それが脅威になるのか、それとも──
アレクシス・ヴェルハルトは、初めて“ティエナ”を個人として意識し始めていた。




