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第9話

 ある朝、屋敷に小さな騒ぎが起きた。


「本日午後、使用人全員は食堂に集合のこと。欠席は許されません」


 新しく雇われた専属メイド・フィオナが、各部署にその連絡を伝え歩く姿に、使用人たちは眉をひそめた。


「……全員、だと?何の用だ」


「まさか、解雇通告……?」


「いえ、侯爵様の命ではないそうです。“奥様のご意向”とか」


「奥様……?」


 騒めきが屋敷中に広がった。

 王子に捨てられた令嬢。侯爵の飾り物。冷たい屋敷に無力に置かれていた“あのティエナ”が、自ら使用人を集めるなど、聞いたこともない。


 午後。食堂の長卓に、執事長ヘルマン以下、使用人たちが一様に緊張した面持ちで並んだ。厨房係から庭師、メイド、書庫係まで、全員が顔を揃えている。普段、貴族の“奥様”が立ち入るような場ではない。


 やがて、ドアが静かに開いた。


 入ってきたのは、令嬢ティエナ──晶子だった。淡い藤色のドレスに身を包み、背筋をすっと伸ばして歩いてくる姿は、気品と迫力を併せ持っていた。


 使用人たちが反射的に頭を下げると、晶子は微笑みながら軽く頷いた。


「今日は集まってくれてありがとう。時間を取らせて悪いわね。でも、どうしても聞いておきたいの」


 そのまま彼女は、使用人たちの前に立ち、椅子に座ることもなく話し始めた。


「……この屋敷には、まだ知らないことがたくさんあるわ。私も、皆さんも。お互いに遠慮と不信で、まともに顔を合わせたことすらなかった。でも、それじゃ何も変わらない」


 晶子は手元のメモを掲げる。


「これは、私が屋敷を点検して気づいた改善点。そして──今日は、皆さんからも意見を聞きたいと思っています。不便なこと。不公平なこと。気づいたこと。何でもいいわ」


 その言葉に、食堂内は静まり返った。


「……え?」


「あの、“ご意見”とは……我々のですか?」


「ええ、もちろん」


 晶子は微笑む。


「黙って従うだけが仕事じゃない。皆が快適に、誇りを持って働ける場所にしたいの。だから――教えてちょうだい。あなたたちが、何に困ってるのか」


 ──沈黙。


 使用人たちは、互いに視線を交わしながら、信じられないという表情で彼女を見つめていた。

 まるで、別の世界の人物が降りてきたようだった。


「奥様、それは……侯爵様のお許しを?」


 執事長ヘルマンが、おそるおそる問う。


 晶子は、肩をすくめるように笑った。


「いいえ、特には。ご主人様の許可がないと呼吸もできないなんて、そんなルールはないでしょう?」


 使用人たちの間に、ざわめきが広がる。


「……なんて女主人だ……」


「前代未聞だよ……」


「けど、ちょっと……かっこいい」


 晶子は動じなかった。


「今日だけで全部は無理だろうから、今後も定期的にこういう場を設けるつもり。言いたいことがある人は、手を挙げて」


 最初に手を挙げたのは、年配の給仕係だった。


「食器室の換気口が壊れたままなんです。夏場は暑くて、倒れる者も出そうでして……」


「よし、それは優先修理リストに加えるわ。他には?」


 少しずつ、手が挙がっていく。


「洗濯室の水道が詰まり気味です」


「庭の道具置き場が崩れてて、怪我しそうです」


「厨房の担当表、見直してもらえませんか。人員の偏りがあって……」


 気づけば、食堂はにぎやかな意見交換の場と化していた。


 晶子は一つひとつ丁寧に頷き、手鏡──Ducere(ドゥケレ)にこっそり指でメモを書き込みながら、全てを記録していく。


 ──こうして、冷え切っていた屋敷に、小さな“風穴”が開いた。


 その夜、使用人たちは囁き合った。


「今までの奥様とは、別人みたいだな」


「変わったんじゃない。生まれ変わったのさ。侯爵夫人じゃなく、“女主人”として」


 ──それは始まりだった。

 冷たい氷の中に一滴の熱が差し込んだ瞬間。

 この屋敷は、ゆっくりとだが確かに、動き始めていた。

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