プロローグ
伯爵令嬢ティエナ・エルバレストは、誰もが羨む存在だった。
凛とした佇まい、気品ある振る舞い、そして──次期国王と目される王子レオニスの婚約者という立場。
王子の誕生日を祝う盛大な夜会、輝くシャンデリアの下で、彼女の未来は約束されたかのように見えた。
だが、崩壊はほんの一瞬だった。
会場の中心で、ひとりの美しい少女が涙をこぼした。
公爵令嬢リリアーヌ・アーデルヴァイン。王子の幼馴染であり、 “社交界の薔薇”と呼ばれる華。
震える声で訴えた。
「……ティエナに、ずっと侮辱されていたの」
ざわめきが広がる。王子がティエナを見るその目は、信頼ではなく、疑念に濁っていた。
「ティエナ……リリアーヌになんてことをしたんだ。このような陰湿な行いをする者を、王室に迎えるわけにはいかない」
「ち、違います!私は神に誓って、我が家紋に誓ってリリアーヌ様に害など──」
「言い訳は無用だ。婚約は、破棄する」
まるで断罪のように。
舞踏会の場は凍りつき、誰もが一歩引いた。ティエナの訴えは誰の耳にも届かなかった。
後日公にされた虚偽の証言と、仕組まれた証拠。
潔白は闇に沈み、彼女はその夜、すべてを失った。
実家へ戻ったティエナに、両親は静かに語りかけた。
「しばらく田舎でお過ごしなさい……体を、心を休めるのです」
──そして運命は、そこからさらに大きく動く。
避暑地で静かに暮らしていたある日、届いたのは突然の求婚状。
差出人は、アレクシス・ヴェルハルト侯爵。
若くして爵位を継いだ男。容姿端麗、冷徹非情、愛人が絶えず噂される貴族。
「政略」「保護」「名誉回復」──誰もがそうささやいたが、ティエナに選択権はなかった。
ヴェルハルト侯爵家に嫁いだティエナを待っていたのは、冷たい屋敷と無表情な使用人たち。
侯爵はほとんど口を利かず、夜ごと愛人を抱く姿が廊下の奥に消える。
社交界では「王子に捨てられた哀れな女」と陰口を叩かれ、ティエナは笑顔を忘れていった。
──そして、ある晩。
彼女は自室の机に遺書をしたため、震える指で小瓶の毒を口に含んだ。
「さようなら……私の人生」
その瞬間、鏡がふわりと光を放った。
世界が、揺れた。
*
東京、真夏の下町。
下北晶子は、職も住処も失い、猛暑の中を歩き続けていた。
「暑い……面接、受からないなぁ。今日もまたマンガ喫茶、行かなきゃ……」
誰も気づかない、誰も気に留めない日々。
履歴書が汗でにじみ、コンビニの冷気を横目に見ながら駅前で立ち尽くしていた。
そして、気が遠くなるような眩しさとともに──意識を失った。
次に目を覚ましたとき、彼女は見知らぬ世界にいた。
豪奢な天蓋付きのベッド。刺繍の入ったドレス。部屋を満たす薔薇の香り。
「……どこ……ここ?」
そして鏡に映ったその顔は──見知らぬ、だが、あまりに美しい少女の姿だった。