98話
“サク”は見知らぬ少女を前にして、呆然と立ち尽くした。
少女は一歩前に進み出ると、にこりと微笑んで言った。
「こんにちは」
「こん、にち……は?」
“サク”は首を傾げた。少女は青い瞳をぱちくりさせた。
「“こんにちは”って言葉、知らないの?」
“サク”はこくりと頷いた。
「“おはよう”は?」
「知ってる。朝、お母さんに言うから」
「じゃあ、“こんばんは”は?」
「……知らない」
「ふぅん。“こんにちは”はお昼にするあいさつで、“こんばんは”は、夜にするあいさつだよ。今はまだお日様が出ているから、“こんにちは”」
「あいさつ……」
「誰かに会ったら、まずあいさつをするの。……あっ! まだ初めましてのあいさつをしてなかった!」
少女は背筋を伸ばすと、またにこりと微笑んで言った。
「初めまして。わたしはアサヒ」
“サク”は戸惑いながら、真似をするように言った。
「初めまして。僕はサク」
「よろしくね、サク!」
それからアサヒは、毎日この場所へやってきた。晴れの日も、雨の日も、色とりどりの花が咲き誇る草原で二人は話をした。
「わたし、ここへ来るのをいつも楽しみにしているの。だってここは、町じゅうでわたししか知らない“秘密の花園”だから」
「秘密の花園?」
「うん。メイさんに、特別に招待されたの。ここにはわたししか来られないんだって」
「君以外にも……“人”がいるの?」
アサヒはきょとんとした顔をした。
「もちろん。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、隣の家のおばさん、パン屋のおじさん……数えきれないくらい、町にはたくさんの人がいるよ」
“サク”にとって、アサヒの話はいつも新鮮で、知らないことばかりだった。
自分の暮らしている家と、その周囲に広がる野花の生い茂る草原。この広くてちっぽけな世界の外に、たくさんの人がいるなんて……。
自分はどうしてその人たちに会えないのだろう。どうしてそこへ行けないのだろう。
アサヒと話す度に、“サク”の頭の中には無数の疑問が泡のように浮かんだ。
アサヒはいつも日が沈みかけると、「また明日」と言ってどこかへ消えた。“サク”は寂しさを感じながらも、明日がやってくるのを心待ちにした。
その日の夜遅く。家の中の、狭い廊下の先にあるドアから父がやってきた。父はこうして時々夜になると、“開けられないドア”を開けてやってくるのだった。
青白い肌。くぼんだ目。やせ細った手。その手の甲にある、大きな赤紫色のあざ。
いつも暗い廊下の先からやってくるこの男を、“サク”は恐れていた。言葉を交わした回数は数えるほどしかなかったが、だからこそ、その口から発せられる言葉には、この家を押し潰しそうなほどの重みがあった。
まだ小さかった頃、“サク”は父がやってくるドアを開けようとしたことがあった。つま先立ちになって、取っ手に手を伸ばし、懸命に引こうとした。だが、どれだけ力を込めて引っ張っても開かなかった。
びくともしない取っ手にぶら下がっていると、突然ドアが開き、“サク”は尻もちをついた。視線を上げると、恐ろしい目で自分を見下ろす父の姿があった。父は言った。
「このドアは、絶対にお前には開けられない」
その日以降、“サク”はそのドアに決して近寄らなかった。ドアも、父も、“サク”にとっては近づくことも恐ろしく、なおかつ絶対的な存在だった。
母が“サク”を見る時のような優しい目で、父が母を見ている時ですら、畏怖の念は消えなかった。
「何か変わったことはないか?」
父は汚れもシワもない真っ白なシャツのボタンを外しながら、母に尋ねた。
「いいえ、何も」
「困ったことは?」
「いいえ」
「そうか。それならいい。今夜はもう少しこちらにいられる。君とゆっくり話がしたい」
母はにこりと微笑んだ。
「わかりました。……サク」
「はい」と“サク”は答えた。何を言われるのかは、明白だった。
「あなたはもう寝なさい」
“サク”は「おやすみなさい」と言って、傷だらけのベッドとタンスがあるだけの自分の部屋へ移動した。
ベッドに横になる。しかし、昼間のアサヒとの会話で浮かんだ疑問が気になって、なかなか寝つけなかった。
明日母に尋ねてみようか。しかし母は、初めてアサヒがここへ来た日、「あの子のことは、お父さんには絶対に秘密よ」と言った。
父に知られてはいけないということは、アサヒと話すことも、アサヒと話して色々な疑問を持つことも、本当はいけないことなのだ。自分はいけないことをしているのだ。もしも父に知られたら……。
“サク”は自分に向けられた、本当はどこを見ているのか分からない視線と、冷たくて硬い石のような声を思い出して、不安と恐怖に駆られた。穴の開いた毛布を頭まで被り、破れたシーツの上で小さく体を丸めた。
朝になると、昨夜の恐怖を全く覚えていないかのように、心地よい気分で“サク”は目を覚ました。
アサヒに会える。そう思うと、自然と元気がみなぎった。
アサヒはとにかく花が好きなようだった。ここへ来ると、いつもうっとりとした表情で花を眺めていた。
「君は本当に花が好きなんだね」
「うんっ。どうしてなのかはわからないけど、花を見ているとすごく幸せな気持ちになるの」
幸せな気持ち……。“サク”は自分自身が、今まさしくそんな気持ちになっていることに気がついた。なぜだろう。ここに咲いている花なら、ずっと前から知っているのに。
「ねぇ。サクはどの花が一番好き?」
唐突な質問に、“サク”は数回まばたきをした。
「どの花も素敵だけど、“特別”ってあるでしょ? ……そうだ! せーので指を差そうよ。せーのっ」
“サク”が咄嗟に指差した花と、アサヒが指差した花。それは、同じ花だった。
小さくて青い、可憐な花。
アサヒが小首を傾げる。
「どうしてこの花を選んだの?」
“サク”は素直に答えた。
「君に似てるから」
アサヒは青い瞳をぱちくりさせると、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、“サク”の脳裏に強く焼きついて離れなかった。
その晩。珍しく昨日に続いて、父がやってきた。だが不思議なことに、“サク”は父に対して昨日ほど恐怖を感じなかった。頭の中も、胸の中も、アサヒのことでいっぱいだった。そのせいで他の感情が薄れていたのだ。
父は汚れもしわもない真っ白なシャツのボタンを外すことなく、母に尋ねた。
「変わったことはないか?」
「いいえ」
「困ったことは?」
母はふふっと小さく笑った。
「いいえ。昨日も答えたじゃありませんか。昨日の今日で、何が変わると言うんですか?」
父は真剣な目を母に向けた。
「……君に、話がある」
母は束の間沈黙すると、静かな声で言った。
「わかりました。……サク」
“サク”は先回りして、「おやすみなさい」と言った。そそくさと自分の部屋へ移動する。ガラスの破片のような鋭い視線を背中に感じた気がした。
翌朝。傷だらけのテーブルでいつものように用意された朝食をとっていると、突然、母が微笑みながら言った。
「あの子に会うのが、そんなに楽しみ?」
“サク”は急速に顔や体が熱くなるのを感じながら、脳裏に映ったアサヒの姿を、目の前の母に重ねた。
「うん。早く会いたい。もっとたくさん会いたい」
「そう。……ねぇ、サク。あの子に何か贈り物をしたら?」
「贈り物?」
「あの子の好きなもの、知ってる?」
「花。小さくて、青い」
「小さくて青い花……。でも、お花はすぐに枯れてしまうし……。そうだ!」
母はパチンと両手を叩いた。
「いいことを考えた!」
母はすぐにテーブルを片づけると、寝室から、少し古びた光沢のある青いドレスと、装飾の取れた髪飾りと、錆びた針と、刃の欠けたはさみを持ってきた。
「このドレスを使ってお花を作るの。まずは、ここから糸を引っ張って……」
母は器用にドレスの裾を解いて、糸を取った。
「それから小さく布を切って、花びらの形にして、こうして集めて縫い合わせれば…………」
母は針に糸を通すと、真剣な表情で手先を動かした。
「はいっ! 小さなお花のできあがり!」
“サク”は思わず「すごい」と感嘆した。
「やってみなさい。あなたならきっとできるから」
“サク”は母の手順通りに、見よう見まねでやってみた。最初は少し苦戦したものの、すぐにコツを掴み、小さな花を一つ作り上げた。
母はふふふと声を押し殺して笑った。
「やっぱりサクはわたしに似たのね。お父さんに似なくてよかった!」
“サク”は目をぱちくりさせた。母はまたふふっと短く笑った。
「気にしないで。さぁ、たくさん作りましょっ」
小さな花がいくつもできると、母は装飾の取れた髪飾りの金属の台座に、完成した花たちを糸でくくりつけた。
「これをあの子にあげなさい。壊さないように気をつけるのよ。一度壊れたものは、“直せ”ないのだから」
「うん。ありがとう、お母さん」
母から受け取った青い花の髪飾りを、“サク”は大切に両手で包み込んだ。
昼食後、母は「少し疲れたから、横になるわね」と言って寝室へ向かった。
“サク”は一人で家の周りをうろうろしながら、アサヒがやってくるのを待った。心がそわそわして落ち着かず、いつものようにじっとしていることができなかった。
ようやくアサヒが姿を現した時、“サク”は喜びと緊張で足をつりそうになった。
「こんにちは」
“サク”は震える声であいさつをした。
アサヒは元気のない声で、小さく「こんにちは」と返した。
「どうかしたの?」
いつもと違うアサヒの様子に、“サク”は戸惑いを隠しきれずに尋ねた。
「……実はね、明日引っ越すことになったの。おばあちゃんが病気で倒れて、おじいちゃんだけじゃ大変だから、家族で南の方の町へ行くの。だから、メイさんに教えてもらった秘密の通路も、もう通ることができなくなってしまうの」
「それってつまり、ここへ来られなくなるってこと?」
「……うん」
「嫌だ! 絶対に嫌だ!」
“サク”は感情が高ぶるままに、声をあげた。
「サク……」
「君と会えなくなるなんて、絶対に嫌だ!」
自然と両手に力が入る。あやうく右手に持っていた髪飾りを握りつぶしそうになったことに気がついて、“サク”は慌てて力を抜いた。
呼吸を整えようとする。だが、胸がつまってうまく空気を吸えない。涙が溢れて前が見えなくなる。それでも、この髪飾りだけは絶対に手渡したいと思った。
「お願い。どこへ行っても、僕に会いに来て。待ってるから。ずっと待ってるから」
“サク”は声を震わしながら、青い花の髪飾りをアサヒに渡した。アサヒは優しく手のひらでそれを受け取ると、すぐに左耳の上につけた。
「……どうかな?」
“サク”は目から湧き出る涙を必死にぬぐって、アサヒを見た。
「すごく、似合ってるよ」
アサヒは嬉しそうに笑った。その笑顔の眩しさに、“サク”は涙を枯らして微笑んだ。
アサヒと別れた後、“サク”は悲しみに打ちひしがれながら、髪飾りを渡したことを母に話した。
「大丈夫よ。きっとまた会えるから……」
母は微笑みながら、自分の頭に巻いていたスカーフを解いて“サク”の手首に巻いた。
母が何のためにそうしたのかは分からなかったが、“サク”は少しだけ安らぎを取り戻した。
それから何日ものあいだ、“サク”はアサヒを思って悶々とした日々を過ごした。
脳裏に焼きついたアサヒの笑顔を母に投影する度に、悲しみはどんどん大きくなっていった。
母は母、アサヒはアサヒだった。姿は似ていても、別の人間だった。母はアサヒの代わりにはならなかった。
父がやってきた時には、“サク”は抱いている悲しみを悟られないように、すぐに「おやすみなさい」と告げて自室に引きこもった。
時々夢にアサヒが出てきた。それは喜ばしいことだったが、代わりに朝がとても憂鬱になった。
昼過ぎまでベッドの上でじっとしていることが多くなった。
ある日、腹が空いてベッドから起き上がった“サク”は、母がどこにもいないことに気がついた。しかし、これまでにもたまに姿の見えないことがあったため、あまり気にしなかった。食料庫にあった野菜をかじって空腹を満たし、じっと一日が過ぎるのを待った。
陽が沈み、夜になって、“サク”は自分のベッドに入ろうとした。夢の世界へ行けば、またアサヒに会える……。
自然と目が窓の外へ向く。アサヒと過ごした場所を見つめる。
雲が流れ、大きな満月が姿を現した。その白く光る月明かりが、何かを照らし出した。
水色のワンピース。華奢な手足。透き通った白い肌。垂れ下がった金髪の三つ編み……。
その毛先に留められた青い花の髪飾りが光り輝いた時、“サク”は外へと飛び出した。




