97話
――あの子を、生かしておくことはできない……?
どういう意味なのか、まるで理解できなかった。子どもの頭では難しすぎるのか? いや、そういうわけではない。
これは幻影だ。どこかの国の、偶然自分と同じ名前の幼い王子を通して見たり聞いたりしているだけで、思考しているのは紛れもなく十五歳の自分自身だ。
堰き止めた川の水が流れ出すかのように、ラゴウが再び口を開いた。
「魔法使いには、絶対に破ってはならない掟がある。“一の位”の魔法使いは、決して他の魔法使いと婚姻してはならない――。
“一の位”と“二の位”の魔法使いは、代々この国の王と、その子に引き継がれる。子は必ず親の魔力をわずかに超えて生まれ、子の魔力が発現した瞬間に“一”と“二”は逆転する。
他の位の魔法使いの魔力の大きさは、次の世代へ引き継がれても変わることはないが、“一”と“二”の魔法使いは世代を追うごとに少しずつ増幅する。“一の位”の魔法使いがかけた魔法は、その者の子が生まれない限り解くことはできない。つまり、“一の位”の魔法使いは、この国で絶対的な力を持つ者ということになる。
……あの子に宿った魔法使いの“魂気”は、君に宿った“三の位”の魔法使いの“魂気”と接触し、計り知れない大きさにまで魔力が増幅した。あの子は、“禁忌を犯せる”ほどの魔力を持っている」
メイは張り詰めた声で返した。
「それがなんだというのですか? サクは一昨日二歳になったばかりです。あの子に魔法は使えません」
「“今は”そうだ。だがあの体には、一瞬でこの国を滅ぼせるほどの力が宿っているんだ」
「素直で利口な愛しい我が子が、この国を滅ぼすとおっしゃるのですか?」
「成長したらどうなるか分からない。よい人間に育つという保証はない」
メイはうつむきながら拳を握りしめ、無理に絞り出したような声で言った。
「……だから、殺すというのですか? 我が子を」
ラゴウは数秒沈黙すると、力のこもった声で答えた。
「父が生前に作った魔力測定器がある。通常は魔力の発現前に使用することはない。測定しても、本来持っている力の一割に満たない数値しか表示されないからだ。
私はさきほど、眠っているあの子に魔力測定器を使用した。機械は一瞬、表示できる数値の最大値を表示して、沈黙した。二度と息を吹き返すことはないだろう。
あまりにも強大な力を持つ人間が、この国の後継者となってはならないのだ。仮に父のように、自らの魔力の限界を追求するような人間に育ったら……この国は終わりだ。
今ならまだ間に合うんだ。魔力が発現する前にあの子がいなくなれば、私は別の後継者を持つことができる。君は魔法使いであることを隠しながら、その子を私たちの新しい子として育てればいい」
メイが無言でゆっくりと立ち上がる。壁際のチェストへ向かい、引き出しを開ける。中から銀色に光るナイフを取り出して、ラゴウの元に戻った。
「あの子を殺すというのなら、先にわたしが死にます」
メイはナイフの刃先を自分の喉元に突きつけた。
「や……やめろ……やめるんだ」
「親は子よりも先に死ななくては」
「やめてくれ!!」
豪奢な部屋に叫喚が響く。
起こしてしまったと思ったのか、二人は同時に憔悴した顔をこちらに向けた。
怖い。不安と恐怖が波のように押し寄せてくる。瞬く間に胸が苦しくなる。涙が溢れ、声が溢れ、全身がジタバタと暴れ出す。コントロールが効かない。
これは幻影だ。泣き喚いているのは幼い王子で、自分じゃない。
「サク……」
メイはナイフを床に落とすと、ふらつきながらも急いでこちらにやってきた。小刻みに震える手が背中に触れる。
「大丈夫よ。あなたはわたしが守るから。大丈夫、大丈夫」
優しい声、優しい温もり。嵐が過ぎ去ったかのように、心が落ち着いていく。全身の筋肉が緩み、力が抜けていく。眠りの泉に落ちていく。
また場面が切り替わった。
今度はメイの顔がすぐ近くに見えた。メイが腰掛けている椅子のすぐそばで、積み木で城を作って遊んでいたようだ。整然と、バランスよく積まれている。
メイが座っている椅子は、場面が切り替わる前に座っていたものと全く同じだった。ということは、ここはさっきと同じ部屋なのだろうか。確認するように少し首を振る。
花瓶に生けられている花、シーツ、テーブルクロスなど、いくつか異なる箇所が見られたが、それ以外は何もかも同じだった。
間違いなく、ここはさっきと同じ部屋だ。しかし、どうやら数ヶ月から半年くらいは時間が進んだようだった。
「君たち二人を、この国の外へ出そうと思う」
メイと向かい合っているラゴウが、真剣な声で言った。
「……どういうことでしょうか?」
「知っての通り、この国は代々の王たちが築き、強化してきた“壁の結界”によって守られている。結界の外にいる人間は、この国に入ることも、ましてやこの国の存在を認識することもできない。一方でこの国の人間も、通常は国の外へ出ることはできない。だが唯一、私の力があれば、結界に穴を開け、ここと外の世界を繋ぐことができる」
「外の世界……」
「郊外にある空き家を、魔法で一戸まるごと外の世界の人里離れた場所に移設し、この王宮内にある隠し部屋と繋ぐ。そして、私だけが自由に行き来できるようにする。もちろん、このことは誰にも知られてはならない。私と君だけの秘密だ」
「わたしとサクを、そこに幽閉するというわけですか」
「そうだ。君にはそこで、その子の魔力が発現しないように見張っていてほしい。生涯魔力が発現しなければ、“一の位”の魔法使いの“魂気”はそのままこの世界から消え失せる。私が死に、その子も死に、“一の位”と“二の位”の魔法使いは消え去るが、他の魔法使いたちが残る。
さらには近年、科学技術が飛躍的な進歩を見せている。昔ほど、魔法が絶対的な力ではなくなっている。だから王家が絶えたとしても、問題はない。この国は存続し、発展し続けるだろう」
「しかし、わたしとサクがいなくなったら、王宮の者たちが捜し回るのではありませんか?」
「当然生じる問題だ。その問題を解決するために、私は君たちの“身代わり”を用意することにした」
「身代わり?」
メイはハッとした様子で目を見開くと、上気した声を発した。
「いいえ、それはなりません! 善良な国民を殺すことは、罪のない子どもを殺すことは絶対になりません!」
「落ち着いてくれ。私は『誰かを殺す』とは一言も言っていない」
「……ごめんなさい」
メイはしおらしく肩をすぼめると、一瞬気にかけるようにこちらを振り向いた。
「それで、一体どうするというのですか?」
ラゴウは傍らに置いていた小さな革張りの箱をテーブルに載せた。
「これを使う」
蓋が開かれる。まばゆい光が発散する。
「これは……?」
「ベルだ。このベルを鳴らしながら命じれば、言葉を聞いた者を洗脳することができる。以前、父がこれとよく似た魔道具を作っていたが、これにはそれよりもさらに強力な魔法をかけている。現在や未来だけでなく、過去にも作用し、記憶を都合よく塗り替えることができる。
……南の静養地の近くに、ひと月前に夫を亡くした身寄りのない婦人が住んでいる。その者の息子がこの子と同じ年齢だ。まずはその二人をこのベルで洗脳し、君たちの身代わりとする。それからその者を知るわずかな人間と、君たちを知る人間を集め、身代わりの二人が本物の王妃と王子であると認識させる」
「なるほど……。しかし、それだけでは問題があります。わたしは王妃となる前から、“タシル”の奏者として活動してきました。この王宮の者、両親、親戚、友人知人以外にも、わたしのことを知っている人たちがいます。その人たちはどうなさるのですか?」
「君には最後に一度だけ、演奏会を行ってもらおうと思っている。君の顔まではっきりと覚えているのは、熱心に応援してくれていた人たちだろう。その人たちを秘密裏に招待するんだ。
その演奏会で、君は最後に、指の不調を理由に今後はタシルの演奏をやめると宣言する。そのあとに、私と君の身代わりの女性が壇上に出ていき、このベルを使用する。仮に抜かりがあったとしても、見つけて洗脳すれば問題ない」
「うまくいくでしょうか?」
「心配する必要はない。君は演奏会のことだけを考えていればいい」
「……わかりました。少し、練習しても?」
ラゴウは表情を緩め、慈しむような目をして頷いた。
「是非、聞かせてほしい」
メイは一瞬こちらに向かって微笑むと、立ち上がってピアノに似た楽器の前に座った。
夜風のような、涼やかで落ち着いた曲が流れ出す。まぶたがだんだん重くなる。またもや眠りの泉に落ちていく。
傷だらけの椅子やテーブル。欠けた食器。破れたカーテン。
豪奢な部屋がガラリと変わって、あまりにも殺風景な部屋が目に映った。
どうやらまた別の場所へ移動したようだ。
さっき見た幻影で、ラゴウは二人をどこかに幽閉すると言っていた。ここが、その場所ということなのだろうか。
それにしても、一体どれだけの年月が経ったのだろう。
ほつれたセーターの袖口から伸びた手は、骨ばっている。赤子でなければ、幼児でもない。この違和感のなさは、ずばり自分と同じくらいの年齢。十五歳前後ということだろう。
つまり、少なくとも十年以上はここで暮らしているということか……。
再び周囲を見回す。この景色、見覚えがある。
前に夢で見た。ふと、ユーリの言葉が脳裏に甦る。
『単なる夢じゃなくて、お前の記憶なんじゃねぇか?』
記憶? そんなはずはない。そんなはずは……。
その時、突然外から声がした。耳がピクッと反応する。
小鳥のざわめきに混ざって、優しい声が聞こえる。
メイの声。それから、鈴の音のようなかわいらしい声。よく知っている声。
自然と玄関へ足が向く。閉ざされたドアを開ける。
柔らかな風が体を包み込んだ。その風に誘われるままに、足を踏み出す。
赤、青、白、黄。色とりどりの花が咲き誇る草原へ。
「サク」
メイは奇妙な微笑をたたえて、振り向いた。その傍らには、メイによく似た容姿の少女がいた。




