96話
こちらを向く銃口。円形の物体。黒い。暗い。闇に吸い込まれそうになる。
「サク!!」
次の瞬間、ドンッと背中に衝撃を受けて、サクは前方に倒れた。ウェーブがかった金髪が、首筋にするりと落ちる。その直後、
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
耳をつんざくような悲鳴を聞き、サクは顔を上げてラゼルを見た。拳銃がゴトッと音を立てて床に落ち、その場で半回転した。
ラゼルの右腕からぼたぼたと血が流れている。艶やかな水色の衣が、赤く染まっている。
「ちっ、外したか」
サクはハッとして、急いで体を起こして振り向いた。
――三発目。
ユーリは右手を開いて下に向けた。ガチャガチャッと、何かが床にぶつかった音がした。ユーリの手には何も残っていない。見えない銃は見えないまま、バラバラに砕け散ったのだろうか……。
ラゼルは右腕を押さえ、苦しげに息を吐きながら「誰か! 誰かいないか! ナイラ!!」と叫んだ。だが、扉は開かない。
「……そうだ……今日は誰も寄せつけぬようにと命じて……」
「まぬけだな」
ユーリが呆れた表情で近づき、ラゼルの足元に落ちた拳銃とベルを取り上げた。ユーリはベルをサクに向けて言った。
「これにかかっている魔法を解けば、親父たちの洗脳も解けるってことだよな?」
サクは頷いた。ベルの持ち手を握る。時計の針は回らなかった。
このベルに魔法をかけた人物が誰なのか、定かではない。だが、解けない気はしなかった。
なぜ父は、このベルを使ったあと、すぐに魔法を解かなかったのだろうか? 未来を見通し、こうなることが分かっていて、あえて解かなかったのだろうか?
このベルのせいで死んでいった者たち……。この地に縛りつけられたユーリの父親たち……。
沸々と、怒りがこみ上げてくる。
――こんな魔法はいらない!!
その瞬間、ベルはその温もりを失った。
サクは落ち着いた声で「アサヒ」と呼びかけた。アサヒは頷くと、ラゼルに近寄り、右手でそっとその体に触れた。
柔らかな光のベールに包まれたラゼルは、驚いたように大きく目を見開いた。
アサヒはポケットの中から青い花の髪飾りを取り出すと、左耳の上に着けて言った。
「わたしが誰だかわかりますか?」
ラゼルの表情がみるみる強張り、畏れに変わっていく。
「わたしは、アリス・エイオス。二百年の時を経て、この地に戻ってきました。あなたの犯した罪は大変重い。神も赦しはしないでしょう」
「そ、そ……そんなはず……」
「犯した罪は無かったことにはなりません。あなたは死後、神々の裁きを受け、しかるべき場所に送られるのです」
「お願いします! お願いします! お赦しください。どうか、どうか!! 赦してください」
ラゼルは床に額を擦りつけ、アサヒに懇願した。アサヒはわざとらしく「はぁ」とため息をついて言った。
「仕方ないですね。神に交渉してみましょう。今から神と話をしますから、あなたはすぐにここを立ち去りなさい。決してここへ人を近づけてはなりませんよ。……それから、わたしがここへ現れたことも、誰にも言わないように。いいですね?」
ラゼルは「はいっ」と返事をすると、逃げるように扉に向かった。
「本当にまぬけなやつだな……。あれで族長とは」
ユーリは嘲るような目で見送りながら呟いた。アーロンがハッとした様子で言った。
「おい。親父たちの洗脳が解けたってことは、今頃大混乱に陥っているんじゃないか?」
ミリアが顔を青くして、「そうよ!」と叫んだ。
「急いでお父さんのところへ行かないと!」
「あぁ」
ユーリは力強く頷くと、サクとアサヒに向かって言った。
「お前たちの目的は別にあるんだろ?」
アサヒが「うん」と答える。
「……分かった。俺たちは先に行く」
ユーリたちが出ていく。扉が閉まる。元の静謐で、神秘的な空間に戻った。
研ぎ澄まされた冷たい空気が、サクの乾いた唇に触れた。
「見て」
アサヒがサクの腕時計に視線を向けて言った。
時計の針は、石の扉を指していた。二人で、ゆっくりと近づいていく。
「やっと、ここまで来たんだね」
アサヒは懐かしむような目で扉を見つめた。
「……うん」
「もうすぐだよ」
アサヒはそう言うと、サクの右手を握った。サクはその手を握り返すと、もう片方の手で扉の取っ手を掴んだ。ゆっくりと引く。
時計の針がくるくると回りだした。
――どこだ? ここは……。
真っ暗で何も見えない。けれど、不思議と安心感がある。柔らかな毛布に包まれているような感覚。心地よい温もりを感じる。
「――サク」
誰かに呼ばれた。そっとまぶたを開ける。目の前に、優しげな笑顔があった。青い瞳が愛おしそうにこちらを見ている。手を伸ばすと、ふんわりとした柔らかな金髪が、指の隙間に入り込んだ。
アサヒに似ている。だが、アサヒではない。もう少し年上の女性だ。
どこかで会ったことがある気がする。懐かしさを感じる。しかし思い出せない。この人は……誰だ?
ふと気づく。
伸ばしているこの手。小さくて、丸っこくて、まるで赤ん坊みたいだ。
自分の手だと認識しているが、これは違う人間の手だ。でも今、この人は確かに「サク」と呼んだ。
女性は小さなその手を優しく握って言った。
「あなたはとってもお利口さんね。かわいい、かわいい、わたしの赤ちゃん」
――何だ? 一体、何なんだ? なんで赤ん坊に?
その時、扉が開く音がした。足音が近づいてくる。懸命に体を捻って、そちらを向こうとする。
「おっと」
女性の腕から落ちかけた体を、近寄ってきた人物が支えてくれた。細くて頼りない、貧相な腕で。
その顔を見上げた瞬間、息が止まりかけた。
――ラゴウ。
大陸南部、アステールで見た幻影に出てきた人物。ゼニス王の棺に魔法をかけた男。
この棺だけが唯一、これまで時計の針が指したものの中で、父ではない人間が魔法をかけた物だった。
女性がニコニコと微笑んで、ラゴウに言う。
「今日は一日お忙しいと伺いましたけど……。お仕事の合間に、わざわざこの子に会いに来てくださったのですか?」
ラゴウは照れ隠しするように、コホンと咳払いをした。
「二人に会いにきたんだ」
「まぁ、嬉しい」
ラゴウと、朗らかに笑うアサヒによく似た女性。二人は夫婦だと確信した。
その直後、
――うわっ。
再び目の前が真っ暗になり、体がぐるんと一回転したような感覚に陥った。
気がつくと、たどたどしい足取りで床の上を歩いていた。ふらつき、前に倒れる。ゴツンとテーブルの脚らしきものが肩に当たった。
「危ない!」
誰かの叫び声が聞こえた。頭に大きな衝撃を受ける。しかし、痛みはさほど感じなかった。
そうだ。これは幻影なのだ。痛みは想像の範疇に収まるようだ。
「誰か! 誰か来て! 殿下が! サク殿下が!!」
――殿下?
あぁ、そうか。ラゴウはどこかの王国の王子だった。あの時見た幻影では、まだ妻はいない様子だった。
あれから何年か時が経っていることを考えると、今は王なのかもしれない。
そしてこの体は、ラゴウの子のもの。ということは、この子どもは王子なのか。一体どういうことなんだ。なぜ王子の体に? おまけに名前が自分と同じ「サク」とは……。
ぞろぞろと人が駆け寄ってくる。
「殿下!」「頭から血が!」「早く医者を呼べ!」
視界が暗い。意識がぼんやりとする。死にかけているのか? この王子は。
「医者では駄目だ。間に合わない。出血が酷すぎる」
「傷を手当てする魔道具があるはずだ。殿下に対してならば使用してもよいはずだ」
「どこにある!?」
「確か、陛下がお持ちのはずだ」
「ただちに陛下を呼んで参ります!」
「――サク!!」
突然、駆け寄ってきた誰かに全身を強く抱きしめられた。声の主は、あの金髪の女性。つまり母親だった。
その背後から、別の震える声がした。
「メイ様……申し訳ございません。私が殿下から目を離してしまったせいで、こんなことに」
――メイ様……。母親の名前は「メイ」というのか。
メイは小さなこの体を強く抱きしめながら、絞り出すような声で呟いた。
「お願い、早く来て……陛下……」
女官たちの駆け回る足音。しゃくりあげる声。
「わたしにも、お姉さまのように力があれば……」
喧騒の中で、メイは消え入るような声で言った。
生温かい血がまぶたの上に流れてくる。ハンカチのような布で、その血が優しく拭い取られる。
わずかに痛みを感じる頭にも、その“ハンカチ”が当てられた。
「お願い、この傷を癒して」
ふわりと体が浮き上がったような感覚がした。そっとまぶたを開ける。一瞬、柔らかな光のベールが見えて、消えた。
メイはまだ涙を流して震えている。その時、
「サク!」
ラゴウの鬼気迫った声が響いた。大きな足音を立ててやってくる。
「もう大丈夫だ」
ラゴウはメイの正面にしゃがむと、深い藍色の手袋をはめた手をこちらに向けた。が、頭に触れる寸前でぴたりと止まった。
ラゴウは大きく目を見開いたまま、硬直していた。顔色がみるみる失われていく。
一体、どうしたというのだろうか。
ラゴウはそのままゆっくりと首を回し、驚いた目をメイに向けた。
メイは震える手でハンカチを握りしめたまま、力の抜けたような、ほっとした笑みを浮かべていた。
突然、くるっと体が半回転するような感覚が襲う。また場面が切り替わるようだ。
今度は、最初の時ほど時間は経っていないようだった。
ここは、どこかの部屋のベッドの上……らしい。あまりにも広すぎるため、最初はベッドだと分からなかった。
ごろんと寝返りを打つ。あたりを観察する。周囲にある家具や調度品は、どれも繊細で手の込んだ作りをしていた。一点一点丁寧に、特別な人間のために作られた代物のようだ。
さらに奥へ視線を向けると、大きなグランドピアノのようなものが目に入った。しかしそれは、大陸西部の町ルバートで触れたピアノとは少し形状が違う気がした。胴体部分がやけに細長く、三日月のように湾曲していた。
そのピアノのようなものから少し離れた場所に、ラゴウとメイが向かい合わせで椅子に腰掛けていた。
「……君の姉は、将来有望な魔法使いだったと父に聞いたことがある。わずか五歳で魔力を発現し、一度も失敗することなく三種の魔道具を作り上げた。早熟と思われたが、彼女は同じ年ごろの子どもと変わらない、甘えたがりの普通の女の子だった。
“三の位”の魔法使いとして召し寄せた数か月後、夜中に王宮を抜け出し、事故に遭って亡くなってしまった。彼女は両親と、もうすぐ生まれてくる妹の元へ帰りたかったんだろう」
ラゴウの表情はよく見えない。しかし口調から、何やら深刻な話をしている雰囲気が伝わってくる。
「“三の位”の魔法使いは、君の姉のレイが亡くなってからずっと不在だった。そんなことはこの国の歴史上、一度もないことだった。
魔法使いは、“一の位”と“二の位”を除いて、国民の中から力を持つにふさわしい五人に魔力が与えられ、発現する。前任の者が亡くなると、次の満月の日に生まれた子に魔力が宿り、引き継がれる。……君は、レイが亡くなって数日後に生まれた。君が生まれた日は、満月だったか?」
「いいえ、違います。新月だったと両親は言っておりました。記録もあります」
「その記録は改ざんされたものだ。この国で、満月に生まれた子は仮に魔法使いでなくとも、特別な日に生まれた子として祝福される。満月だったと嘘をつく親はいても、新月だったと嘘をつく親はまずいない。――君の両親には、しかるべき理由があったのだろうが」
「……わたしが、姉の力を?」
「そうだ。受け継いだ。君は“三の位”の魔法使いだ。その右胸に現れたあざが、何よりの証拠だ。通常、魔法使いは十歳までにその力を発現させる。君の年齢まで発現しなかった例は過去にない」
「どうして、わたしだけ……」
「分からない。魔法使いの“魂気”に残った君の姉の思念が、君のためにずっと力を封じ込めていたのかもしれない……」
ラゴウは苦しげに息を吐いた。
「君が魔法使いだということは、まだ誰にも気づかれてはいない。私が駆けつけ、この手袋で息子の傷を治したと皆は思い込んでいる。だからすぐに問題になるということはない。しかし、このまま」
ラゴウは言い淀み、一度口を閉ざした。
「あの子を、生かしておくことはできない」




