91話
「なんだ……これは?」
サクは不自然なその小山を見上げながら呟いた。それはサクの身長よりも少し高いくらいで、バケツをひっくり返したような形をしていた。
「サク、こっち」
アサヒの呼びかけに、左を向く。山裾に沿って足跡が刻まれている。辿っていくと、
「ユーリ!」
サクは即座に倒れているユーリの元へ駆け寄った。瞬間、ハッと息を呑んだ。
ユーリの手に拳銃が握られている。その銃口から数メートル離れた場所に、一匹のオオカミが血を流して倒れていた。
「ユーリ! 今助け……ん?」
アサヒの間の抜けた声に反応して、サクはユーリに視線を戻した。
どこにも外傷はない。表情は至って穏やかで、まるで眠っているかのようだ。
しんと空気が静まる。タイミングよく、ユーリの鼻からすぅーっと息の出る音がした。
サクはユーリの胸倉を掴んで持ち上げると、鼓膜を破る勢いで叫んだ。
「起きろ!!」
ここへ来るまで、何度も叫んだせいで、サクの声は微かに掠れていた。その声で、目を覚ましたユーリに尋ねる。
「なんでこんな場所で寝てたんだよ」
ユーリは左耳に人差し指を突っ込みながら、眉間にしわを刻んで答えた。
「オオカミに襲われて、銃で撃ったところまでは覚えているんだが……」
「う〜ん。もしかしたら、その瞬間に緊張がプツンと切れちゃって、気絶しちゃったのかも。それにユーリ、枝をたくさん集めて、それからここまで歩いて来たんでしょ? 体力の限界がきて、そのまま寝ちゃったんじゃない?」
アサヒの推理に、ユーリは羞恥を隠すようにサッと顔を背けた。だが否定はしなかった。
サクは深いため息をついて言った。
「俺たちが見つけてなかったら、このまま凍死していたかもしれないんだぞ」
「あぁ……まさか二度もお前らに助けられるなんてな」
ユーリは膝や肘についた雪を振り払いながら立ち上がった。
アサヒが叱るような口調で言う。
「戻ったら、ぐるぐる巻きのロールケーキの刑だからね」
「ぐるぐる……?」
「しっかり暖かくして、しっかり休みなさいってこと!」
「母さんみたいなことを言うのはやめてくれ。……それより、早くここから去るぞ。血の匂いで他のオオカミがやってくるかもしれない」
ユーリは横たわっているオオカミの死体に目を向けた。琥珀色の瞳に、一瞬影が落ちる。
アサヒがその目を見て言った。
「だったら、雪をかけてあげてもいい? 雪で隠せば、血の匂いも消せるかもしれないし」
「あぁ……そうだな。そうしてくれ」
アサヒがシャベルでオオカミの死体に雪をかぶせているあいだに、サクはユーリに尋ねた。
「で、なんでお前はこんな場所まで来たんだ? 何か目的があったんだろ?」
ユーリは頷き、口を開いた。
「森へ入って、そこらに生えていた適当な雑木を切って枝を集めた。そろそろ引き揚げようかと思った時、ふと離れた場所にあった木が目に留まった。俺が枝を切ったのと同じように、その木の枝も刃物のような物で切られていた。断面は新しくもないが古くもなかった。
もしかすると、近くに俺たち以外の人間がいるかもしれない。こんな人里離れた場所に他の人間がいるとしたら、ソイツはおそらく“普通の”人間じゃない。そう考えた俺は、確かめるために森の奥へ進んだ。そうしてここへ辿りついた」
ユーリは淡々と答えると、背後にある不思議な山に目を向けた。
「これが何か分かるか?」
サクは無言のまま、怪訝な目で山を見た。ユーリが低い声で答えを告げる。
「盗賊の拠点だ」
サクはゆっくりと目を見開いた。全身に緊張が走る。
「だが、今は使われていないようだ。ここからさらに右へ回ると入口があって、中へ入れるようになっている。入ってみたが、もぬけの殻だった。……つまりこんな場所で、こんな凍えるような寒さの中で野営しようとしているのは、俺たちだけってことだ」
その言葉を聞いて、サクは緊張を解いた。顔をしかめて訊く。
「なぜ盗賊の拠点だと?」
「昨日、泊めてくれたおっさんが言っていただろ。先月、ノウミ族の連中に村が襲撃されたと。連中は村人たちから金や食料を奪って逃走した。おかげで無関係の俺たちも、村人たちから白い目で見られ、警戒されるというとばっちりを受けたわけだ。
ノウミ族は祝杯をあげる時、腐った卵のような強烈な臭いを発する酒を飲む。その酒が入っていたであろう空き瓶がこの中に残されていた。こんな人気のない森の中に拠点を構えたのも、その猛烈にクセェ酒を飲むためだろうな」
ユーリはその強烈な臭いを思い出したかのように、一瞬顔を歪ませた。
「……あまりの激臭に外へ逃げ出したところで、ばったりとあのオオカミに遭遇した。やり過ごそうとしたが、アイツも腹を空かせていたんだろう。襲ってこなけりゃ、撃つこともなかったんだがな」
サクは冷たい視線をユーリに向けた。沸々と怒りが湧いてくる。
「お前の行動は間違っている」
低く、掠れた声で言った。
「近くにヤバい人間がいるかもしれないと思ったなら、すぐに別の場所へ移動するべきだった。わざわざ危険を冒してまで確認する必要はなかった。俺が同じ行動をとったら、お前は絶対に非難したはずだ」
「もう少しでぶっ倒れそうだったお前を無理矢理歩かせてか? それとも、誰かに背負ってもらってか?」
「本題から逸らすな。俺は駄目で、お前ならいいという理由はない。アサヒにはケガを治すことはできても、死んだ人間を蘇らすことはできないんだ。ほんの少しの油断が命取りになることくらい、お前なら分かるだろ!」
ユーリは暗い目で、握りしめた銃を見た。
「俺にはこの銃がある。いざという時にはこれで撃つつもりだった」
「そんな不完全な銃で、本気で対抗できると思っていたのか? 相手が武器を持っている可能性や、複数人いる可能性は考えなかったのか?」
「そうだな。だが、向こうからやってきた場合はどうなる? もし近くにヤツらがいて、俺たちの誰もそのことに気づかず襲撃されたら、結局この銃で対抗していたはずだ」
「詭弁もいい加減にしろ!」
「ちょっと二人とも。ケンカしないで!」
戻ってきたアサヒが、サクとユーリのあいだに割って入った。
アサヒはじっとユーリを見つめると、優しく語りかけるように言った。
「ユーリ、いつもわたしたちのことを気遣ってくれてありがとう。特にサクのことを気にかけてくれて、ありがとう。おかげでわたしもちょっと安心。
でも、そのためにユーリが無茶をするのは絶対にだめ。ミリアやアーロンもすごく心配してたんだから」
ユーリはしばらく表情を動かさずに口をつぐんでいたが、やがて小さく息を吐いて言った。
「悪かった。俺の判断が間違っていた。言い訳は全部忘れてくれ」
「……ユーリ」
サクは真剣な声で、歩き出そうとするユーリを呼び止めた。
「俺はお前と比べて、体力も筋力もない。おまけにケガをしても、アサヒに魔法で治してもらうわけにいかない。……だけど、俺には魔法がある。俺は魔法が使える」
ユーリは嘲るような笑みを浮かべた。
「だから本当は俺の方が強いって言いたいのか? 子どもみたいだな」
「そうじゃない。俺が言いたいのは――」
「分かっている。魔法しかないって時にはお前を頼るから、そのつもりでいろよ」
ユーリは背を向けると、雪を踏みしめるように歩き出した。
戻ったユーリは、ミリアに散々怒られて生気を失っていた。すぐそばでその姿を見ていたアーロンは、同じ轍は踏むまいと固く誓っている様子だった。
その折檻中、サクとアサヒは夕食の支度に取りかかった。アサヒはリュックの中からじゃがいも、根菜、ソーセージを取り出すと、ナイフで切って水と一緒に鍋に入れた。サクはその鍋の上に、石の如く硬いパンを吊るして、立ちのぼる蒸気で温めた。
出来あがったスープは、塩と胡椒のみで味付けされており、実にシンプルな味わいだった。だが、冷え切った身体を芯から温めてくれたこのスープの味は、一生忘れることはないだろうと思うほど美味しく感じた。
夕食を終え、一段と寒さが増した頃。焚き火が燃え尽きそうなのを見て、サクたちは誰からともなく就寝の準備を始めた。
サクは手袋をはめ、帽子をかぶった状態から、さらにネックウォーマーとフードを装着してグレードアップした。これだけ対策を施しても、「寒い」という感覚は無くならない。まるで全身に氷が張りついているかのようだ。
足元に置いていたライトを持つ。白い光がアサヒを照らす。
アサヒは消えかかった焚き火の前で三つ編みを編んでいた。
髪飾りを封印してからも、アサヒは就寝前にはいつも三つ編みを編んだ。丁寧に、願いを込めるように。その仕草にサクは思わず見惚れた。アサヒが顔を上げて、眠そうな目できょとんと見つめ返してくると、サクは慌てて視線とライトを逸らした。
焚き火が燃え尽きた。全員で狭い穴の中に入る。地面からの冷気を遮るために敷かれた苔や針葉樹の葉の上に、サクは毛布にくるまった状態で横になった。
最後に穴に入ったアーロンが入口を閉じた。天井に張られたタープの隙間から月光が差し込む。
外よりは暖かいが、危険な寒さであることに変わりはない。もしこのまま眠って、二度と目覚めることがなかったら……。そんな不安が頭に浮かんだが、睡魔の息吹に消し飛ばされた。
「みんな、生きてるか!?」
アーロンのドスの利いた声で、サクは目覚めた。丸まったまま硬直した身体は、閉じた貝のように開かず、起き上がるのを拒絶した。だが、生きている。
眠気が寄せ波のように戻ってくる。再び目を閉じる。直後、額にバチンと強い衝撃を受けた。
「いって!」
痛みで完全に目が覚めたサクは、慌てて起き上がろうとした。が、毛布でぐるぐる巻きになった状態では上手く起き上がることができず、ごろんと無様に転がった。
「よし、生きてるな」
ユーリが立ち上がって言った。いつの間にか、天井に張られていたタープが取り除かれている。しかし、そこから見える空はまだ暗かった。
「やっぱりお前か」
毛布を解いて起き上がったサクは、ブルブルッと震えながらユーリを睨みつけた。
ユーリは白い息を吐きながら、呆れるような目つきでサクを見下ろした。
「いつもより調子よさそうじゃねぇか。どうなってんだ? お前の身体は」
そういえば、とサクは思った。今朝は頭が痛くない。吐き気もない。
昨日の日中に見た夢と同じ、殺風景な部屋の光景が、昨日よりも鮮明に脳裏に浮かんだ。
そうだ。同じ場所の夢を見ていた。あまりにも退屈な夢だった。それゆえ、ユーリに気づかされるまで忘れていた。
――あれは一体、どこなんだ……?
ぼーっと考えていると、
「さっさと愛しのお姫様を起こせ。でないと、置いていくぞ」
サクは反射的に隣で眠っているアサヒを見た。すぅすぅと寝息が聞こえる。体感温度マイナス十度の世界でも、いつもと全く変わらない寝顔をしている。
呆れながらも安心した直後、ユーリの言葉でついアサヒを見てしまったことに気がついたサクは、全身を硬直させた。
好意がバレている。……いや、そもそもアサヒと自分がどういう関係か、ユーリたちにきちんと説明したことはなかったはずだ。とすれば、勝手に思い込んでいる可能性もある。
背後から、ミリアが寒さに震える声で追い討ちをかけてきた。
「もう、キスして起こしちゃえば?」
サクは全身が熱を帯びるのを感じながら、ミリアの言葉を無視してアサヒの肩を揺すった。
「起きろ、アサヒ」
アサヒはむっくりと起き上がると、眠たげに目を擦り、
「おはよう、サク」
と、いつもと変わらない微笑を浮かべて言った。




