90話
北部の大半の地では、年間を通して降水量が少なく、寒さの割に雪はそれほど深くは積もらない。おかげで足を取られることはないが、だからと言って楽に進めるわけではない。
背負っている荷物の重みと、全身を覆っている防寒具の重み。それに加えて、氷点下にまで下がった空気が、容赦なく体力を削っていく。
「今日中に村までは行けそうにないな」
ユーリがそう言った瞬間、安堵と落胆が同時にサクの心中に湧いた。
次の村までは、休むことなく歩いても、真夜中にようやくたどり着けるかというくらい距離がある。体力的にもこれ以上進むのは厳しい。
だが、これからさらに寒くなるであろう、この真っ白な大地の上で一夜を明かすというのも、無謀ではないだろうか。
サクがユーリたちと行動をともにするようになって、一週間が過ぎた。これまではなんとかその日の移動で村にたどり着けたが、幸運は続かないようだった。
ユーリは背中から荷物を下ろすと、シャベルを地面に突き立てて言った。
「よし。まず、アーロンは穴を掘れ」
「またかよ……って、今度は何のために穴を掘るんだ?」
「寒さを凌ぐために決まっているだろ。穴を掘って、そこで夜を明かす。だから、五人分のスペースが必要だ」
「そんな大仕事を俺一人にやらせる気か?」
「誰も一人でやれとは言っていない。シャベルはソイツとコイツで二本あるしな。他に動けそうなヤツは……」
ユーリは疲れ切ったミリアとサクの顔を見て、「駄目だな」と呟いた。
そんなことはないと言い返したいところだったが、サク自身、今からシャベルを握る自信はなかった。
ユーリは小さく息を吐いて言った。
「早く暖をとれるように、俺は先に焚き火を用意する。それが済んだらそっちもやるから、待ってろ」
「いや、ユーリは休め。お前も疲れているだろう。穴掘りは俺一人でやる。この通り、筋力と体力だけが俺の取り柄だからな」
アーロンは力を誇示するように、右手に持ったシャベルをひょいと肩に担いだ。
「分かった。穴掘りはお前に任せる。前のように深く掘る必要はない。風を防げれば十分だ」
「おう」
アーロンは威勢よく答えると、早速地面にシャベルを突き刺して穴を掘り始めた。
「よし。――まだ動けるヤツは、焚火の用意を手伝ってくれ」
「待って」
膝を屈めてリュックを開けようとしたユーリの動きを、アサヒが止めた。
「わたしは穴を掘るのを手伝うよ。二人で掘った方が早いでしょ?」
ユーリは眉根を寄せて、近づいてきたアサヒの顔を見上げた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫って、何が?」
「いや、何でもない。――頼む」
ユーリは立ち上がって地面に突き立てたシャベルを抜き、アサヒに渡した。
「ラジャーです!」
アサヒは顎をくいっと上げると、すぐにアーロンの元へ向かっていって、せっせとシャベルを動かした。
「あの体のどこにそんな力があるんだろう……」
ミリアが不思議そうに呟いた。ユーリが渋い顔で頷く。
「全く同感だ。アサヒは万が一の時の保険だ。いざという時に頼りにならないようでは困るんだが……あの様子じゃ、心配無用だな」
「ふぅん、そういうこと。だからユーリはアサヒに甘いってわけ」
「甘い?」
「自覚ないんだ。私とアサヒじゃ、全然扱いが違うように感じるんだけど」
「は? どこがどう違うんだよ」
サクは話を断ち切るように、ユーリの足元に置かれた薪を手に取って言った。
「焚き火を用意するんだろ」
薪はユーリが運んできたこの一束のみ。念のためにと、今朝村を出発する前に、泊めてくれた家の主人に分けてもらった。
村の住民たちの貴重な資源だ。一束譲ってもらっただけでもありがたい。
だが……当然、これだけでは足りない。落ちている枝や、生えている木の枝を切り落として足す必要がある。
「枝を取ってくる。その鋸を貸してくれ」
手のひらを向けると、ユーリは鋸を手にして立ち上がった。
「俺が取ってくる。お前らは先に火を起こして、番をしていてくれ」
さっきまでユーリがいた場所に、ミリアが腰を下ろす。リュックの上に載っているマッチ箱を手に取って、囁くように言った。
「ユーリが一番甘いのは、実はアサヒじゃなくてサクかもね。……まぁ、二人とも私たちにはない特別な力を持っているんだから、当然か」
組み上げた薪の下の新聞紙に、パッとオレンジ色の火が灯る。
互いの目的のため、協力してエクシオンを目指すことを表明したあの日。サクは、ユーリから聞いた話をアサヒ以外には口外しないと約束した。その代わり、魔法によってできる「あざ」が命を削った証であることを、アサヒには内緒にしてほしいとユーリに頼んだ。
自分と違って、アサヒにはあざがない。そもそも使える魔法がまるっきり違う。際限なく魔法を使えるアサヒに、あざの真相を伝えて余計な心配をかけたくない。
最後に、あざを消すと記憶も消えることをサクはユーリに告白した。
もしアサヒが魔法で自分のあざを消せば、最初に魔法を使った以後の記憶が全て消えてしまう。周囲の人間のことも、自分がここにいる理由も分からなくなってしまう。
アサヒと出会い、ともに旅をしてきた記憶の全てを失ってしまう。
だから、アサヒと約束をした。決して自分に魔法を使ってはならないと。
ユーリがそのことをどう受け止めたのかは分からない。だがそれ以後、ユーリはサクに対して特別に気を配るようになった。
道中、サクが疲労を顔に浮かべると、ユーリはすぐに休憩を宣言した。もう少し進んでからにしないかとアーロンたちが言っても、全く聞き入れなかった。
勾配の急な道や凍った道を通った時には、幾度も「滑って転ぶなよ」と忠告された。ユーリは全員に向けて言っていたが、自分にだけ言われているような気がして、サクはその度にうんざりした。
アサヒの魔法は、死んだ人間には通用しない。事故や災害……あの列車の時のように、誰かに命を狙われていなくとも、危険は常に身近にある。アサヒという保険があるからといって、安心しきれるわけじゃない。命を落としたら終わりだということに、変わりはない。
だからこそ、サクはさっきのユーリの態度にも不満を持った。「お前は何もしなくていい。安全な場所でじっとしていろ」そう言われた気がした。
自分だけが特別扱いされる筋合いはない。心配症はアサヒだけで十分だ。
そのアサヒはというと、「よっこらせ」だとか、「よいしょ」だとか言いながら、元気に穴を掘っている。疲れを見せる様子は一向に無く、むしろ楽しげだ。
このところアサヒの過度な心配症は、皮肉なことに、ユーリのおかげで少し軽くなったようだった。
炎の熱と眩しさに、だんだん目がチカチカしてきた。サクは自然とまぶたを閉じた。
暗闇の中でも火はしばらく消えず、ぼんやりと明かりを灯し続けていた。だがほどなくして、疲労による眠気がその小さな残り火を消し去った。
傷だらけの椅子やテーブル。欠けた食器。破れたカーテン。
うら寂しい部屋の片隅で、ただ一日が過ぎるのをじっと待つ。
日が昇り、雲が流れ、風が吹き、時々雨が降る。日が沈む。
こうして一日は過ぎていく。
変化のない日々。
……突然、窓の外から声がした。耳がピクッと反応する。
小鳥のざわめきに混ざって、優しい声が聞こえる。
耳慣れた優しい声――と、初めて聞いた声。鈴の音のようなかわいらしい声。
小鳥が話しているのだろうか? 小鳥は言葉を話せただろうか?
不思議に思って立ち上がる。玄関へ向かう。
閉ざされたドアを開けた。
「もう! また毛布もかけずに寝て!」
「アサヒってば、お母さんみたい。それにしても座ったまま寝るなんて、サクって器用ね」
「寒くて固まってるだけなんじゃねぇか?」
「……やっぱり、ぐるぐる巻きのロールケーキの刑に処さないと」
「何それ?」
「サクが毛布もかけずに寝ちゃった時の罰。こうやって……毛布でぐるぐる巻きにして……できたっ」
「ロールケーキっていうより、ベーコン巻きみたい」
「だな。……んじゃ、火で炙って食うか」
「――は?」
身の危険を感じて目覚めたサクは、勢いよく立ち上がろうとした。が、両腕が固定された状態では上手くバランスを取ることができず、ごろんと無様に転がった。
「ロールケーキでもベーコン巻きでもないわ。これはただのミノムシよ」
ミリアの冷ややかな視線が容赦なく顔面に降り注ぐ。
「おーい。出てこい、ミノムシ」
アーロンがシャベルの柄の先で、毛布にくるまれたサクの体をツンツンつついた。
「お前ら……」
サクは自力で起き上がると、身体に巻かれた毛布を振り解いた。
焚き火がパチパチと音を立てている。炎の中心部にある薪はすっかり焦げ、表面が黒く染まっている。三十分以上は眠っていただろうか。
なんだか、妙な夢を見た気がする。このところ見ていた夢とは違うような……。
――夢?
そうだ。夢を見ていた。これまでは夢を見ていたかどうかさえ覚えていなかった。
だが今回は違った。夢を見ていたことも、おぼろげだが、夢の内容も少し覚えている。
傷だらけの椅子やテーブル。殺風景な部屋。誰かの声……。
最近の寝起きの頭痛と吐き気の原因は、見た夢を忘れてしまっていたことにあるのではないか。ふと、そう思った。
その証拠に、今は頭痛も吐き気もしない。
「それにしても、ユーリはいったいどこへ行ったのよ?」
ミリアが腕を組み、苛立った様子で森の方へ視線を飛ばした。
「……ユーリ、まだ戻ってきてないのか?」
サクはアサヒに尋ねた。
「うん。穴はもう掘り終えたんだけど……」
アサヒが背後を向く。白い雪に縁どられた長方形の穴。その上には緑色のタープが張られている。
「さっきあっちの森の方へ行ってみたら、すぐ近くの木の根元に、枝がひとまとめにして置かれていたの。ほら、これよ」
ミリアは荷物のすぐそばに置かれていた枝を指差した。
「だけどユーリの姿が見当たらなくて……。全く、いつも私たちにああしろこうしろって指示するくせに、自分は黙って勝手にいなくなるなんて、どういうつもりよ」
アーロンが地面からシャベルを拾い上げて、野太い声を発した。
「俺が捜してくる。足跡を辿れば見つけられるはずだ」
「待て」
サクは強い口調でアーロンを制止した。
「俺が行く。足跡のつかない場所があるかもしれない。それでも俺になら、ユーリがどの方向にいるのか分かるから」
ミリアが大きく目を見開きながら、「本当?」と言った。アーロンが二度まばたきをする。
「魔法か……? いや、なんでもいい。頼む」
サクは力強く頷いて、振り返った。
「アサヒ」
「うん」
アサヒはシャベルの柄を両手で強く握って頷いた。
「ユーリ! 聞こえてるなら返事をしろ!」
「どこにいるの? ユーリ!」
眠っている森を叩き起こすかのように、サクとアサヒは声を張りあげた。
雪に刻まれた足跡と時計の針を頼りに、一歩一歩進んでいく。
「アイツ、どこまで行ったんだよ。枝を切るだけなら、そんなに離れた場所へ行く必要はないだろ」
「うん……。何か、別の目的があったんじゃないかな?」
「別の目的って?」
「たとえば、食料になりそうなものを見つけた……とか?」
「そんなもの、見当たらないぞ」
「そうだね……」
アサヒは不安げな表情で左右を見回した。サクは再び「ユーリ!」と声をあげた。
すると数秒経って、ユーリからの返事の代わりに、どこかから「アオォーン」と遠吠えが聞こえた。
「今のって……」
アサヒが青い顔で呟いた。
「オオカミの鳴き声だ」
恐怖を無理矢理抑え込むような声で答えたサクに、アサヒがぴたりと身体を寄せた。
悪い想像が頭に浮かぶ。それを振り払うようにサクは言った。
「仮に襲われたとしても、アイツなら大丈夫だ。鋸に――銃も持っているんだからな」
「確か、銃は三回まで使えるんだったよね? そのうちの一回は既に使っているから、残りは二回。もし使い切っていたら、銃は壊れてしまったはず」
「もし銃が壊れたら、魔法の効力もなくなる。そうなれば、この時計はユーリの居場所を示さなくなるはずだ」
サクは左腕につけた時計から視線を上げた。
冷たい風が薄い刃のように頬を引く。
気温が下がってきている。もしもユーリが動けない状況にあるならば、早く見つけ出さないと危険だ。
「……あれ、なんだろう?」
突然、アサヒが何かを見つけた様子で、前方を見ながら声を発した。
近づくにつれて、その姿が明らかになっていく。
森の中の少し開けたその場所に、こんもりと盛り上がった小山が横たわっていた。




