86話
ユーリは拳銃を持った手を握りしめて、仲間の男女に言った。
「運転室へ行く」
男の方が野太い声で「あぁ」と答えた。
「何が起きているのか、確かめる必要があるな」
女の方も無言で頷く。ユーリたちは連れ立って、車両前方のドアから出ていった。
ドアが閉まって数秒後、乗客たちはおそるおそる腰を浮かし、ざわざわとざわめき始めた。
「おい。一体何が起きてるんだ?」
「分からない……が、今なら逃げられるんじゃないか?」
その時、乗客の一人が立ち上がった。
「今のうちに逃げましょう。それが、神の思し召しであることは間違いありません」
車内が再びしんと静まり返る。その乗客は大仰に両手を広げて言った。
「ご覧なさい。これが神の御業でないというのなら、一体何だというのでしょう?」
導かれるまま周囲を見た他の乗客たちは、その時初めて気がついたかのように、目を見張った。
壁に、天井に、床に、座席に……。すべてが真新しく輝いている。その光り輝く列車は、つい数分前、絶望の淵から生還を果たしたのだった。
それはあまりにも奇妙で、あまりにも奇跡的な出来事だった。
「神の思し召し……」
乗客たちはおぼろげに呟くと、突然意識を取り戻したように口々に言った。
「神が……神が、お助けくださったんだ」
「早くここから逃げなくては」
「そうだ。今のうちに逃げるべきだ」
「ここから西へ七キロのところに村がある。そこまで歩いて逃げよう」
乗客たちは慌ただしく動き出した。荷物を持ち、一斉に乗降ドアに向かっていく。
「ほら、あんたたちも。早くしないと置いていくぞ」
そう言われ、サクの心に一時迷いが生じた。
身の安全のために、この列車から離れるべきなのは確かだった。ここに居続ければ、またいつ何時危険にさらされるか分からない。
ユーリと呼ばれていたあの男と、その仲間の男女。
あの者たちは何者なのか。何の目的があってこのようなことをしているのか。なぜ列車は急加速したのか。
何もかも不明な状況で、ここに残るのは最善ではない。
しかし――。
サクは腕時計に目をやった。針は、ユーリが出ていったドアの方を指している。
いつの間にか、サクとアサヒを除く乗客全員が列車を降りていた。
離れていく暗い人影が、窓の外に見える。ここにいる自分たちのことを気に留めている人間など、あの中にはもはや一人もいないだろう。
「わたしたちはここに残ろう。あとちょっとのところまで来たんだから」
緊張と恐怖を押しとどめるような、力のこもった声でアサヒが言った。
サクは拳を握って頷いた。
「あの男……ユーリは、魔法のことを知っていた。きっと父さんのことも知っているはずだ。問いただして、必ず目的の物を手に入れる」
サクは互いの意志を最終確認するようにアサヒと視線を交わした。それから、再びユーリたちの出ていったドアに目を向けた。
閉ざされた鋼鉄のドア。あの向こうで、一体何が起きているのか……。
その時だった。
パンッ、と一発の銃声が響いた。連続して、女の叫び声が耳に届く。
「ユーリ!!」
その瞬間、アサヒが弾かれたように駆け出した。勢いよくドアを開け、前の機関車に飛び移る。
「アサヒ!」
サクは慌ててアサヒを追った。
エンジン室横の狭い通路を走り抜けて、運転室に突入する。
その光景を目にした瞬間、サクは言葉を失った。
血塗られた床。その上に、二人の男が倒れていた。体の一部が重なり、それぞれの胸から流れ出た血が床で混ざり合っている。
石膏のような白い顔。目は大きく見開かれ、びくともしない。
そのすぐ隣に、右手で脇腹を押さえながら、苦しそうに呼吸をしている別の男の姿があった。女が声を震わせながらその男の名を呼んでいる。
「ユーリ……ユーリ! しっかりして! ユーリ!!」
ユーリはおもむろに顔を上げると、消えかかった蝋燭の火のような目をサクに向けた。
お前に話したいことがある。揺れる瞳がそう言っているように見えた。
サクは目を見開き、鋭い声を発した。
「俺もお前に訊きたいことがある。だから死ぬな!」
「大丈夫」
アサヒが静かに呟くように言い、前へ進み出た。
「わたしが治してあげるから」
膝を屈め、右手を伸ばす。その手がユーリの左肩に触れた瞬間、ベールのような淡い緑色の光がユーリの全身を包み込んだ。
それが実際に起きている現象なのか、錯覚なのか、サクには判別がつかなかった。
ただ、人に魔法をかけるということは、物にかけるのとは全く違うのだと感じた。
神の存在を信じているわけでもないのに、「神に背く行為」という言葉が頭に浮かび、同時に「神の使い」という言葉が浮かんだ。
もしもアサヒが神の使いであるならば、この行為は許されるのだろうか――。
やがて光は消え去り、ユーリの瞳に精彩が戻った。
「これでもう大丈夫!」
そう言って、アサヒはすっくと立ち上がった。
「これって……」
仲間の女が目を見張って呟く。
ユーリは撃たれた脇腹からそっと手を離し、驚いた目でアサヒを見た。
「お前は――」
その時、
「ユーリ!」
サクの背後から野太い声がした。
ユーリの仲間の大柄な男は、運転室に飛び込んでくるなり、目を白黒させた。
「お前……撃たれたはずじゃ……」
ユーリはすぐに腰を上げ、目の色を変えて言った。
「訳はあとだ。それよりリックはどうした」
「リックは……川の中だ。すまない」
「そうか」
ユーリは静かにため息をついた。窓の外に目を向け、すぐそばの崖の下を流れる大河を見つめる。
「あの川に飛び込んだんなら、今頃はあの世だろうな。元々俺たち全員を道連れにするつもりだったんだ。躊躇う気持ちなんてこれっぽっちもなかっただろう」
サクは混乱した。一体どういうことだ?
ユーリは二つの死体の前で腰を落とした。
「二人とも、至近距離から心臓を撃ち抜かれている」
「あぁ。まさかあの二発の銃声が、運転士とヒネクが撃たれた音だったとはな」
女が足元をふらつかせながら言った。
「どうしてこんなことを……。リックとヒネクは仲間のはずでしょ? 子どもの頃から互いのことをよく知っていて、兄弟みたいな間柄だって話していたのに……」
ユーリが感情を押し殺したような、低い声で答えた。
「おそらくヤツらの仕業だ。リックは、ヤツらの手先だったんだ。事故に見せかけてノウミ族の連中の計画を妨害し、ついでに俺たちを消し去ろうとした」
「そんなまさか。リックもヒネクたちと同じ、ノウミ族のはずでしょ?」
大柄な男が乱暴に頭を掻いた。
「クソッ。何がなんだかさっぱり分からん。俺たちはこれからどうすりゃいいってんだ」
ユーリは右手に銃を持ったまま、窓のそばへ寄った。
「ひとまず列車を動かす」
女が眉をひそめる。
「何言ってるの? この列車は故障して動かないじゃない」
「いいや、動く。――だよな?」
突然向けられた視線に、サクはぴくりと肩を震わせた。
大柄な男が割って入る。
「ちょっと待て。そういや、なんでコイツらはここにいるんだ? お前が撃たれたのに無傷なことと、何か関係があるのか?」
女がハッとした表情でアサヒを見た。言葉にならない衝撃と、畏怖の念が顔に浮かんでいる。
「訳はあとだって言ったろ」
ユーリはそう言うと、サクに近寄り、手に持った銃をみぞおちに突きつけて囁いた。
「列車を動かせ。できるよな? ――魔法使いの息子」
一瞬の驚きのあと、サクは確信に満ちた目でユーリを見返した。
魔法について、父について。知っていることを話してもらう。何もかも、全てを。




