85話
目の前に立ちはだかる男の顔を見ても、しばらく何の情動も起きなかった。
琥珀色の瞳が、禍々しい玉のように見える。それは瞬時に、危険を知らせる信号に成り代わった。
――なぜ。
なぜだ。なぜ今、自分は銃を向けられているのか。――ずっと見張っていた、目標の人物に。
「出ろ」
サクは何がなんだか分からないまま、男の言葉に従った。直後、
「サク!」
アサヒの呼ぶ声がした。咄嗟に元居た座席の方へ顔を向ける。
大きく見開かれた青い瞳が目に飛び込んできた。か細い手が座席の背もたれに食い込み、小刻みに震えている。
「アサヒ」
声を出した瞬間、サクは男に胸倉を掴まれ、背後の壁に側頭部を打ちつけた。
「いっ」
打ちつけた方とは反対側がヒヤッとした。男の持つ、黒い自動式拳銃が視界に入る。
「動くなって言っただろ」
男は低い声でそう言うと、アサヒに顔を向けた。
「そこの女。お前も動くなよ。動いたら、コイツがどうなるか分かるよな?」
アサヒは怯えた表情で、小さく顎を上下させた。
男は車両の前方に視線を移した。
「お前ら、ちゃんと見張ってろよ」
「あぁ。任せとけ」
――仲間がいる……。
サクは声のした方へおそるおそる目をやった。
車両前方のドアの前に、射るような目で車内を見回している大柄な男がいた。その男から少し離れたところに、背の高いショートヘアの女が佇んでいる。
二人の顔には見覚えがあった。確かに、タリゴ駅の乗り場にいた。だが、目標の男と顔見知りだったとは、今の今まで気がつかなかった。
男が再びサクの方を向いて言った。
「お前ら、タリゴからずっと乗っているよな。どこで降りる?」
サクは緊張で固まった喉を開き、声を絞り出して答えた。
「……終点で」
「終点で降りて、どこへ行く気だ?」
続けざまに問われ、サクは動揺した。嘘と見抜かれたのだろうか? まさか、ずっと見張っていたこともばれているのではないだろうか?
男の目が不審に変わる。と、その直後。列車が急加速した。
サクと男はバランスを崩してよろめいた。
体勢を立て直した男は、車両前方に立つ大柄な男に向かって叫んだ。
「おい! どうなってる!? なんで加速してる? 運転室は制圧したはずじゃないのか!」
「そのはずだ。合図があった。二発。確かに聞いた」
「だからなんで加速してるんだ!」
「分からない。何か考えがあるのかもしれない」
「ったく、アイツら。予定にないことを」
男はゆっくりと息を吐くと、サクに向き直った。同時に、銃口が真っ直ぐサクの眉間を向く。
「逃れられるとでも思ったか? ……質問に答えろ。終点で降りて、どこへ行く気だ?」
男の目には、さっきよりもはっきりと不審の色が表れていた。
サクはドクドクと自分の心臓の鳴る音を聞いた。
血液を懸命に頭に送り込む。だが緊張と、わずかに残っている頭痛のせいで、言葉が出てこない。
それに、もしさっきの返答が嘘と見抜かれているのなら、嘘を重ねるのは悪手でしかない。
男は眼光を鋭くした。
「お前……北部の人間じゃないな? どこから来た? 正直に言え。嘘をついたら撃つ」
サクはようやく口を開き、掠れた声で答えた。
「ロクだ。大陸東部、北の端にある町だ」
「嘘をついたら撃つと言ったよな」
「嘘じゃない。本当だ。東部から南部、南部から西部、西部から北部へ移動して、ここへ来た」
「つまり、大陸を一周してきたと? 馬鹿を言え。そんな馬鹿な人間がどこに――」
男は突然言葉を切って、何かを思い出したような顔をした。
時が凍りついたような沈黙。その沈黙を解き、男は感情を押し殺したような低い声を出した。
「もう一度言え。どこから来たと言った?」
サクは男の態度を訝しく思いながら、さっきと全く同じ返答をした。
男は聞こえるか聞こえないかくらいの声で「ロク……」と呟くと、険しい目つきでサクの左頬を見た。
「……そのあざはどうした?」
サクはまた動揺した。男の目は、明らかに何かを疑っていた。
もしかすると、この男は父や魔法のことを知っているのかもしれない。父が魔法をかけた「何か」をこの男は持っている。だとすれば、その可能性は大いにある。
だが、もし知らなかったとしたら? 本当のことを話したところで信じてもらえず、逆に怒りを買うかもしれない。
サクは閉ざした口を開いた。
「これは……生まれつきあるものだ」
「生まれつきだ?」
男は眉をひそめて銃を下ろし、再び構えた。
「嘘をついたら撃つと言ったのを忘れたのか?」
「サク!」
アサヒの切羽詰まった声が、サクの鼓膜を震わせた。
押しとどめていた恐怖が一挙に溢れ出る。と同時に、全身の血が沸くのを感じた。
こんな場所で、死ぬわけにはいかない。
サクは拳を握り、闘志を剥き出しにした目を真正面から男に向けた。
果たさなければならない目的がある。そのために幾度の苦難を乗り越えて、ここまで来た。
こんな場所で死ねば、全てが無駄になる。
それに何よりも……生きて、アサヒを守らなければ。
と、その時。
「そのへんにしときなよ、ユーリ」
女の声が空気を裂いた。背の高い女は早足でこちらへ向かってくると、男を睨みつけた。
「止めんなよ」
ユーリと呼ばれた男は、不服そうな顔をして銃を下ろした。
「俺が本気で撃つとでも思ったのか?」
「まさか。そんなわけないでしょ」
サクは突っ立ったまま、呆然と目の前の男女を見た。
どういうことだ? 本気で撃つつもりじゃなかったのか?
女は混乱するサクを尻目に、真剣な表情でユーリに訴えた。
「それよりこの列車、さっき一度加速したきり速度を落としてない。おかしいと思わない?」
「アイツらが運転士に指示したんだろ。予定の時刻に間に合わせるために」
「それにしても加速しすぎだと思うんだけど。そこまで急ぐ必要があるの?」
「さぁな。俺たちには知る由もない」
ユーリはそう言うと、サクを見もせずに車両の前方に向かっていった。仲間の女もあとに続く。
「サク!」
目に涙を浮かべたアサヒが、入れ替わるように座席から飛び出してきた。
「アサヒ……」
サクは小さく震えている肩に手を添えた。潤んだ瞳を真っ直ぐ見据え、ゆっくりと力強い声で言う。
「もう、大丈夫だから」
アサヒは頷くように頭を下げ、うつむいたまま小さな声で呟いた。
「約束したのに」
その声をかき消すように、車内にドスの利いた声が響いた。
「いいか、よく聞け。この列車は次の駅へ到着する前に、一旦停車する。停まっているあいだ、全員大人しくここで待っていろ。言う通りにしていれば、危害を加えることはない。だが、逆らう者には容赦はしない」
座席に座っている他の乗客たちの頭が、わずかに揺れ動くのが見えた。張りつめた空気が氷のように冷えている。
サクはユーリの顔を覗き見た。
何の目的があってこんなことをしているのか知らないが、少なくとも簡単に人を殺すような残虐な人間でないことは分かった。とはいえ、安心はできない。
琥珀色の目がこちらを向く。禍々しい、危険を感じる目。
「分かったな?」
サクはその目に促されるままに頷き、元居た席に戻った。
轟々と列車の走る音が響く。誰一人口を開くことなく、車内は葬式のように静まっている。
すると突然、サクの近くに立っていた仲間の女が、険しい表情でユーリに近寄った。
「やっぱりおかしい。いくらなんでもスピード出しすぎよ。どうして減速しないの?」
窓のそばに立っていたもう一人の仲間の大柄な男が、同感を示した。
「外を見ろ。もうすぐ橋だ。……このまま行くのか?」
ユーリは銃を手に持ったまま、大股で窓へ寄った。
サクも席についたまま、ユーリと同じく窓を見る。
進行方向右手に、大河に架かる巨大な鉄橋が見えた。
つまり、この先にあるのは急な右カーブ。もしこの速度のまま行けば……。
そう思った矢先、列車がさらに加速した。
「おいおい嘘だろ……」
ユーリの顔からみるみる血の気が引いていく。
それはサクも同じだった。
――このままでは、脱線する!
「クソッ! 一体何が起きてるんだ!」
ユーリは目を血走らせて叫ぶと、機関車に繋がるドアに足を向けた。
「運転室を見てくる。お前らはここで待機していろ」
仲間の男がすぐさまユーリの肩を掴む。
「無理だ。このスピードでは機関車へは移れない」
仲間の女が声を震わせながら叫んだ。
「もう間に合わない!」
その瞬間、車内はパニックに陥った。
それまで全く声を発することのなかった乗客たちが喚き、怒鳴り、悲鳴をあげ、車内の様相は一変した。
脱出しようとしてか、窓を開ける者もいた。開け放たれた窓から、氷の矢が一斉に飛んできたかのように冷たい風が吹き込んでくる。
「――サク」
混沌とした車内で、サクは集中してアサヒの声を捉えた。振り向き、視線を交錯する。
聞かずとも、アサヒが何を考えているのか分かった。力強く頷く。
「俺たちなら、この列車を止められる」
「うん」
アサヒは頷いて立ち上がり、前の座席の背もたれを右手で掴んだ。
「わたしたちなら、絶対にできる」
その言葉とともに、古い列車がみるみる輝きを取り戻していく。
黒ずんだ壁や天井も、傷だらけの床も、ボロボロの座席も、一瞬で時間を遡ったかのように変化した。
「お願い、サク。列車を止めて!」
その号令を合図に、サクは転がるように通路に出た。
片膝をつき、床に右手を当てて念じる。
――止まれ!
途端に、体がぐっと沈み込むような感覚がした。
何かに憑りつかれたように全身が重い。火に触れたように右手が熱い。
魔法で、ここまでの負荷を感じたのは初めてだった。
分厚い壁に阻まれている感覚。
額に汗が滲み出る。
列車は速度を保ち続けている。
アサヒの魔法によって、この列車は新品同然の状態になった。魔法がかからないはずはない。
サクは左手も床につけると、頭の血管が切れそうになるほど強く念じながら、両手に力を込めた。
――頼む。止まってくれ!!
喧騒の中で、列車がレールの上を走る音だけが耳の奥で鳴る。
あと一歩、届きそうで届かない。
ただ願えば叶う。魔法はそんな単純なものではないことをサクは思い知った。
魔法は、人によって作られたモノに相応の魔力を持つ者が願うことでかけられる。
もしもモノに綻びがあれば、願いに応えることができずに壊れてしまう。
もしも魔力が足りなければ、願いは届かない。
モノの適格、魔力の適格。どちらをも満たしていたとしても、誰かの強い意志によって猛スピードで走り続ける列車に、「正反対」の魔法をかけるのは容易ではない。
サクは焦る気持ちを抑えながら、深く息を吸った。
呼吸が止まる。そのわずかな時間、世界から音が消え、あたりは一面雪に覆われたように真っ白になった。
「俺の――言うことを聞け!!」
サクは腹の底から声を出して叫んだ。体の奥深くから熱い何かが噴き上がり、両手を伝って一気に外へ溢れ出す。
直後、ギギギギギィ―とけたたましい音が耳をつんざいた。同時にいくつもの悲鳴があがった。
やがて音は止み、何もかも消え去ったような静寂が訪れた。
急カーブに差し掛かる直前で、列車は完全に停止した。
「いって……」
床に倒れ込んでいたサクは、何とか体を起こして立ち上がった。その直後、
「サク!」
アサヒが安堵と喜びの混じった笑顔を見せながら、勢いよく飛びついてきた。
背中がじんと熱くなる。毛布に包まれるようなその温もりに、サクは疲れ切った体を預けて、長いため息をついた。
「よかった……」
「うんっ! よくできました!!」
「何だよ、それ」
呆れ半分の笑みを浮かべ、体勢を立て直した直後、
「……お前がやったんだな?」
背後からした声に、サクは凍りついた顔で振り返った。
ユーリはサクの返答を待たずに続けた。
「また動き出す可能性はあるか?」
虎の目のような鋭い眼差しと、感情の消えた低い声に気圧されて、サクは「ない」と答えた。
実際、列車が動き出す心配は全くもってなかった。なぜならば、今やこの列車は完全にサクの支配下にあったからだ。
動けと命じれば動き、止まれと命じれば止まる。どう操作しようと、列車が動き出すことはない。
ユーリはサクの答えを聞くと、「そうか」と言って踵を返した。
サクは離れていく背中を見つめながら、大きく膨らんだ疑念を確信に変えた。
――間違いない。アイツは「魔法」のことを知っている。




