84話
翌日。硬いベッドの上で目を覚ましたサクは、ズキズキと痛む頭を押さえながら体を起こした。
気分が悪い。吐き気もする。昨晩、なかなか寝つけなかったせいか?
昨日、目的の物を探している最中も、サクの頭の中は女性から聞いた話のことでいっぱいだった。
アサヒとアリエスに何らかの関係があることは明らかだった。容姿だけでなく、持っている能力まで全く同じだったのだから。
人や物を“なおす”力。魔法の力。
アサヒはアリエスの子孫なのだろうか? 同じ能力を先祖から受け継いだのだろうか?
もしそうだとしても、アサヒは両親のことを何も覚えていないのだから、尋ねたところで分からないだろう。
……だから、何も訊かなかったのだ。
隣で寝ているアサヒを起こさないように、サクはそっとベッドを下りて洗面台へ向かった。
頭が痛い。気分が悪い。何かが胸に引っかかる。それが何か分からないから、余計に気分が悪くなる。
冷たい水で顔を洗い、急いでタオルで拭く。正面を向いて、
――なんだ……?
白熱灯に照らされた顔が鏡に映っている。その顔の左頬に、うっすらとあざのようなものがあった。
赤紫色をしているが、首筋のあざと比べてあまりにも薄い。
ピアノの魔法を解いて以降、一度も魔法を使っていない。なのになぜ……。
しもやけか何かだろうかと思った。――が、やはりこれはあざだと思った。
あったのだ。ここに元々あざが。
絵はがきを受け取ったことで、失っていた記憶を取り戻した。その記憶の中では、確かに自分の左頬にあざがあった。
いつ、どこで、どうしてあざができたのか。それを思い出すことは困難だった。
身に覚えのないあざの存在に気づいた時にはもう、魔法を使ったあとだった。
知らず知らずのうちに魔法を使っていたなんて、考えてもみなかった。
だが、あったはずのあざが消えた理由については分かっている。
アサヒが魔法で消したからだ。そして――そのことが原因で、記憶が消えたのだ。
「おはよう。……どうかしたの?」
サクは鏡の端に映る顔に目を向けた。ゆっくりと振り返って言う。
「……なんで俺が記憶を失くしていたか、原因が分かった」
「ほんと?」
アサヒは目を丸くし、驚いた声で言った。
サクは頷くと、ベッドに戻って腰掛けた。
「俺は、アサヒと出会うよりも前に、知らず知らずのうちに魔法を使っていた。その時にできたあざを、アサヒが消したんだ」
うっすらとあざの浮かんだサクの左頬を見て、アサヒは「あっ」と思い出したように呟いた。
「あざは魔法を使ったしるしだ。そのしるしを消せば、魔法を使った時から現在までの記憶のすべてが消えてしまう――ということらしい」
「そっか。だから他の人に魔法を使った時は何ともなかったのに、サクだけ記憶が消えちゃったんだね」
サクはアサヒを見上げた。青く透き通った瞳を真っ直ぐ見つめる。
「釘を刺しておくけど、俺には絶対に魔法を使うなよ。――何があっても」
「……うん」
アサヒは静かに頷いて、右手の小指を差し出した。
「その代わりに約束して。この先、目的を達成するまで、絶対にわたしのそばを離れないって」
サクは数秒間沈黙した。視線は逸らさなかった。
「……分かった。約束する」
そう言って、小指を結んだ。
しばらく経つと、頭痛も吐き気もすっかり治まった。
サクはアサヒが着替えているあいだに、背中を向けて手紙を書いた。故郷ロクで自分の帰りを待っている、ユカリに宛てて。
手紙がロクへ着くには、ひと月ほどかかる見込みだった。本当は電話ですぐに無事を知らせるべきだと思ったが、電話番号を覚えていなかったためできなかった。
手紙には、目的を果たしたらすぐに帰路につくと書いた。手紙が届く頃には、その目的を果たしているはずだとも。
簡単に朝食を済ませると、サクとアサヒは荷物を背負って宿を出た。
二人とも昨日と全く変わらない格好をしていたが、一つだけ違っていることがあった。
それは、アサヒの髪飾りだった。
ここ北部でアリエスを知らない人間はいない。アリエスによく似た姿をしていれば、意図せずとも目立ってしまう。目立つだけであればさほど問題はないが、それが悪い方向に働く可能性がある。目的の達成にも支障をきたすかもしれない。
出発前、サクはそうアサヒに助言した。アサヒは真剣な目をして頷き、寝る時ですら身に着けていた髪飾りを、外して上着のポケットにしまった。
髪飾りを外したアサヒは、いつもと少し違って見えた。
宿から目と鼻の先にあるポストに手紙を投函すると、サクはその場に留まって腕時計を確認した。
針は駅の方向を指していた。その方角は、昨日最後に見た時とは異なっていた。
「やっぱりそうだ。昨日あれだけ歩いても見つからなかったのは、単に道が入り組んでいたからじゃない。移動していたからだ」
「ということは、また誰かの持ち物なのかな?」
悠揚迫らぬアサヒの声を聞きながら、サクは顔をしかめた。目標が移動しているというだけでも厄介なのに、それが他人の物だとすればさらに厄介だ。
「とにかく、駅へ行ってみよう」
そうして歩くこと二十分。
タリゴ駅の端の端。サクたちは、貨物列車も乗り入れる簡素な乗り場に行きついた。
「もしかして……あの人?」
サクの左腕に向けていた視線を上げて、アサヒが小声で言った。針は、斜め前方に立っている若い男を指していた。
あたりをうろうろと移動してみるが、針は男を指したまま離れない。
「どうやら確定みたいだな」
見つけた喜びは湧いてこない。それどころか、安堵の気持ちさえない。
どのようにして目的の物を手に入れるか、サクは考えあぐねた。
男の背負っているリュックを無理矢理奪い取って……なんてこと、できるはずがない。
と、その時。遠くからガタンゴトンと音が聞こえた。音はどんどん大きくなり、高い警笛が鳴り、そして――目の前に列車が止まった。
見るからに古い列車だった。先頭は赤いディーゼル機関車。そのすぐ後ろにたった一両だけ客車があり、その後にはずらりと貨車が連なっていた。
駅員が手動でドアを開け、待っていた客たちが次々に乗り込んでいく。針が指している男も列に加わって、車両の中へと入っていった。
「俺たちも乗ろう」
「うん」
サクとアサヒは列車に乗り込むと、車両後方の座席に並んで腰掛けた。
車内は暖房があまり効いていないのか、ひんやりとしていた。加えて、非常に静かだった。
ゆっくりと列車が動き出す。サクは腕時計に目をやった。針は「12」を指している。軽く腰を上げて前を見ると、最前列に目標の人物の姿を見つけた。
腰を落ち着け、再び思案する。どうやって男の持ち物を確認するのか。男が席を立ったのを見計らって? いや、周囲の乗客に気づかれたら終わりだ。
全く考えが浮かばないまま、列車はガタンゴトンと線路を走り続けていた。
サクは一旦頭をリセットしようと、窓の外へ目を向けた。
雪をかぶった無数の針葉樹が群生している。その濃い緑の林が無くなると、地平線も何もない、薄暗い白の世界が映し出された。
そんな寂寥とした景色が続いたのち、民家らしき古い建物がぽつりぽつりと現れ、やがて町へと変わった。
貨物の積み下ろしのため、列車は駅で三十分近くも停まっていた。
そのあいだ、静かだった車内は物音でわずかに騒がしくなった。
降りる客、乗る客。一度降りて、戻ってくる客。
うごめく人影を視界の隅に捉えながら、先頭の座席を見張る。
だが、目標の男は立ち上がる素振りさえも見せなかった。
列車が再び動き出すと、車内は元通りに静かになった。
サクは車内で男に接触を図るのはやめておくべきだと結論づけた。男が列車を降りるのと同時に自分たちも降りる。あとをつけ、タイミングを見計らって話しかける。直接交渉より確実な手段は他にない。
そう思った矢先、突然男が立ち上がった。車両後方に向かって歩いてくる。
サクは身を引き締め、そっと男の顔を覗き見た。
背は高くない。自分と同じくらいだ。だが貧相とはほど遠い。適度に筋肉のついた体に、切れ味の鋭い端正な顔。印象的な、琥珀色の瞳。
男はサクの座席の横を通り抜け、後方にあるトイレのドアを開けた。
そのドアが閉まったのと同時、肩をつつかれてサクは振り向いた。
「見て」
青い瞳の見つめる先、自分の左腕の時計を見る。針は、今しがた男が入っていったトイレの方向を指していた。
「肌身離さず身に着けているということか……」
サクは男の顔を思い浮かべながら、ため息をついた。直接交渉より手段は他にないことが、確実となった。
列車は長いこと走り続けていた。外は真っ暗闇で、窓には反射した車内の様子が映っている。
次の駅へは翌日に到着すると、前の駅でアナウンスがあった。
機関車も運転手も交替し、乗客も半分くらいは降りていった。
だが、男はまだそこにいる。最前列の座席に座り続けている。
サクとアサヒはリュックの中から、昨日入れた石のように硬いパンを取り出して頬張った。
食事を済ますと、眠くなってきたのか、アサヒはうとうとし始めた。振り子のように揺れていた頭が、こつんとサクの肩にぶつかった。
「ごめん。眠くなっちゃって」
アサヒは重そうにまぶたを開け閉めしながら、左手を耳の上にやった。
「……あっ、そうだった。ポケットに入れたんだった」
そう言って、毛布の代わりとして体にかけていた上着のポケットに触れる。
髪飾りがそこにあることに安心したのか、アサヒは小さく息を吐くと、再びうとうとし始めた。
「おやすみ」とサクは言った。
「おやすみ」
アサヒはそう答えると、今にも眠りにつきそうな声で呟いた。
「……サク。約束、忘れないでね」
一分も経たないうちに、すぅすぅと寝息が聞こえ始めた。
三つ編みでないアサヒの寝顔は、いつもと違っていて新鮮に感じた。
肌身離さず身に着けている物……。
アサヒにとっての髪飾りと同じように、男にとって、それはとても大切な物に違いない。
そんな大切な物を素直に差し出してもらえるだろうか?
不安が胸の中を駆け巡る。しかしその不安は、襲ってきた睡魔によって波にのまれるように消えた。
ズキッという頭の痛みを感じて、サクはまぶたを開けた。
ガタンゴトンと列車の走る音が意識を呼び覚ます。天井に明かりは灯っているものの、車内は薄暗い。窓の外はさらに暗く、まだ冷たい夜の世界だった。
駅に到着するまで、あとどれくらいだろうか。
その駅で、男は降りるのだろうか……。
そんなことを考えると、頭がまたズキッと痛んだ。
ついでに吐き気もする。おまけに尿意も感じて、サクはアサヒを起こさぬよう、そっと立ち上がった。
車両後方のトイレのドアを開ける。中へ入ると、あまりの寒さに身震いした。
トイレは開放式だった。ゆえに、便器に開いた穴からダイレクトに冷たい外気を受けて、全身カチンコチンに凍りそうだった。
用を足し終え、早く座席に戻ろうとドアノブに手をかけた、ちょうどその時。
パンッパンッと、乾いた音が聞こえた。
それが何であるか、まだ頭の痛みが残っているせいか、サクはすぐに思い至らなかった。
ドアを開けて、
「動くな」
銃口を突きつけられるまでは。




