83話
黒ずんだ石畳の道を歩く。冷たく重い空気の中、足音がコンコンと鳴り響く。
サクは左腕につけた時計を見た。ここ、タリゴに到着し、運転手たちと別れてからおよそ三十分。通りの角を曲がるたびに、時計の針は大きく動いた。
近い。思いがけず、目的の物はすぐ近くにあった。――だが。
「ひとまず昼食にしよう」
サクは吸った冷気で胃が冷えるのと同時に、空腹を覚えて言った。
このまま探し続けても、寒さにどんどん体力が削られ、おまけに腹が空いて苛立つだけだ。
目的は後回しにして、サクたちは昼食をとることにした。
「あっ! お店発見!」
アサヒが道の先の立て看板に駆け寄る。
「ベーコンレタスサンド……せ、せんごひゃくエルン!?」
口をぱくぱくさせているアサヒの元へ寄って、サクは看板に書かれているメニューを読んだ。
「たっか」
ベーコンレタス卵サンドが千八百エルン。エビサンドが二千エルン。全部乗せのスペシャルサンドは、なんと三千エルンだった。
もしかすると、相当ボリュームがあるのかもしれない。それなら、一つを二人で分け合えば……。
サクは淡い期待と好奇心を持って、分厚いガラス窓の向こう側を覗いた。
「ちっさ」
客の前に、たった今運ばれてきた真っ白な皿。の上に、ちょこんと載っているエビサンド。
「あれで二千エルン……」
「他のお店も見てみる?」
「そうだな、そうしよう」
しかし数十分後。サクとアサヒは、最初に見つけたこの店の前に戻っていた。
「なんて街だ。物価が高すぎる」
タリゴという都市は元々、大陸北部の西端に位置する歴史ある平和な街だった。そこに、東の方から戦乱を逃れてきた人々が流れ込んできたことで人口が急増し、ありとあらゆる物の供給が追いつかず、物価が上昇。
さらに治安も悪化して、生活が立ち行かなくなった者やあぶれたよそ者、嫌気が差した者や将来を悲観した者たちは街を出ていった。
「――というわけなのよ。私の友人も、何人もこの街を出ていったわ。……でも、たとえ友人たちが全員この街を出ていったとしても、私は絶対に出ていかないわよ。夫が帰ってくるまではね」
サクはベーコンレタスサンドを頬張りながら、目の前の女性の話に耳を傾けていた。
混み合う店内で先に注文と会計を済ませ、空いているテーブルを探していた時、相席でもよければと言ってくれたのが、このいかにも人のよさそうな中年の女性だった。
女性は、見るからによそ者で、右も左も分からないといった様子のサクたちに、親切にこの街の状況を教えてくれたのだった。
「さて、と。そろそろ行こうかしらね」
立ち上がりかけた女性に、サクは喉に張りついたパンとレタスを急いで飲み込んで言った。
「あの、もしまだ時間があれば、もう少しだけお願いできませんか? お尋ねしたいことがあって」
女性は琥珀色の瞳をぱちくりさせて、椅子にかけなおした。
「構わないけど……尋ねたいことって何かしら?」
サクは上着のポケットから絵はがきを取り出した。それをテーブルの上に差し出す。
「この絵はがきに描かれている人物をご存知ですか?」
女性は一目見ただけで、その人物が誰であるか分かったようだった。
「もちろんよ。ここ北部でその人物を知らない人間はいないわ。――そういえば、そちらのお嬢さんはアリエスにそっくりね。特にその髪飾り……」
アサヒは左耳の上につけた髪飾りにそっと手をやった。その様子を気にかけながらも、サクは話を戻した。
「それで、その……『アリエス』という人物について、何でもいいので、知っていることを教えてくれませんか?」
女性はにこやかに微笑むと、「いいわよ」と言って語り始めた。
「昔むかし――と言っても、それほど大昔ではありません。あるところに、小さな村がありました。村には大きくて頑丈な神殿があり、その神殿の奥には、『神の国』の内部に繋がっているとされる石の扉がありました。村人たちは皆、とても熱心に神様を信じ、毎日その扉の前で祈りを捧げていました。
……ある時。その村一帯を大地震が襲いました。あちこちで建物が崩れ、多くの人たちが下敷きになってしまいました。村人たちは、必死に下敷きになった人たちを救い出し、神殿に運びました。
幾人かは既に亡くなってしまっていましたが、まだ息のある人もいました。しかし、村人たちの手ではどうすることもできませんでした。
村人たちは扉に向かって祈りを捧げました。どうか、どうか、助けてください。神様――と。
すると突然、一筋の光が差し込みました。開かないはずの扉が開き、青い花の髪飾りをつけた、金髪の少女が現れたのです」
サクは息を呑んだ。想像の世界で、重い石の扉が開き、金髪の少女が現れる。――その少女は、紛れもなくアサヒだった。
「村人たちは大変に驚きました。しかしすぐに少女に駆け寄って言いました。あぁ、神様。どうかお助けください、と。少女は目の前の光景に驚き、怯えた表情で首を横に振って言いました。『わたしは神様ではありません』。
村人たちは、では、あなたはどなたなのですかと尋ねました。少女はしばらく固まったまま動きませんでした。やがて小さく、『わたしは、誰?』と呟きました。
村人たちは顔を見合わせ、思い思いに言いました。このお方はきっと、神様の使いであらせられる。神様が自分たちを助けるために、使いを送ってくださったのだ。――村人たちは少女を、一番怪我の酷い子どもの前に連れていきました。どうか、この子を助けてください。
少女は目に涙を浮かべながら、今にも命の灯火が消えてしまいそうなその子どもに、おそるおそる手を伸ばしました」
女性は両手を胸に当てながら、大きく息を吸った。
「すると、なんということでしょう。大怪我を負った子どもの傷が、みるみる消えていくではありませんか。村人たちは驚愕しました。そして、歓喜の声をあげました。神様がお助けくださった。我々の元に、使者を送ってくださった!
その時、東の山の頂上が光り輝き、オーロラの壁が現れました。オーロラは、女神エイオス様を象徴するもの。間違いない。このお方はエイオス様の使者だ。村人たちは口々に言いました。
彼女が“アリス・エイオス”様と呼ばれるようになったのは、それから暫く経ってのこと。村の子どもの誰かが、名前の分からない彼女を不憫に思ってか、勝手に付けたその名前で呼びはじめ、あっという間に村じゅうに広がりました。
こうして少女は、村人たちからアリス・エイオス様と呼ばれ、神殿で生き神様のように敬われながら生活することになったのです」
サクは心の中でその名を呟いた。
――アリス・エイオス……。
「神の使いが現れたという話は、瞬く間に周辺の村々に広がりました。少女は人の怪我や壊れた物を瞬時に『なおす』ことができました。その力を求めて、あちこちから人がやってきたのです。村は人の往来によってみるみる大きくなり、町へと変貌を遂げました。
一方で、この町と神の使いを手中に収めようとする者がおりました。その者は、北部一栄えている民族の長でした。彼は手下たちに命じて、町を侵攻しようとしました。
当然、町民たちは抵抗しました。それどころか、武器を集めて反撃に出たのです。激しい戦いになりました。命を落とした者も大勢おりました。
少女には、壊れた武器や人の怪我をなおすことはできても、死んだ者を生き返らすことはできませんでした。
悲しみに暮れながらも奮闘する彼女を側で支えていた者たちは、彼女と共に反戦を訴えました。しかし、戦況はますます悪化するばかり。戦わなければ、殺される……。彼らは反戦の声を沈め、彼女を励まし続けました」
女性はまた大きく息を吸って言った。
「ある時少女は、これ以上は我慢できないと神殿を飛び出し、戦場のど真ん中で『今すぐ争いをやめてください』と叫びました。しかし、誰も彼女の声を聞き入れはしませんでした。それどころか、彼女を敬っていたはずの町民たちでさえ、邪魔だ、どけろと、彼女を邪険にしたのです。
少女は大きなショックを受けました。そして、自分がいるから戦争が終わらないのだと思いました。――その日の夜。少女はずっと側で自分を支えてくれていた数名の者たちに、感謝と友情の言葉を書き残し、ひっそりと姿を消しました。
それからしばらくして戦争が休まると、少女と親しかった者たちは集団で町を去りました。彼女を捜す旅に出たのです。その集団は西へ西へと進みながら、寄った土地で彼女の話をしました。彼女のことをアリス・エイオス様ではなく、親しみを込めて、“アリエス”と呼んで」
「だから、アリエス……」
サクは呟いた。女性はもの悲しげな笑みを浮かべた。
「私、実はその集団の末裔なのよ。子どもの頃に何度も何度も父からこの話を聞かされたわ。
私にとっては小さい頃から親しんだおとぎ話だけれど、事実として、二百年前から途切れ途切れに争いは続いている。世代が交代しても終わらない。怒りも憎しみも知らなかった子どもたちが成長し、争っているのを思うと、何とも言えない気持ちになるわね……」
サクは小さく頭を下げ、礼を言った。
「ありがとうございます。おかげで、ようやくアリエスという人物について知ることができました」
「こちらこそありがとう。なんだか息子のことを思い出しちゃったわ。昔はよく息子にもこの話を聞かせてあげたのよ。最近じゃ、ろくに会話すらしなくなってしまったけど」
女性は困ったように眉尻を下げると、「それじゃあ、そろそろ失礼するわね」と言って店を出て行った。
口ぶりからして、女性はアリエスを実在しない人物と思っているようだった。
……無理もない。誰だって、直接目にしなければ本気で信じることなどできないだろう。
人の怪我や壊れた物を、瞬時に「なおす」ことのできる人物が、この世に存在するなんてことは。
サクたちは店を出ると、入り組んだ道を時計の針が示す方向に向かって歩き続けた。しかし陽が沈み、雪が降り始めても、目的の物にはたどり着けなかった。
サクは街灯の下で足を止め、「アサヒ」と呼びかけた。
ふわふわした金髪に、無数の解けかけた雪の粒がついている。
白い肌は今まさに降っている雪のようで、儚く、触れれば一瞬で消えてしまいそうな気がした。
「……宿を探そう。これ以上寒くなる前に」
アサヒは「うん」と小さく頷いた。




