82話
北部へ入るための検問は、存外あっさりと通過できた。
どこの組織か分からない、見たことのない制服を着た男二人が扉を開けて覗き込んできた時、サクはコンテナとコンテナの隙間から息を殺して状況を見守っていた。
その横で、アサヒが朝食のパンを頬張ったまま、だるまさんが転んだみたいに手を不自然に上げて固まっていた。
扉が閉まり、トラックが走り出すと、二人は揃って「はぁ〜」と安堵のため息をついた。
それからアサヒは朝食を再開し、サクはコンテナをよじ登って、荷台の扉に近づいた。
小窓を開けて外を覗く。冷たく乾燥した風が眼球に吹きつける。
全くもって殺風景だった。
広い大地は乾いた土で白っぽく、遠くの山は岩肌をむき出しにしている。穴ぼこだらけの道路の周囲には、枯れかけの草がひょろりと寂しく生えている。
そんな景色が何時間も続いた。
トラックは途中で何度か停車した。
運転手たちとサクは、道端で用を足した。アサヒは――おそらく停車したトラックの反対側で用を足したのだろう。
陽が沈みかけると、ますます気温が下がって寒くなった。
運転手の話では、これから近くの休憩所で一夜を明かした後、明日の昼前にはタリゴという都市に着くとのことだった。
サクはコックスにもらったグローブを手にはめて、再び扉に近寄った。新鮮な空気を吸おうと、小窓を開ける。
凍てつくような風がビューッと音を立てて吹き込んでくる。
すぐに閉めようとした、その時。滑り込むように何かが小窓から入り込んできた。
「うわっ」
驚き、後ろに転倒する。ドスンと音が響いた。
「どうしたの?」
アサヒがランタンを片手に、コンテナの上から顔を覗かせた。
「今、何かが入ってきて……」
サクは足元に落ちていた一枚の紙を拾い上げた。
「何だ?」
暗くてよく見えない。サクはそれを手に持ったまま、アサヒのいるコンテナの裏側に戻った。
「……絵はがき?」
ランタンの明かりで露わになったそれを見て、サクとアサヒは同時に呟いた。
「なんでそんなものがこんなところに」
サクは眉をひそめた。
色褪せて黄ばんだ古い絵はがき。ずっと長いこと、外を彷徨っていたのだろうか? いや、もしそうなら、風化して跡形もなくなっているはず。
「この絵……」
アサヒもサクと同様に、じっと絵はがきの絵を見つめていた。
夜明けのような白んだ空に、鈍く光るオーロラの壁。そのすぐそばに佇む、金髪の可憐な少女。
少女は、以前にルゥが描いた「アリエス」によく似ていた。
――アリエス……。
ふと、サクは裏側の文字が透けているのに気がついた。
「何か書いてある」
すぐにはがきを裏返した。インクの滲んだ文字が、ランタンの明かりに照らされて浮かび上がる。
「――サク君へ」
読み上げたサクは、驚いて目を見張った。
アサヒが言った。
「これ……サク宛てのはがきみたい」
――俺宛てのはがき? 一体どういうことだ?
状況を飲み込めぬまま、はがきに書かれた文字を読む。
『サク君へ
今、どこにいますか? 元気でやっていますか?
元気でいてくれることだけを私は願っています。……というのは嘘で、本当はあなたに会いたいです。
もし私のわがままを聞いてくれるなら、帰ってきてください。
帰ってきて、私に「おかえり」って言わせてください。
私は、もう一度あなたに会えると信じています。
ユカリ』
サクは口を閉ざして固まった。しばらくして、
「ユカリさん……」
懐かしい、従姉の名前を口にした。
生真面目で、慎ましく、凛とした女性。祖母の若い頃はきっとこんな感じだったのだろうと、いつの日か思ったことがあった。
それはいつのことだっただろうか……。
そう遠くない日。祖母の葬儀のあと、一緒に住まないかと誘われた。その後しばらくして、準備に時間がかかってしまったと謝りながら、自分を迎えに来てくれた、あの日――。
「サク?」
アサヒが心配そうな顔でサクを見る。
サクの手から、ひらりとはがきが落ちた。
「思い出した。……俺、ユカリさんと暮らしてたんだ」
混乱する頭を片手で押さえ、忘れていた記憶を再生する。
住んでいたアパートも、自分の部屋も、誕生日にダイニングテーブルの上から財布の入った箱を見つけたことも、何もかも思い出した。
「……よかった。サクには、ちゃんと帰る家があったんだね」
アサヒが穏やかな声で言った。
サクは頭を押さえたまま、静かにうつむいた。
帰る場所があったなんて、思いもしなかった。自分の帰りを待っている人がいるなんて、思いもしなかった。
――謝らないと。帰って、黙っていなくなったこと、心配をかけたことを、ユカリさんに謝らないと。
だが、今はやるべきことがある。今すぐ帰るわけにはいかない。ここで引き返すことはできない。
何としても、父の失踪した理由を突きとめる。そのために自分は今、ここにいる――。
混乱が収まると、サクは床に落ちたはがきを拾い上げた。
「それにしてもこのはがき、どうやって……」
「決まってるよ。先生の魔法で、サクの元に届いたんだよ」
「父さんの魔法?」
サクは訝りながら、アサヒに腕時計を見せた。
「時計の針はこのはがきを指していない。父さんの過去も見えない。なのに、なんで父さんの魔法って断定できるんだよ」
「だってわたし、この絵はがき見たことあるもん。先生が折り畳んで、大切そうに財布にしまうところを一度だけ。
見間違えなんかじゃないと思う。さっきじっとこの絵はがきを見ていたら、わたしと同じようにじっと絵はがきを見つめている先生の姿が浮かんだの」
サクは驚いて、もう一度絵はがきを見た。記憶を探る。が、どこにも引っかからない。自分は今まで、一度もこれを見たことはない。
「なんで父さんは俺にこれを見せなかったんだ? 隠していたのか? この絵はがきに描かれた『アリエス』という少女と、父さんが失踪した理由に、何か関係があるのか?」
サクはまくしたてるように疑問を口にすると、隣を向いて、絵はがきに描かれた少女と目の前の少女とを見比べた。
「やっぱり、似てる……」
と、その時。
ガタン、とトラックが大きく弾んだ。
「うわっ」
床に置いたランタンが倒れ、はずみで明かりが消えた。
「……サク?」
暗闇の中、耳元で声がした。サクはアサヒの背中に置いた両手をどうするべきか、ただそれだけを一生懸命に考えていた。
すぐに離れるべきなのは分かっている。しかし、体が言うことを聞かない。
「サク」
もう一度、鈴の音のような声がした。
「ご、ごめん」
ようやく手を離そうとする。と、なぜか背中の中心がポッと温かくなった。
アサヒは手形を押すようにサクの背中に触れた。
「あったかい?」
「え?」
「寒いのかと思って。寒かったら、しばらくこうしててもいいよ」
「…………うん」
サクは離しかけた両手をじっと落ち着かせた。
あの時と同じだ。酒に酔って思わず抱きしめた時と同じ。
拒絶はされていない。むしろ受け入れられている。けど、やっぱり、俺のこの気持ちには気づいていないんだろう。
「はぁー」
サクは長いため息をつきながら、アサヒの背中に置いた手に力を込めた。
自分の心臓の音が聞こえる。うるさいくらいにバクバク鳴っている。
気づいてくれ。いや、気づかないでくれ。
――どっちだよ。というか、これで気づかないって何なんだよ。
アサヒはサクの背中を服の上からゴシゴシ擦った。
「乾布摩擦!」
「は?」
「知らないの? 乾布摩擦」
「……知ってる」
サクはまた長いため息をついた。
暖炉にあたったように、全身が火照っていた。
ドアがある。
開けられない、ドアがある。
――ここは、どこだ?
意識が混濁する。ここがどこなのか、自分が誰なのか、分からない。
目の前に木製のドアがあった。
汗の滲んだ手で取っ手を掴み、力を込めて引く。が、びくともしない。
自分にはこのドアを開けることはできないと知っている。だが、それでも……。
「そこにいるの?」
返事はない。けれど、彼女はこのドアの向こうにいるはずだ。
今すぐ彼女に会いたい。それなら、開けるしかない。
呼吸を止め、もう一度右手に力を込める。
瞬間、パリンッと何かが割れたような音がして、ドアは勢いよく開いた。
目に飛び込んできたのは、床の上に横たわる彼女の姿だった。
「……寝ているの?」
呼びかけながら、彼女の元へ寄る。
「起きて」
返事がない。体を揺さぶり、名前を呼ぶ。
「アサヒ。起きて、アサヒ――」
「起きてるよ!」
その声に、サクはパッと目を覚ました。訝しげな青い瞳が、ゆらゆらとランタンの明かりに揺れている。
「起きてないのはサクの方でしょ?」
サクは何のことだか分からず、数回まばたきをした。
肩まで覆っている毛布を腰のあたりまで下ろしながら、重い体を起こす。その瞬間、頭がズキッと痛んだ。
「もう。とっくに朝なのに、全然起きないんだから。太陽が昇ったら自然と目が覚めるものでしょ」
「太陽……?」
サクは寝ぼけ眼でぐるぐるとあたりを見回した。
「真っ暗だけど」
「トラックの中だもん。だけど、たとえ光が差し込まなかったとしても、太陽が昇ったことかどうかわかるでしょ?」
「それはアサヒの特性だろ」
サクは口を大きく開けてあくびをした。
「サクは違うの?」
「違う。まだ夜だと思ってた。脳がそう認識してた」
「嘘つき。さっき寝言で、わたしに起きてって偉そうに言ってた! 夢の中ではサクが起きてて、わたしが寝てたんでしょ?」
「……夢?」
サクは首を捻った。
「覚えてないの? どんな夢を見てたか」
「全く」
「ほんとに? あんなに何度もわたしの名前を呼んでたのに」
その言葉に、眠気がバチッと弾け飛んだ。顔の表面が熱くなる。
「名前を、呼んでた……?」
「うん。わたしたち、夢の中でも一緒だったんだね」
思わぬ追撃に堪えきれず、サクは毛布を頭までかぶって横になった。
「あっ! なんでまた寝るの?」
サクはアサヒの言葉を無視した。
――夢の中でも一緒……。
それは自分の願望ではないか。ずっと一緒にいたい。その願望が夢を見せたのではないか。
そう考えると同時に、なぜか頭がズキズキと痛んだ。
そら寝の二度寝を開始してから約十分後、ドンドンドンと外から扉を叩く音が聞こえた。
サクは今度こそ起き上がった。扉が開き、
「おーい。起きてるか―? これからタリゴへ向かうけど、ノンストップで行くからな。出すもん出すなら、今のうちに行っとけよー」
と、運転手の声がした。
サクとアサヒは急いでトラックを降りた。
用を足し終え、便所を出る。寒さにブルッと身震いする。
サクはトラックにグローブを置いてきたことを後悔しながら、仕方なく上着のポケットに両手を突っ込んだ。
草の生えていない空き地に、トラックが数台停まっている。
サクたちが一夜を明かしたこの場所には、薄汚い便所と、暖をとれる小屋があった。
その小屋には柄の悪い男たちがたむろしており、運転手らは堂々と中へ入っていったが、サクはとても入る気になれなかった。
ポケットから例の絵はがきを取り出す。それを明るい空の下、あらためて見る。
三年前。カントで父は、この絵はがきに描かれている少女と同じ人物が描かれた絵を熱心に見ていた。
北部の伝承。神の使い。青き花飾りの乙女。
「アリエス……アサヒ……」
やはり二人には何か関係があるのだろうか。父はあの絵で、そのことを自分に示そうとしたのではないか。
しかし……もしそうだとしたら、
――父さんは、俺が魔法を解くことを予見していた……?
父はアサヒに「時計の針が指す方へ行け」と言い、自分には「時計を絶対に手放すな」と言った。
その言葉に従った結果、最初に針が指し示したのがあの絵だった。
あの時、父は本当にただのコーヒー代の代わりとして絵を置いて行ったのだろうか? 本当は初めから、魔法を解かせることを目的として絵に魔法をかけたのではないか? 絵はがきの代わりになるように。
仮にそうだとしたら、カドがかけていた眼鏡はどうだ。父があの眼鏡に魔法をかけたのは自分が生まれる前のことだ。
棺は? あれはそもそも父が魔法をかけた物ではない。ラゴウというどこの誰だか分からない人物がかけた物だ。
ピアノに魔法をかけたのは、大好きなピアノから離れようとするカノンを引き留めるため……。
頭がこんがらがる。これだけヒントがあっても、まだ何も分からない。分かっちゃいない。
「なんでこんなところでじっとしているの?」
サクは絵はがきに向けていた目線を上げた。はがきに描かれた少女と瓜二つの少女が小首を傾げている。
「こんなところにいたら風邪引くよ? 早くトラックに戻ろっ」
「うん」
答えて、サクは上着のポケットに絵はがきをしまった。




