81話
工場で働く、最後の日。
サクはいつも通りに仕事をして、いつも通り、隣の席の男に捕まらないようにそっと工場を出ようとした。……のだが、別れの挨拶くらいはしておこうと思い直して、男に近づいた。
「あの」
男が首を回す。
「おぅ、何だ? って、もう定時かよ! 全然終わってねぇのに……」
サクは一瞬身構えた。この流れはまずい。残った仕事の半分を押しつけられる、と思ったが、男は小さくため息をついただけだった。
「確か今日で最後だったよな」
「はい。短いあいだでしたけど、お世話になりました」
「あぁ。寂しくなるな。いつでも戻ってこいよ!」
サクは曖昧に頷き、男に別れを告げた。
工場を出たサクは、その足で併設されている事務所に入った。
「失礼します」
狭い事務所の奥。窓際に置かれた革張りの椅子に、作業着姿のコックスが腰掛けている。
「ご苦労だったね。君のおかげで無事に納期に間に合ったよ。ありがとう」
「いえ。こちらこそ、今まで本当にありがとうございました」
サクは心を込めて礼を言った。
コックスに雇ってもらったおかげで、あの時駅で盗まれたお金は、ほぼ全額取り戻せたはずだ。
コックスはデスクの一番上の引き出しを開けた。中から白い封筒を取り出して、サクに差し出す。
「今まで働いてくれた分の給料だ。確認してくれ」
サクは頭を下げて封筒を受け取ると、言われた通り中身を確認した。
思わず驚愕の声を出す。
「こんなにいいんですか?」
予想以上の金額が入っていた。
コックスは、さも当たり前の表情で「あぁ」と頷いた。
「君はブラムリーを救ってくれたからな。その礼も含んでいる。……私にとって、彼は特別な存在なんだ。もし彼を失っていれば、私は気がおかしくなって仕事を放棄していたかもしれない。そうなれば、取引先にも従業員たちにも迷惑をかけただろう。君はそれを防いでくれた。改めて礼を言うよ。本当にありがとう」
「あ、いえ……」
深々と頭を下げるコックスにサクは戸惑い、うわずった声で返事にならない返事をした。
「――さて。出発の準備はどうだね?」
「九割方済んでいます」
「よし。今夜二十三時に、荷積みを終えたトラックがここを発つ。絶対に遅れるなよ? 遅れたら、次の運搬日までまたここで働いてもらうからな」
サクは「はい」と、今度ははっきりとした真面目な声で返答した。
部屋に戻ったサクは、素早く掃除を済ませると、近場の店で調達した大きなリュックを背負って、ブラムリーの部屋へ向かった。
チャイムを押す。「はーい」と鈴の音のような声がして、アサヒがひょこっと顔を出した。
「ちょうどいい時に来た! 早く入って。冷めたら硬くなっちゃうから」
アサヒはそう言うと、サクを待たずにスタスタと奥の部屋へ入っていった。
サクはリュックを玄関脇に置いて、アサヒの入っていった部屋へ向かった。
玄関にまで漂っていた香ばしい匂いがだんだん強くなってくる。
「いらっしゃい」
部屋に入った瞬間、ブラムリーが笑顔で迎えてくれた。
サクは「こんばんは」と挨拶したあと、謝辞を述べて借りていた部屋の鍵を返した。
「さぁ、揃ったことだし、早速夕食としよう」
ブラムリーに続いて、食卓へ。テーブルの上にはさっきの香ばしい匂いの元があった。
アサヒが目をキラキラさせながら席について言う。
「肉屋のお兄さんに、今日で最後なんですって言ったら、特上のステーキ肉をくれたの! すごいでしょ?」
サクは真顔で「へぇ」と呟いた。
「あんまり嬉しくなさそう。食欲ないの?」
「いいや。むしろ空腹で死にそう」
ブラムリーはかすかに笑いながら、そばに置かれていた瓶を持ちあげた。サクのグラスに透き通った液体が注がれていく。
サクは慌てて尋ねた。
「これって、酒じゃないですよね?」
「安心してくれ。ただの炭酸水だ」
サクはほっとひと息ついた。ブラムリーは自分のグラスにも同じものを注ぎながら言った。
「実は私も、酒はあまり飲むなと医者に言われていてね。飲むのはコックスが来た時だけと決めているんだ」
どこか悪いのだろうか? ブラムリーの青白い顔や細い首元を、サクはそっと覗き見た。
「コックスは私が医者にかかっていることに薄々気づいているだろう。だが何も訊いてはこない。私の方も訊かれない限り、コックスに話す気はない。余計な心配をかけたくないんだ」
サクは眉をひそめた。
「社長は、既にあなたの心配をしていると思いますけど……」
「そうだろうね。だけど私の前ではそのような素振りを見せたことはないよ」
「意地でも張り合っているんですか?」
ブラムリーはコックスのようにハッハッと大きく口を開けて笑った。
「アイツは、私が人に心配されるのが嫌いなことをよく知っているんだ。子どもの頃からの付き合いだからね。だから、私の気持ちを尊重してくれているだけなんだよ。意地を張っているのは、私だけだ」
ブラムリーはアサヒのグラスにも炭酸水を注いだあと、自分のグラスを持った。促されるようにして、サクとアサヒもグラスを持った。
「さて、今宵は送別会だ。――乾杯」
楽しい晩餐会は何時間も続いた。夜が更け、出発時刻に迫るまで、サクたちはブラムリーとたくさん話をした。
昔、コックスの工場は別の人間が経営していたこと。そこでは手袋やら車の部品やらカセットテープやら色々なものを作っていたこと。倒産寸前の工場をブラムリーが買い取って、コックスに押しつけたこと。
初めて知る話ばかりだった。
そしてとうとう、別れの時間がやってきた。
ブラムリーは餞別として、日持ちのする食料や水を渡してくれた。
サクとアサヒは、何度も礼を言ってブラムリーの部屋をあとにした。
深夜二十三時――の二十分前。
大きな荷物を背負ったサクとアサヒは、工場に到着した。
裏手の倉庫の前に、古びた中型トラックが数台停まっている。そのうちの一台のそばに、コックスが立っていた。
コックスは夕方と同じ作業着のままだった。あれからずっと荷積み作業に勤しんでいたのだろう。疲れが見て取れた。
「こんばんは、コックスさん」
アサヒが声をかけると、コックスは手に書類のような物を持ったまま振り返った。
「やぁ、料理上手で酒に強い嬢ちゃん。手向けにサイダーを持ってきてやろうと思ったんだが、トラックの中でゲロ吐かれたら困るからなぁ。嬢ちゃんは問題ないだろうが」
ニヤッとしたコックスの目がサクを向く。
「だから、酒はいりませんって」
コックスはハッハッと笑った。
「すまないな。忙しくて、餞別の品を用意するのをすっかり忘れていた。代わりといっては何だが、これをやろう」
そう言って、コックスは作業着のポケットに手を突っ込み、そこから灰色のグローブを二組取り出した。
「ここの前身の工場で作っていたものだ。余っている在庫のうちのたった二つをやるだけだから、遠慮はいらない。
これから寒いところに行くんだからな。いくらか防寒になるものが必要だろう」
サクとアサヒは礼を言って、それぞれ受け取った。
「さぁ、ついてきてくれ。君たちが乗るトラックに案内しよう」
コックスに言われるがままについていく。と、トラックの横で煙草を吸っていた運転手らしき二人組が、慌てた様子で吸殻を携帯灰皿に入れた。
一人が被っていた帽子を脱いで言った。
「社長。この二人……ですか?」
「あぁ、そうだ。前にも話したと思うが、彼らは父親に会うために北部を目指して、はるばる南部のアステールからやってきた。だが、父親が北部のどこにいるのかまで分からんそうだ。
だから、タリゴに着いたら積み荷と一緒に降ろしてやってくれ。そこから先は自分たちで何とかするだろう」
「はぁ。しかし関所がありますし、一応検問が……」
「検問が、どうかしたか?」
コックスの凄むような言い方に、二人組は揃って顔を引きつらせた。
「いえ、何でもありません」
「じゃ、よろしく頼んだぞ」
「ラジャーです!」
コックスはサクに向き直ると、真剣な表情で右手を差し出した。
「君たちの旅が上手くいくことを願っている。くれぐれも、気をつけるんだぞ」
「はい」
サクはコックスの手を固く握った。
コックスが去ったあと、サクとアサヒは二人組と挨拶を交わした。二人は交替で運転するらしかった。
片方が荷台の扉を開けた。
「手前のコンテナの裏側に、二人分のスペースを確保している。社長の指示で、毛布やランタンを用意してあるから、自由に使ってくれて構わない。――ただし、検問の時には絶対に明かりをつけるな。声も出すな。分かったな?」
「ラジャーです!」
「ラ、ラジャーです」
サクはアサヒにつられて返答してから、尋ねた。
「その、検問というのはどういう……」
「君らはそんなことも知らずに北部へ行こうとしていたのか?」
「すみません」
「これはさすがに知ってると思うが――北部の、特に東側では、度々民族同士の対立による衝突が起きている。最近は落ち着いているようだが、いつまた悪化するか分からない。
以前、あまりに戦闘が激化した時、北部の人間が一斉に西部に押し寄せてきたことがあった。その時、西部にまで混乱が広がることを不安視したお偉いさん方が、関所を設置して西部・北部間の通行を規制した。
検問ってのは、その関所を通る時に行われるものだ。ただ通行を規制するだけじゃ意味がないからな。一応中まで調べて、ヤバい奴が出入りできないようにしているんだ」
サクは不安に駆られ、青ざめた顔をした。
通行に制限があるという話は、以前コックスに聞いて知っていた。が、検問があるとは全く知らなかった。
運転手はサクの肩を軽く叩いて言った。
「まぁ大丈夫だ。通行許可証はちゃんとあるし、初めて通るわけじゃないからな。……けどな、アイツら、おっかねぇんだわ。平気で人を撃ち殺しそうな目をしてやがる。
だから殺されたくなければ、さっき言った通りにしろ。分かったな?」
「ラ、ラジャーです」
「ラジャーです」
今度はアサヒがサクにつられたように返答した。その声は少し震えていた。
サクは無機質な空気の漂う荷台に上がり込んだ。
肩ほどの高さのコンテナが整然と並んでいる。左右はしっかりと金具で連結され、端は床と壁に紐で結び付けられていた。
コンテナによじ登ってみると、二人組に言われた通り裏側にちょうど二人分のスペースがあった。床に新聞紙が敷かれ、その上に毛布が二枚と、キャンプで使うようなランタンが一つ置いてあった。
サクはそのランタンに明かりを灯し、動き出したトラックの中で再びコンテナをよじ登った。
荷台の扉に、開閉できる小さな窓がついていた。その窓から、外を覗き見る。
見慣れた景色がみるみる遠ざかっていく。
全ての地は通過点に過ぎない。別れは必ず訪れる。
分かっていても、感傷的になる。その傍らで不安と恐怖がジリジリとにじり寄ってくるのを感じた。
もうあと戻りはできない。
あと少し。あと少しで、父の失踪の真実にたどり着ける。
サクは左腕につけた時計に目を向けた。右手で文字盤を覆う。温もりが手のひらから伝わって、心臓をドクッと動かした。
ここで引くわけにはいかない。
この先、どんな困難が待ち受けていたとしても――。




