80話
煙のような薄い雲が空を覆っている。
予報では、夕方から夜にかけて雨が降るらしい。小雨なのか土砂降りなのかは分からない。
道いっぱいに敷き詰められた落ち葉を踏みつけながら、サクは「はぁー」と長いため息をついた。
気がつくと、朝になっていた。
ソファの上で目を覚まし、なんだ夢か……と一瞬思った。
が、夢であるはずがなかった。
自分はこれまで一度たりとも、起きてから夢の内容を覚えていたことはないのだ。
それに何より、アサヒを抱きしめた時の感触も、温もりも、はっきりと体に残っている。
――夢じゃない。
その瞬間、サクは頭から冷水をかぶせられたように全身を凍りつかせた。
バクバク鳴る心臓を落ち着かせようと、キッチンに向かった。
グラスに水を注ぎ、飲み干す。また注ぐ。それを持って窓際のテーブルについた時、隣の部屋のドアが開いた。
「おはよう、サク」
いつもと変わらない口調。いつもと同じ微笑み。
「お、おはよう」
サクは目を合わさずにそう言うと、窓辺に置かれたラジオの電源ボタンに手を伸ばした。
朝らしい、明るい音楽が流れ出す。
アサヒは近寄ってくると、正面からじっとサクの顔を見た。
「まだ酔ってる?」
サクはできる限り距離を取ろうと、顔と体を後ろに引いた。
「一晩寝たら、醒めた」
「よかった! じゃあ、元通りだね!」
――元通り。
さっき飲んだ水が、今頃喉元を過ぎたかのようにひんやりとした。
アサヒは昨日のことを何とも思っていないのだろうか?
酒に酔ったせいであんなことをしただけだと思っているのだろうか?
サクはテーブルに置いたグラスを再び手に取ると、残っていた水を一気に飲み干した。
立ち上がって、ソファの背もたれにかけてあったコートとカバンを取り、そそくさとドアへ向かう。
流れていた曲が終わり、ラジオは今日の天気予報を告げていた。
「どこに行くの?」
アサヒの驚いた声が背中に当たる。
「……ちょっと、工場に」
「どうして? 今日ってお休みじゃないの?」
「繁忙期だから、休みでも稼働してるんだよ。予定がない奴は来いって言われてるから。……じゃ」
そう言って、サクはドアを開けた。背後でガチャンと閉まる音が響いた。
サクは路上で、もう一度深いため息をついた。
実際、仕事は休みだった。
嘘をついて部屋を出てきたものの、行くあてもなく歩いている。そんな状況だった。
ふと、肉屋の看板が目に入った。
凛々しく、背の高い、いかにもな好青年が店頭に立っている。
嫉妬ほど格好悪いものはない。
今すぐ胸の中から、この絡まった糸くずのような感情を取り出してしまいたい。
歩いて、歩いて、気がつくと、工場の前にいた。
「よぉ。お前も社長に呼び出されたのか?」
背後からした声に、サクは思わず「げっ」と漏らしかけた。
近づいてきた男から、微かに覚えのある酒の匂いがした。
「近所をブラブラしてたら、偶然社長に会ってよ。話があるってんで、さっきまで事務所にいたんだ」
サクは伺うように男の顔を見ながら尋ねた。
「何の話だったんですか?」
「お前、もうやめちまうんだって?」
「そうですけど……。最初に言いましたよね。少しのあいだだけって」
「そうだっけか? つまんねーなぁ」
「……それで、何の話だったんですか?」
やっぱり席を替えてくれるのかもしれないと、ほんの少し期待する。
「ん? あぁ。お前のこと、最後までちゃんと面倒見てあげろよってさ。ちゃんと面倒見てるよなぁ? 昼飯は必ず誘ってるし」
サクは一瞬石のように身を固めたあと、小さなため息をついて尋ねた。
「それだけですか?」
「いいや。もう一つ、重要な任務を引き受けた」
「重要な任務?」
「社長の実家で造ってるサイダーを、うちに置いてくれないかって話だ。さっきちょっともらったんだけどよ、これがめちゃくちゃ美味いのなんの。……あ、オレの実家、老舗の酒屋なのよ。って、前に話したっけか?」
「はぁ」
サクは曖昧に返事をした。はっきりと「はい」か「いいえ」で答えたところで、どうせ男はいつものように一方的に自分の話をするだけだ。案の定、
「オレさ、昔から物づくりに憧れててさ、だから家業とは全く別の道に進んだわけよ。まぁ、家業の方は兄貴が継ぐってことで、オレは元々自由に仕事を選べたんだけどさ。
で、この工場に入って、毎日真面目に働いてたらよ。後輩の指導係に任命されて、さらに社長から直々に頼み事をされたわけよ。オレ、超頼りにされてんじゃん?」
男はそう言って鼻を鳴らした。
「そうですね。じゃ、失礼します」
サクはさっさと来た道を戻ろうとした。
「待てって」
男がサクの肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「で、なんでお前はここにいたんだ? まさか、休みなのに間違えて出勤してきたんじゃないだろうな?」
「違います。散歩していて、たまたま通りかかっただけです」
「散歩? 暇なのか?」
「暇じゃないです」
「じゃ、もう帰るのか?」
「かえ……」
サクは言葉を飲み込んだ。
男がニタッと笑いながら、サクの顔を覗き見る。
「訳アリみてぇだな。悩み事があんなら、先輩が相談にのってやるぞ」
「結構です」
「遠慮すんなって。……よし、オレんちに行こうぜ」
「は?」
「行くとこねぇんだろ?」
確かに、他に行くあてはなかった。仕事と嘘をついて出てきた以上、すぐに帰るわけにもいかない。どこかで時間を潰す必要があった。
陽気に歩き出した男のあとを、サクは渋々ついて行った。
男の住んでいるアパートは古かったが、部屋の掃除は行き届いていて、塵一つなかった。
その塵一つない床の上で、サクはあぐらをかきながら「はぁ」とため息に似た相槌を打った。
男は相談にのると言っておきながら、いつものように自分の話を延々とした。
正午を少し過ぎた頃、男はきっちり分量を量ってパスタを茹で、サクに差し出した。
具材はなし。味付けは塩コショウのみ。とても料理とは呼べない代物だった。
男は自分の分を、相変わらずクチャクチャと音を立てて食べた。
昼食を終えたあとも、男は酒を飲みながらひたすら自分の話をした。
このまま日が暮れそうだな……と思って窓の外を見ると、空がどんよりしていた。
朝よりも暗く、分厚い雲の幕が張っている。
サクは片膝を立てて立ち上がった。
「雨が降りそうなので、そろそろ」
「ん? もうこんな時間か」
男もふらつきながら立ち上がる。よろけてサクの肩に手をつく。
その拍子に、思い出したように呟いた。
「何か忘れているような……。そうだ。相談にのってやるって言ったんだっけか。悪ぃ悪ぃ」
――今頃思い出すなよ。
サクは体の向きを変え、肩にのった男の手を振り解いた。
「もういいです。帰ります」
「待てって。今から聞いてやるからよ」
「別に、相談するようなことなんてないんで」
「そうか? いかにも悩んでますって顔してっけどなぁ」
サクは左側にある洗面台の鏡を見た。そこに映る自分の顔を、冷静に、客観的に、観察する。
まずい。こんな顔をしていては、アサヒに勘づかれる。
サクは固く閉じた口をゆっくりと開けると、ひと呼吸置いて、男に昨夜の出来事を話した。
「……ふっ。ふははは。何だそれ!」
男は笑いながらよろけると、ドスンと床に尻もちをついた。
「お前、おもしれぇなぁ。そんなことで悩んでたのかよ」
「そんなことって!」
「そんなことだろ? お前はその子を抱きしめたかったんだろ? だから抱きしめちゃったんだろ? で、拒絶されたわけでも嫌われたわけでもない。それで何をウジウジ悩むことがあるんだよ」
「それは……」
言われてみればそうだ。
アサヒが昨日のことを何とも思っていないのなら、それの何が問題なのか。
いろんな感情が混ざって、自分でもよく分からない気持ちになっていただけなのではないか。
心の中の靄が少しずつ消えていく感覚がした。
晴れ渡った心とは反対に、空は重苦しい空気を呈している。
男の家を出て数分後。ポツンと、手の甲に冷たい水滴が当たった。雨が降り始めた。小雨でもなく、土砂降りでもない、その中間の雨が降る。
サクはバッグを頭上に掲げながら、駆け足で数十メートル先にある工場に向かった。
扉の前に立ち、狭い軒下で雨宿りをする。このまま十分経っても止む気配がなかったら、濡れて帰ろう。と決めた。
しかし――この頃、かなり寒くなってきた。滞在しているビルまではここから歩いてニ十分近くかかる。濡れて帰るのは、
「まずい……」
もしも風邪を引いてしまったら……そう思うと、非常にまずい。
雨が止みますように。祈るように空を見上げる。と、その時。
「サク!」
声がして、サクは驚き左を向いた。焼きつくような茜色の傘を差した、アサヒが立っていた。
アサヒは近づいてくると、手に持った傘をくるっと一回転させて言った。
「迎えに来たよ!」
戸惑うサクをよそに、アサヒはキョロキョロとあたりを見回した。
「他の人は? みんな帰っちゃったの?」
「えっ? あぁ、うん」
そういえば、仕事と嘘をついていたんだった。サクは話題を変えようと、アサヒの持つ傘に視線を向けて言った。
「そんな傘、部屋にあったっけ?」
「ううん。これは拾ったの」
「どこで?」
「わたしたちが滞在しているビルの、隣の隣のそのまた隣の建物のゴミ置き場!」
「ゴミ置き場って……。誰にも見られてないだろうな?」
「大丈夫だよ! ちゃんと人のいないところに移動して直したから」
アサヒは顎をくいっと上げた。
サクは呆れた目を向けながら、アサヒから傘を取った。それをきょとんとした顔の上に差しかける。
アサヒはサクを見上げて、パチパチとまばたきした。
「帰ろう」
「うん」
サクは傘を持つ右手をアサヒに寄せた。左肩に当たった雨粒がコートに染み込んでいく。
これくらい濡れても構わない。どうせ元々濡れて帰るつもりだったのだから。
……しかし、手はすぐにサクの方へと押し戻された。柔らかいバネのように戻ってきた。アサヒの体とともに。
体の端と端がぴったりとくっついている。
ふいに、昨夜のことを思い出した。あの時の感触が、体の右側から熱を持って甦る。
サクはアサヒの顔を見ることなく、ゆっくりとした速度で歩いた。
濡れた赤い落ち葉の上を、滑らないように慎重に。歩調を合わせて。
「……こけるなよ」
「サクこそ」
どうか、帰るまでこの雨が止みませんように。
サクはスローモーションのように流れる景色と、今この瞬間の幸福を胸に焼きつけながら、願った。




