7話
サクがトイレを済ませて居間へ入ると、テーブルの上にドドンッと大きな鍋が載っていた。
その鍋を、ミヨさんがお玉でゆっくりとかき回しながら言った。
「カメラを直してくれてありがとう。ちょっと季節外れかもしれないけど、いっぱい食べてちょうだいね」
「……はい。ありがとうございます」
サクはミヨさんのすぐ後ろにある、小さな台に目を向けた。そこに、先ほど修理したカメラとフィルムが載っていた。
「ミヨさん。わたし、ご飯よそいますね」
アサヒはそう言いながら、茶碗としゃもじを手に持った。
「ありがとう」
ミヨさんはにこりとアサヒに微笑んだ。
いつの間にそんなに親しくなったのだろう。二人を見て、サクは不思議に思った。
鍋から立ち込める湯気にのって、ほのかに塩気を感じる味噌の匂いが漂ってくる。
サクはその匂いに吸い寄せられるように、テーブルに向かった。
最初にこの部屋に入った時と同じ椅子に座ると、アサヒがこんもりと白米ののった茶碗を差し出しながら、嬉しそうに言った。
「今夜、ここに泊まらせてくれるって」
「えっ」
サクは慌ててミヨさんに頭を下げた。
「すみません。長居してしまったうえに、泊めてもらうなんて。あの、修理代はいらないので……」
「いいのよ。もうバスの時間は過ぎてしまったし、なりゆきでこの町に来たのなら、他に行く当てなんてないでしょう? それにここ、元は宿だったのよ」
ミヨさんはニコニコしながら、熱々の器をサクに渡した。
そういえば、宿場町だったと言っていたな……。サクは礼を言いながら、ここへ来る時にした会話を思い出した。
三人とも席につくと、ミヨさんが両手を合わせて言った。
「さぁ、どうぞ召し上がって」
その言葉はまるで、ダム放流のサイレンだった。
「いただきます」
サクは勢いよくご飯を口に放り込むと、鍋の汁と一緒に胃に流し込んだ。
朝にキャベツを一玉食べたきり、何も食べていない。修理に集中していた時には空腹など感じなかったのに、今は一刻も早く何かを食べないと、倒れてしまいそうだった。
数分経つと、ふらつくような感覚は無くなった。その代わりに、体の内側から燃えるような熱を感じた。
胃袋に投入された燃料が、火柱を立てて頭のてっぺんを突き抜ける。
薄い長袖Tシャツ一枚でちょうどよい時季に食べるには、この鍋はやはりちょっと、季節外れだと思った。
サクはほてった胃と頭を休ませようと、食べるスピードを落とした。時折水を飲みながら、味わうようにゆっくりと具材を噛み砕く。
「う~ん」
突然、アサヒが唸るような声を出した。
「ミヨさん、食べてもわからないです。何のお肉なんですか?」
サクは肉を噛みながら、きょとんとした目でアサヒを見た。何のことだかわからないサクに、説明するようにミヨさんが言った。
「アサヒちゃんにお鍋の準備を手伝ってもらっている時にね、『これは何のお肉ですか?』って聞かれたから、『食べて当ててちょうだい』って言ったのよ。サク君はわかる?」
ふいに名前を呼ばれて、サクはドキッとした。と同時に、口の中に残っていた、まだ噛めば味が染み出てくる塊をごくりと飲み込んだ。
何の肉かって……。
なぜか、幼い頃に聞いた人を喰らう老女の話が頭をよぎった。
サクはミヨさんの顔をおそるおそる見た。心なしか、微笑みが不気味に思える。
「なんでしょうか……?」
口元をひきつらせながら問うと、ミヨさんは笑みを崩さず言った。
「鹿よ。ここらじゃ普通だけど、珍しいかしら?」
――鹿。
サクは目線を棚の上段に移した。異様な光景。いくつもの鹿の置物がこちらに尻を向けている。
「その置物はね、夫の趣味なの」
ミヨさんはサクの視線を追うように棚の方を向いて言った。
「あの人、鹿が大好きだったのよ。……特にお尻が」
「おしり?」
アサヒが不思議そうに訊いた。
「鹿のお尻って白いでしょ。なんでかわからないけど、あの白いお尻に執着していたのよ、うちの人。鹿ってね、警戒するとお尻の毛をぶわぶわっと逆立てるの。知ってる?」
サクとアサヒは揃って首を横に振った。
「夢中になると周りが見えなくなっちゃう人でねぇ。危険だとわかってたはずなのに……」
ミヨさんは大仰に、はぁと息を吐いた。
「近づきすぎたのよ。後ろ足で蹴とばされて、あっさりあの世へ行ってしまったわ」
サクは思わず箸を置いた。
ミヨさんは立ち上がると、小さな台へ歩み寄った。修理したばかりのカメラをそっと持ち上げ、傷を指でさすりながら笑った。
「まったく、とんだ笑い種よ。現像しても、どうせ鹿のお尻しか写ってないわ。夫が最後に撮った写真なんて、これっぽっちも興味はないの。町のみんなが、写真に未練たらたらでまだこの家にいるんじゃないかって言うんだけど、わたしは幽霊なんて信じてないのよね。
現像してくれるところなんてこの町にはもうないし、アルバムで棚はパンパンだし。いっそこのままでもいいかしら」
そう言ってから、突然ハッとした顔になる。
「あらやだ。せっかく修理してもらったのに、こんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。ほほほほほ」
ミヨさんは気まずそうにカメラを置き、席に戻った。
サクは思った。やっぱり遊ばれていただけじゃないかと。
「へぇ〜。旦那さんとサクって……なんか似てますね」
アサヒが呟くように言った。サクはすぐさま反論した。
「は? 俺、そんな変な趣味ないけど?」
「そこじゃなくて、夢中になると周りが見えなくなっちゃうとこ」
うっ。何も言い返せなかった。サクは氷のように冷たい視線から目を逸らした。
「あらぁ」
ミヨさんがニコニコして言った。
「集中力が高くて、手先が器用で、立派な修理屋さんだわ。町のみんなに紹介したら、きっとあれもこれも直してって殺到するわねぇ。
ねぇ、あなたたち。しばらくここで修理屋さんやらない? 私としては、何日でも泊まってくれていいのよ」
「すみません……。俺たち、行かなきゃいけないところがあるんです」
ミヨさんはきょとんとした顔をした。
「行かなきゃいけないところって?」
アサヒが窓の外を指差す。
「たしか、あっち……だったっけ?」
「あっちって、ブロッコ山脈の方? あなたたち、山を越えるつもりなの?」
その山脈の名を聞いて、サクはようやく自分がどのあたりにいるのか見当がついた。
「その、行き先は決めてないんですけど、行きたい方角は決まっていて。どうしても、山脈の方へ行きたいんです」
サクの言葉を聞いたミヨさんは、渋い顔をした。
「それは、難しいわねぇ」
「難しい……?」
「山を越える道路は去年落石があって、まだ復旧していないのよ。工事にあと三か月はかかるらしくて……。そもそも向こう側へ行きたいなら、引き返して、カント行きのバスに乗った方がいいわ」
「どこまで引き返せば?」
「たしか、アルマ……だったかしら?」
アルマ。ロクからバスでおよそ五時間の距離にある、大陸北東部の最大都市。そこから大陸南東部の中都市・カント行きのバスが出ていることはサクも知っていた。
そこまで引き返さなければ、駄目なのか?
サクは心の中でう~んと唸った。
カント行きのバスが通るルートは、海に近い幹線道路だ。あの山脈からは大きく外れる。時計の針が何を示しているのか分からない以上、山の中という可能性も捨てきれない。もしも山の中だったなら、引き返して南を目指したところで意味がない。
それに――最大の問題は、バスで戻って乗り継いで。果たしてこの所持金で足りるかということだ。
サクが答えを出せずにいると、突然、ミヨさんがパンッと手を叩いた。
「そうそう、飛行船という手もあるわ」
「飛行船?」
サクとアサヒは声を揃えて訊いた。
「試験飛行という名目で、飛行船が飛んでいるのよ。二年くらい前から月に一度、山脈の向こうのセッカという町とここを往復していてね」
ミヨさんはそう言いながら席を立つと、棚から地図を取り出した。空になった鍋をどかし、テーブルの上に広げる。
「最近、一般の人も乗ることができるようになったのよ。けっこう手頃な運賃で。……まぁ、乗る人なんてほとんどいなくて、席はいつでもスッカスカなんですけどね。ちなみに私は一回だけ乗ったわ。中を見て、飛ぶ前に降りたけど」
――それは乗ったと言えるのか?
心の中で呟きながら、サクはテーブル上の地図を見た。「セッカ」という町は、ここから山脈を隔ててやや南東にあるようだ。
それにしても、この町に飛行船が着陸するようなスペースがあるのだろうか。ふと疑問に思い、口にした。
「この町のどこに着陸するんですか?」
「あなたたちがバスを降りたところに、広い空き地があったでしょう? そこを使っているの。雑草が伸び放題の荒地になっていた場所を、わざわざ整備したのよ」
「あぁ」
なるほど。あの空き地は飛行船の離着陸用だったのか。
山脈の向こうの町。そこへ向かう飛行船――。
サクは頭に、連なる緑の山々の上空を飛ぶ、飛行船のイメージを浮かべた。とはいえ、実際に飛行船を見たことはなく、大きな風船のような物体が文字通り、ぷかぷかと浮かんでいるだけだったが。
たとえ時計の針が示す場所が山の中だったとしても、これなら目的地のあたりをつけることくらいはできるかもしれない。
「それで、その飛行船はいつ来るんですか?」
サクが尋ねると、ミヨさんは「あっ」という顔をした。
「前に来たのが一昨日だったから、だいたい一か月後、かしらね……」
沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、アサヒだった。
「それまでここに置いてくれませんか? わたしたち、この町で修理屋やります! お手伝いできることがあれば、なんでもやります!」
そう言って、懇願するような眼差しをミヨさんに向けた。
サクはいくらなんでも図々しいと思い、口を出そうとした。ところが。
「ぜひ、そうしてちょうだい!」
ミヨさんが熱を帯びた声で言った。ガタッと椅子が鳴り、半分立ち上がった姿勢で前のめりになっている。
「ありがとうございます!」
アサヒが椅子を鳴らして、勢いよく立ち上がった。二人は握手を交わした。
サクは、自分だけ取り残されたような気がした。
「あら、ぴったり」
風呂から出てきたアサヒを見て、ミヨさんが両手を合わせて頷いた。
アサヒは水色の寝間着を着て、長い髪を片側で三つ編みにしていた。毛先を青い花の髪飾りで留めている。
元々宿だったからなのか、謎の収集癖なのか、ミヨさんはサイズも色もバラバラの寝間着をいくつも持っているらしかった。
風呂に入る前、ミヨさんに何色がいいか問われたアサヒは、瞬時に「水色」と答えていた。着ているワンピースと同じ色。髪飾りの青色を少し薄くした色。
――よっぽど水色が好きなんだな。
その様子をサクは不思議な気持ちで見ていた。自分には好きな色なんてない。考えたこともない。
同じ質問をされて、サクは「何色でもいいです」と答えた。
その結果、水色の寝間着を渡された。
不本意なペアルックから目を反らし、サクは大きくあくびをした。
「そうよね。あれだけ長い時間集中して作業をしていたから、疲れたわよね。すぐにお部屋に案内するわね」
ミヨさんが椅子から立ち上がる。サクも重いまぶたに力を入れて、立ち上がった。
「二人一緒のお部屋でいいかしら?」
「はい」と、平然とした口調でアサヒが答える。
サクも「はい」と答えかけて、慌てて首を振った。眠気が瞬時に後退する。
「別々でお願いしていいですか。二つも部屋を用意してもらうなんて図々しいとは思いますが、できれば、いえぜひ別々でお願いします」
アサヒは小首を傾げた。ミヨさんはほほほと笑った。
「ちゃんと二人分用意してあるから、安心してちょうだい」
また遊ばれたのかと、サクはミヨさんの背中を睨み、その隣にいる少女の背中をいっそう強く睨みつけた。