77話 コネクションⅢ(3/3)
明くる日の朝。荷造りを終え、借りた部屋も綺麗に整えてひと息ついた、ちょうどその頃。ドアをノックしながら「ユカリちゃん、いる?」と呼ぶ声がした。
「どうぞ」
そっとドアが開く。顔を覗かせたリサが、
「……もう帰っちゃうの?」
と、名残惜しそうに言った。
「うん。仕事があるから」
「そっか。それなら仕方ないね。そういえば、昨日のお土産ありがとう。久しぶりに食べたよ。ロク名物のオーロラ饅頭!」
ユカリは苦笑した。
「本当は美味しいマドレーヌを買ってくる予定だったんだけど、運悪くお店がお休みで。代わりに急遽買ったものだったから、渡すかどうか悩んだんだけど、喜んでくれたならよかった」
「まぁ、確かにちょっと見た目が奇抜だもんね。珍しいもの好きのミヨさんは、目を輝かせてたけど」
リサは笑いながらそう言うと、ベッドに腰掛けた。
「……あのね、ユカリちゃん。言おうかどうか迷ったんだけど」
そう言って、片手でそっとお腹を撫でる。
「今、あたしのお腹の中に赤ちゃんがいるの」
ユカリは驚き、一瞬硬直した。だがすぐに、祝福の言葉をと思い至って、口を開きかけた。
「赤ちゃんの父親、あの人じゃないんだ」
ユカリは口を開けたまま、目をぱちくりさせた。
「あぁ、ごめんごめん!」
リサが慌てたように言った。
「違うの! あの人は知っててあたしを追いかけてきてくれて、この子の父親にもなってくれるって言ってくれたの。だから、だましてるとか、そういうことじゃないから!」
「……なんだ……びっくりした」
ユカリは止めていた息をふぅーっと吐き出した。
「驚かせてごめん。……それでね、最初はあたし、カドの言葉を信じきれなくって、嬉しいけど、どうしたらいいかわからなかったんだ。だって、本当の父親じゃないんだよ? 血のつながった子どもじゃないんだよ?
けど、カドはなぜか自信満々で。“アイツ”にできて、俺にできないわけがないって。”アイツ”って、サクちゃんのお父さんのことだよね? 対抗心なんか燃やしちゃってさ。
でも、キレイごとよりも何百倍も信じられた。だから……サクちゃんのお父さんに『ありがとう』って言いたかったな」
「うん。今度お墓参りに行った時に、伝えておくね」
「ありがとう。――ユカリちゃんも、ありがとう」
「何のこと?」
ユカリはまたも目をぱちくりさせた。リサは唇を震わせて言った。
「ずっとあたしの憧れの優しいお姉さんでいてくれて、ありがとう。ユカリちゃんという存在があったから、あたしはあたしのままでいられた。……だから、ありがとっ」
リサが目を潤ませながら微笑む。ユカリは思わず、その体を抱きしめた。
幼い頃、泣いていた彼女にそうしたように。
「これ、処分してもいいって言われたんだけど、持って帰ってくれるかしら?」
出発の直前、ミヨさんはそう言って、ユカリに“工具”の入った袋を手渡した。ずしっと確かな重さを感じる。
ユカリは袋を大切に抱えて頭を下げ、リサたち三人に別れを告げた。
帰りのバスに乗り込んだユカリは、席に着くなり手帳を開いた。昨日、ミヨさんたちから聞いた情報が黒のボールペンで書きこんである。
シュウが呟くように言う。
「トーハまでは分かったけど、それから二人はどこへ行ったんだろう? 駅で別れたということは、おそらく列車に乗って移動したんだと思うけど」
「うん……。この先の手がかりは何もないから、サク君たちがどこへ向かったのか、今どこにいるのかは全く分からない。
だけど、ここに来てよかった。ちゃんと目的があって、サク君はいなくなったんだって、分かったから」
「そうだね。僕も話を聞いて、少しだけ安心した。おまけにリサにも会えて……まさかこんな幸運があるとはね」
微笑むシュウに、ユカリも微笑を返した。シュウがユカリの手帳を覗き込む。
「アリエスに似た少女、か……。一体なんで、サクと一緒にいるんだろう?」
「うん……」
ユカリはアサヒの特徴を箇条書きにした横の、文字を見つめた。
さり気なく書いた、小さな文字。
『ダン君の好きな人』
ユカリはカドからその話を聞いた時、一瞬何のことだか分からなかった。
ダンはそのルックスと、知性とユーモアの合わさった独特の雰囲気から、幅広い年代の女性に人気があった。
しかし職場ではずっと既婚者と嘘をついていたようで、嘘だと見破られそうになると、ユカリに妻のふりをしてくれないかと頼んできたほどだった。
だから、ダンは女性に関して、まるで興味がないのだと勝手に思っていた。
しかし、そうではなかった。
ダンにはたった一人、本当に大切な人がいた。
ユカリは昨日、カドにダンとのことを尋ねた。
いつどこで出会ったのか。どんな会話をしたのか。
話の中で、カドはダンから好みの女性を聞き出したことを教えてくれた。酒に酔ったダンは、やけに具体的に女性の特徴を言ったそうだ。
それは好みというより、誰かを指した言葉だったと、カドは言っていた。
――ダン君の好きな人。大切な人。
それは、アリエスに似た人。
昔、祖母の家にアリエスを描いた絵はがきがあった。亡くなった祖父が誰かにもらったものらしく、作者は不明。描かれた場所も年代も不明だった。
ダンはなぜかそれをとても大切にしていた。小さな額縁に入れて机の上に飾り、時々手にとっては眺めていた。
十歳だったユカリはその様子が気になって、「その女の人は誰?」とダンに尋ねた。
するとダンは、北部に伝わるアリエスの話をしてくれた。
ユカリはそこから、アリエスに強い関心を持った。が、実際のところ気になっていたのは、アリエスではなく、はがきに描かれた彼女をじっと見つめるダンだった。
ダンの目には不安のようなものが映っていた。いつも余裕綽々といった態度で、時々冗談を言うダンがそんな目をしているのが珍しく、ユカリは不思議に思っていた。
ある日。ユカリが学校から帰ると、額縁から絵はがきが消えていた。
その代わりに『旅に出ます』と書かれたメモが入っていた。
ダンが赤ん坊を抱いて帰ってきたのは、それから半年後のことだった。
ユカリは手帳に書いた文字に、そっと触れた。
あの時の目は何だったのだろう。はがきを見つめながらダンは一体、何を思っていたのだろう。
誰かのことを想っていた? それは、アリエス本人?
そんなはずはない。
カドの話によれば、ダンはその女性のことを本気で好きだった。その人は、伝承上の人物や頭の中で描いた理想などではないはずだ。
その女性は一体誰なのか。サクの母親? いや、違う。金髪で、青い瞳。サクからはほど遠い……。
ガタンとバスが揺れる。
ユカリは行きのバスの中で思い出した光景を、再び頭に浮かべた。
ダンが呼んでいた名前。それは、ダンが大切に想っていた人の名前に違いない。
――あと少し。あと少しで思い出せそうなのに。
その時。
「――行ってもいいかな?」
という言葉の断片を耳が拾った。ユカリはハッとしてシュウの方を向いた。
「ごめんなさい。聞いてなかった。なんて言ったの?」
「お墓参り、一緒に行ってもいいかな? って言ったんだよ。確か来週末だったよね? ユカリさんのおばあさんの命日。サクのお父さんとおばあさんに、僕からも一度報告したくって」
――命、日……。
ユカリは口を小さく開けたまま固まった。
「……思い出した」
「え? 何を?」
ユカリは構わず、ひとりごとを言うように呟いた。
「やっと思い出した。そうだ。あの時ダン君、確かに呼んでた。――『メイ』って」
自宅へ戻ったユカリは、棚の引き出しの奥から例の絵はがきを取り出した。
二本の折れ線が入った絵はがきは、全体的に色褪せて黄ばんでいた。元は濃紺だったであろう空も、その空とのコントラストで輝きを放っていたであろうオーロラ・ウォールも、経年劣化で退色している。
しかしその中でも、中心に描かれた可憐な少女は美しさを損なっていなかった。
むしろ時間が経ったことで、純真無垢な印象に年月の重みが加わって、ある種の畏怖の念を引き起こすような強い存在感を放っている。
ダンは亡くなる直前、見舞いに訪れたユカリにこの絵はがきを差し出した。
「これをユカリにあげよう。ユカリなら、大切に持っていてくれるだろう?」
ユカリは唇をぎゅっと結んで頷くと、ダンの大切な“お守り”を受け取った。
ダンは遠くを見るような目で、ユカリの手の中の絵はがきを見て言った。
「……昔、それに願いを込めたんだ」
「願い?」
「どうか、信じる気持ちが届きますように……と」
その言葉の意味を尋ねることは、できなかった。
ユカリはダンから受け取ったこの絵はがきを、ずっと引き出しの奥にしまっていた。
見れば、どうしたってダンの最期を思い出してしまう。だから目に入らない場所にしまって、存在を忘れたふりをしていた。
ユカリはそのことに罪悪感を抱きながら、はがきを裏返して表の何も書かれていない面を向けた。
そこに、祖母から譲り受けた万年筆で文字を書いた。
『サク君へ
今、どこにいますか? 元気でやっていますか?
元気でいてくれることだけを私は願っています。……というのは嘘で、本当はあなたに会いたいです。
もし私のわがままを聞いてくれるなら、帰ってきてください。
帰ってきて、私に「おかえり」って言わせてください。
私は、もう一度あなたに会えると信じています。
ユカリ』
ユカリは自分の書いた文章を、三回読み返した。
――重い……かな……。
本心をありのまま書いた結果、こうなってしまった。
だが問題はない。実際にサクが読むわけではないのだから。これはあくまで、“願いごと”なのだ。
けれど……。
「このままポストに入れて、届いたりしないかな……」
無意識のうちにそんなことを呟いていた。
宛先のないはがき。届くはずがない。
けれどなんとなく、サクの元へ届くのではないかという気がした。
カドから不思議な眼鏡の話を聞いた時、そんなことあるはずがないと思ったのと同時に、ダンなら可能かもしれないと思った。
博識で賢いが、手先がとんでもなく不器用で、冗談ばかり言う変わり者。ずっと以前から、ダンはどことなく“普通の人間”とは違う気がしていた。普通の人間にはできないことが、ダンにはできるような気がした。
だから、ダンが残したこのはがきなら、たとえ宛先が分からなくとも、サクの元へ届くのではないかと思った。
「……なんて、そんなわけないか」
現実に返ったユカリは、はがきを二つに折って、ハンガーにかかっている上着のポケットに入れた。
祖母の命日の朝。ユカリはベランダで育てている花を摘み取って、ジャムの空き瓶に入れた。
小さな花がポロポロとこぼれ落ちるため、切り花には向いておらず、鉢ごと持っていくわけにもいかず、結果こうすることにした。
――たくさん咲いてくれて、ありがとう。
オレンジ色の可憐な花たちの姿に自然と笑みがこぼれる。漂う甘い香りに、ユカリは優しく穏やかな気持ちになった。
と、その時。ピンポーンとチャイムが鳴った。
ユカリは急いで瓶の蓋を閉めると、上着を羽織って玄関に向かった。
「おはよう」
黒のスーツに黒のネクタイを締めたシュウは、一言あいさつすると、手に持った小さな白い花束をユカリに見せた。
「先に近所のスーパーで花を買ってきたんだけど、これしか売ってなくて……。花屋かどこかに寄って買い足そうか?」
「ううん、ありがとう。おばあちゃん、あまり派手なものは好きじゃなかったから、ちょうどいいと思う。それに、これも持っていくから」
ユカリはそう言って、バッグの中から瓶を取り出した。
「おばあちゃんが大切に育ててた花なの。クロセより開花が遅くてよかった」
「どうりで、さっきからいい匂いがすると思ったよ。……それじゃ、行こうか」
「うん」
ユカリとシュウは、車で町はずれにある墓地へ向かった。
駐車場には一台も車が停まっておらず、他に人の気配もなかった。
段々畑のような墓地を上っていく。祖母とダンの墓は、ちょうど中間のあたりにあった。
真っ白な墓石の前に、シュウが花束を供える。ユカリもバッグから花の入った瓶を出した。蓋を開けて、供えられた花束の手前に置く。
「今年もちゃんと咲いてくれたよ」
そう言って、両手を合わせ、目を閉じた。
――おばあちゃん、ダン君。サク君の足取り、少しだけ分かったよ。ミヨさんっていうおばあちゃんによく似た人と、リサちゃんが教えてくれたの。
そうだ、先に言っておかないと。リサちゃんがね、ダン君にありがとうって。カドさん、知ってるでしょ? リサちゃんと結婚したんだよ。リサちゃん、すごく幸せそうだった。ダン君がカドさんに対抗心を持たせたおかげだって。
……それで、サク君はアサヒちゃんって子と、どうやら旅をしているみたい。ダン君みたいに。
二人が今どこにいるのかは分からないけど、きっと帰ってくるよね? ダン君だって、ちゃんと帰ってきたもんね? だから――
「どうか、お願いします。サク君を……二人を守ってください」
「ユカリさんが元気で、笑顔でいられるように、どうか見守っていてください」
「え?」
ユカリは驚いて、隣を向いた。
シュウはゆっくりとまぶたを開けると、ユカリに向かって言った。
「二人とも、サクのことは当然大事に思ってただろうけど、ユカリさんのことだって大事に思ってたはずだよ。
サクの心配ばかりするユカリさんを、今頃心配してると思うから。だから、僕からお願いしておいた」
「……ありがとう」
ユカリは小さな声でそう言って、うつむいた。頬がじんわりと熱くなるのを感じた。
シュウはコホンと一つ咳払いした。
「そういえば、この上に風車があったよね? ちょっとだけ行ってみない? 気分転換ってことで」
ユカリとシュウは階段をさらに上って、古い風車の前に立った。
やや冷たい風が吹いている。しかしさほど強くはなく、風車の羽根は回転していなかった。
シュウが遠くに目を向けて言った。
「ここから、あの高台の公園が見えるね。ここと同じくらいの高さかな」
「うん。観測塔としては申し分ない場所だと思う」
「あぁ、そうか。あそこに移るんだったね。もう僕のような一般人は入れないのか」
「工事のあいだは入れないけど、工事が終わったら、移転するまでは一般に開放するみたい。あそこでオーロラ・ウォールを見るのを楽しみにしている人がたくさんいるから」
「……見れるかな。オーロラ・ウォール」
ユカリは何も答えないまま、シュウの顔を見た。
シュウは振り向いて、真っ直ぐな眼差しでユカリを見つめた。
「見に行こう、一緒に。オーロラ・ウォールに願えば、その願いは宙の果てに届いて叶うって、この町では昔からそう言われているから」
「うん」
ユカリは頷いた。ふと思い出して、上着のポケットから絵はがきを取り出す。
「それ、何?」
「ダン君がずっと大切にしていた、絵はがき。サク君にメッセージを書いたの。宛先が分からないから、届けることはできないけど……」
オーロラ・ウォールに願えば、届くだろうか。
ユカリは絵はがきに描かれたオーロラ・ウォールに向かって、心の中で唱えた。
――サク君に、このはがきが届きますように。
と、その時だった。突然ビューッと音を立てて、強く激しい風が吹きつけた。
ユカリは咄嗟にはがきをポケットにしまおうとした。しかしその瞬間、はがきはするりとユカリの手をすり抜け、吹き飛ばされてしまった。
「待って」
叫んだ声がかき消され、体が倒れそうになる。よろめいたユカリの肩をシュウが掴んで支えた。
数秒後、風はゆっくりと落ち着いて穏やかになった。
「ユカリさん、見て。風車が回ってる」
シュウの声に、ユカリは呆然と風車を見上げた。羽根がゆっくりと回り続けている。
シュウは真面目な口調で呟いた。
「もしかしたら、さっきの風は郵便屋かもしれないな」
「郵便屋?」
「うん。風がはがきを運んでいった。なんとなく、そんな気がするんだ」
ユカリはハッとして呟いた。
「ダン君」
バイクを走らせ、郵便配達をするダンの姿が頭に浮かんだ。
ユカリは回転する風車の羽根を見つめながら、祈るように心の中で言った。
――お願いします。どうかあのはがきを、サク君の元へ届けてください。




