表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法使ひは時計回りに旅をする  作者: 箱いりこ
第三章 西の大地が赤く色づく
75/104

74話

 背後から「ニャー」と声がした。

 その愛らしい声の主は、トコトコとカノンの元へ歩み寄ると、深緑色のスカートの下からすらりと伸びた脚に毛むくじゃらの体を擦りつけた。


「相変わらず甘えん坊さんね」


 カノンは膝を屈めて、愛おしそうに笑みをたたえながらフーガの顎を撫でた。

 フーガはぐるぐると喉を鳴らした。目を細め、今にも眠りに落ちそうな顔をしている。

 と、その目が一瞬でつぶらに戻った。立ち上がったカノンを、不思議そうに見上げる。


「……先生。ピアノを弾いてもいいですか? なんだか急に弾きたくなってしまって」


 支配人はこくりと頷いた。


「えぇ。ご自由に。なんたって今は“自由時間”ですから」


「はい」


 カノンは受付カウンターの上に置かれた時計に目を向けた。つられてサクも見る。

 時刻はもうすぐ五時になろうとしていた。



 中庭を囲む建物の窓に、夕陽が反射している。

 この時間がやってくるのをじっと待っていたかのように、ピアノは暖かな光をまとって佇んでいた。

 カノンはピアノの前に立つと、振り返って言った。


「迷える羊のロンド。一緒に弾きませんか?」


「えっ。いや、俺、本当に初心者なので……」


「大丈夫です。私も上手くないので」


 それがただの謙遜ではないことを、サクは知っていた。思うように手が動かず、夢を諦めてしまった過去。大切な友人を失った悲しみ。

 辛く、苦しい思いをしながら、生きて、彼女はここにいる。

 サクは「じゃあ」と遠慮がちに言いながら、ピアノの前に進み出た。カノンは微笑みながら頷いた。


「私が合わせるので、いつも通り弾いてください」


「……はい」


 全身の神経が、糸のようにピンと張り詰める。サクはおもむろに両手を鍵盤に添えた。ため息をつくように、「ふぅ」と一つ息を吐く。

 その様子を見てか、カノンが申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい。弾いてくださいなんて、堅苦しくて余計に緊張しちゃうよね。間違ってもいいから、いつも通りに弾いてみてくれる?」


 その言葉に、サクは覚悟を決めた。


「分かりました」


 大きく息を吸う。緊張が和らいだ直後、鍵盤の上にある自分の指に命じた。


 ――弾け。


 鍵盤が落ちる。熟した木の実が木から落ちるように、すとん、と。

 音はまっすぐ跳ね上がった。その音に引き上げられるようにして、次から次へとピアノから音が飛び出していく。

 そこへ、新たな音が加わった。ゆったりと毛布を広げるように、低音が伸びていく。

 不思議な安心感があった。絶対にミスをしてはならない。そう気負っていたのが嘘のように、サクは肩の力を抜いて演奏に集中した。


 ――楽しい。


 これほどピアノを弾くのが楽しいとは。

 跳べ。迷うな。心の中で唱えながら、鍵盤を叩く。一匹、二匹、羊が跳ぶ。


 パチパチと拍手が鳴り響いた。アサヒが「すごいすごい!」と興奮した声で言った。


「ありがとうございます」


 サクはそう言いながら、上気した顔をカノンに向けた。目の前に右手が差し出される。


「私の方こそありがとう。あなたのおかげで、勇気が出た」


 ――勇気……?


 怪訝に思いながら手を握り返した直後、薄暗い部屋の方から足音が聞こえた。

 もう来ることはないだろう。そう思っていた人物が、そこに立っていた。


「――カノン」


「よかった。きっと来てくれると思ってた」


 ナルは硬い面持ちのまま、ゆっくりとカノンの元へ歩んできた。きつく睨むような目をして言う。


「どの面さげて言ってんだよ。絶対また一緒に弾こうって約束して、そのまま黙っていなくなって、戻ってきたって聞いたのに一度も会えなくて。……カノンは僕に会う気なんてなかった。そうだろ」


「……うん。会う気――というより、会う勇気がなかった。だからここに戻ってきた時、ナルに見つからないように姿を隠した。ピアノを調律する日も、ナルのいない日曜日にしてもらった」


 カノンはそっと左手を胸の前にやった。薬指に輝く指輪に、右手で触れる。


「私はいつも、誰かや何かに導いてもらってきた。今日もそう。この指輪を落としていなかったら、きっとまだナルに会う勇気は持てなかった」


「その指輪、昨日見た。……結婚したの?」


「まだだけど、もうすぐね」


「そうなんだ。おめでとう。……僕さ」


 ナルは一旦口を閉じると、決心した様子で言った。


「僕、ずっとカノンのこと、好きだと思ってたんだ」


 ゴクン。サクの喉の奥を生温かい唾液が通り過ぎた。


「でも、そうじゃなかった。恋とか、そういう感情じゃない。ただあの頃みたいに、一緒にピアノを弾きたかった。それだけ。

 あんなに楽しかったことは他になかった。だから忘れられなくて、執着してただけなんだ。あの頃みたいに、曜日ごとに決まったテーマの曲を弾いたりして、ずっと過去に囚われたまんまで、でもカノンは一度も会いに来てくれなくて。……もう何がなんだか分からなくなってさ。自分のことも、分からなくなってた」


 ナルはひと呼吸置くと、またまくしたてるように言った。


「なんでピアノを弾いているのか。ピアノが好きなのか嫌いなのか。何もかも分からなくなって、このごちゃごちゃした気持ちはカノンのせいだって思って、恨んで、そうしたら、すごく会いたくなって。

 ……僕はカノンのことが好きなんだって思った。けど、カノンが結婚するって聞いても、別になんともなかった。だから、やっぱり違ったんだって」


「ナル……」


 カノンは呟いた直後、クスクスと笑い出した。


「よかった。全然変わってなくて」


「は?」


「本当、変わってない。体だけ大きくなったって感じ」


「……うるさい。カノンのバーカ!」


 サクは思わず「うわ」という顔をした。一瞬、ナルの鋭い視線がこちらを向く。だがすぐに戻って、


「ダ・カーポ」


 呟きながら、ナルはカノンの左手を見た。


「その指輪の内側に、『D.C.』って」


「あぁ、うん」


 カノンは少し照れたような表情をして、指輪を擦った。


「二人のイニシャルを並べたら、偶然そうなって……」


「初めに戻るって意味」


「うん」


「あの頃みたいに、またピアノ、一緒に弾きたい」


 カノンはエメラルドグリーンの瞳を潤ませて、柔らかな笑顔を見せた。


「うん。弾こっ。暗くならないうちに」


 二人が揃ってピアノの前に立つ。鍵盤が沈む。

 ポン、ポーン。タン、ターン。

 交互に、会話をするように、音が鳴る。


「この曲でいい?」「うん、いいよ」


 そう言っているかのように聞こえた。

 まるで追いかけっこをするように、音が走り出した。





「――サヒ」


 まぶたを開ける。濃いグレーの天井が目に入る。

 朝だ。寝ぼけた頭で、サクは今が朝の六時頃であると予想を立てた。


 梯子を降り、机の上のライトをつけて時計を見る。

 六時五分。予想は当たっていた。

 大きくあくびをする。涙で視界がぼやけた。強くまばたきしながら、アサヒはまだ寝ているんだろうなと思う。思いながら、


 ――そういえば、さっき……。


 アサヒの名前を呼んだ気がする。いや、確かに呼んだ。

 寝言で呟いて、そして目を覚ました。


「うっ」


 思わずうめく。

 その存在が、頭の中から溢れ出てしまいそうなほど大きくなっているのは分かっている。だからといって、何も寝言で名前を呼ばなくてもいいだろう。


 ――どんな夢見てたんだよ、俺。


 夢の内容は全く覚えていなかった。思い出そうとしても、何も思い出せない。

 しかし、“楽しい”夢だったということだけは覚えている。


 以前はよく”退屈な”夢を見た。退屈だったということだけは覚えているが、内容はやはり覚えていない。

 思い出そうとするといつも、鍵のかかったドアを無理矢理こじ開けようとするような感覚に襲われる。そして結局、開けられない。


 子どもの頃は、自分以外の人もみんなそうなのだと思っていた。しかし、祖母にこのことを話すと、驚いた顔をして「いい夢も悪い夢も、覚えていない方が幸せね」と言われた。

 父にも話した。するとなぜか神妙な顔をして、「そうか」と言った。頭をポンポン叩かれた。そのあとすぐに笑顔になって、「羨ましいな」と言っていた。

 別に羨むようなことじゃないだろう。当時はそう思っていたが、今はこの体質でよかったと思っている。

 仮に父や祖母のことを夢に見ても、起き抜けに喪失感に苛まれずに済むのだから。


 気持ちを切り替えて、服を着替える。今のうちに筋トレとジョギングをしよう。

 サクは腹筋を三十回数え終えると、そっと部屋を抜け出した。

 宿の敷地を出て、走り出す。

 あたりはまだ暗く、数メートル先の看板の文字さえ読めない。おかげで目標とする物も見つからない。ただひたすらに走り続ける。

 そろそろ折り返そうと思った時、「あ」と声がした。


 聞き覚えのある声に、サクは足を止めて振り返った。


「ジョギング?」


 涼しい顔でナルが言った。


「うん。ナルも?」


「そんなところ。いつもより早く目が覚めたから」


「俺も。いつもは筋トレだけだけど、気分転換しようと思って」


「筋トレ?」


 ナルは意外そうに目を見開くと、小馬鹿にしたような顔で「へぇ」と呟いた。


「なんだよ」


「別に」


 そう言って、ナルは近くの花壇の縁に腰を下ろした。ウィンドブレーカーのポケットに両手を入れ、ゆっくりと息を吐く。一拍置いたあと、サクを見上げて言った。


「昨日、『うわ。コイツってこんな奴だったのか』って顔しただろ」


「した」


「即答かよ。ま、別にいいけどね。あれが本当の僕。今までのは全部作ったキャラ」


「ふぅん。いつも別人みたいだったのはそういう訳か」


 サクはそう言って、ナルの隣に浅く腰掛けた。


「曲と同じで、曜日ごとに変えてた。その日弾く曲に合わせて」


 ナルはそっと地面に視線を落とした。そのまま、ひとりごとを言うように呟く。


「逃げてただけだったんだよな。あーじゃない、こーじゃないって、言い訳ばっかりしてたら、いつの間にかこうなってた。自分のことが分からなくなって、しまいには自分が別の誰かに成り代わったような気がしてた」


 ――別の誰か。


 頭の中でその言葉を反芻した瞬間、サクは胸のあたりにキュッとつねられたような痛みを感じた。

 ふと、今朝見たはずの夢のことを思い出す。全く思い出せない夢。

 楽しかった。退屈だった。その感情は、どこか他人事のようだった。

 夢を見たという感覚が、まるで映画を見た時の感覚に似ていた。

 別の誰かの人生を追体験しているような感覚。そのことに今、気がついた。

 ナルが言葉を続ける。


「でもさ、そんなでも僕の本心は変わってなかったんだよ。自分では別の誰かに成り代わったつもりでも、根っこの部分というか芯の部分というか、そういう見えないけど一番大事な部分は変わってなかった。

 考えてみれば、来る日も来る日もピアノに向かってるのだって、変わらない気持ちがあるからこそだったんだよな。それを受け入れたら、案外あっさり迷路から抜け出せた。

 本心っていうのは、変えようとしても変えられない気持ちのことだろ。ある意味それは、僕の存在意義だって思った」


 ナルはサクに顔を向けた。


「言ってる意味、分かる?」


「分か……るような、分からないような」


「要するに、僕は自分の本心を受け入れてスッキリしたってこと。キミも悩んでることがあるなら、あのピアノに聞いてみなよ。……あのピアノ、時々しゃべるんだ」


 ナルはそう言うと、かすかに笑った。

 サクはどういう顔をすればよいか迷った。驚いた顔をするべきか、訝しむような顔をするべきか。

 迷っているうちにナルが立ち上がった。


「じゃ、そろそろ行くよ」


「うん」


 ナルは走り去っていった。



 少しして、サクも走って宿に戻った。

 完全に陽が昇り、すっかり明るくなっている。正面玄関の上の大きな時計を見上げると、針は七時二十分を指していた。

 ということは、今はもう七時半。アサヒはとっくに起きているだろう。

 アサヒは大体いつも、陽が昇るのと同時に目を覚ます。起きて、服を着替えて、おそらく朝食を調達しに売店へ行く。


 予想通り、サクは売店でパンを見つめているアサヒを見つけた。


「アサヒ」


 と、その背中に呼びかける。アサヒは振り向くなり、怒った顔をして言った。


「どこに行ってたの?」


「ちょっと外を走ってただけだよ。別に、怒るようなことじゃないだろ」


「怒ってなんかない」


 そう言って、ふいっと顔を背ける。

 その仕草と丸く膨らんだ頬に、まるで猫だなと思ったところへ、タイミングよく「ニャー」と鳴き声がした。

 フーガはサクの元へ寄ってくると、エメラルドグリーンの瞳を向けて、「ニャッ」と短く鳴いた。


「撫でてほしいって」


「はいはい」


 サクは膝を屈めて、その小さな頭を撫でた。


「懐いてくれたのはうれしいけど、俺たちもう行かなきゃいけないんだよ。じゃあな、フーガ」


「バイバイ。元気でね」


 そう言って、アサヒも屈んだ。サクが手を引っ込めると、交代でアサヒがフーガの頭を撫でた。

 しばらく経って、フーガは満足した様子でサクたちに背中を向けた。

 去っていくフーガを、サクは姿が見えなくなるまで見つめた。その姿にアオの姿が重なって、じんわりと胸が熱くなった。


「パン、どれにしようかな? サクはどれにする?」


 サクは呼びかけに応じて、後ろを振り返った。長机にずらりと並んだパンの前で、アサヒが真剣な顔をしていた。


「さっき支配人さんに会って、パンの引換券をもらったの。ほら、連続宿泊最長記録を更新したら、好きなパンを一つプレゼントしてくれるって言ってたでしょ? だから、今日は朝ごはんタダで食べられるよっ」


「昼の分もついでに買っておいた方がよくないか? 移動中に買えるかどうか分からないし」


「そっか。じゃあ、わたしはメロンパンと……クリームパン!」


「本当、甘い物好きだな。俺は……コロッケパンと焼きそばパンで」


「いつもと変わらないね」


「消去法でこれしか残らなかったんだから、しょうがないだろ」


「そうだね。サクなら、これかこれだよね」


 アサヒはパンを両手で抱えて、レジへ持っていった。


 変えようとしても、変えられない。心の奥底にある気持ち。

 そばにいるだけで、胸を締めつけられるような感覚になる。十分近くにいるのに、もっと近づきたいと思ってしまう。そうして一歩、距離を詰める。

 また別の欲が出てくる。振り向いてほしい。こちらを見てほしい。

 口が、勝手に動き出す。


「――サヒ」


 アサヒはまばたきしながら振り向いた。


「呼んだ?」


 サクは慌てて言った。


「あ、いや。財布、部屋に置いてきたから、あとで渡す」


「うんっ」


 再びアサヒの視線が離れる。サクは静かにため息をついた。




 荷造りを終えて、サクとアサヒは部屋をあとにした。支配人とカノンに別れの挨拶をし、玄関に向かう。

 途中、サクは立ち止まって窓を見た。中庭に、カバーを掛けられたピアノがひっそりと佇んでいる。


『お前は恐れている。いつやって来るか分からない別れを。だから「好き」という気持ちを受け入れられずにいる。

 大事なものを失いたくない。それならば、初めから大事なものなどなければいい』


 ――そうだ。


『別れは必ず訪れるということを、お前は身をもって知っている。それがどんなに辛く、悲しいことかも。胸が押しつぶされそうになりながら、息が止まりそうになりながら、それでも受け入れるしかないことも。特に父との別れはお前の心を深く傷つけ、未だに苦しめている。

 だから父と関わりを持つあの子を好きになることは、お前にとってこの上なく苦しいことなのだ』


 ――そうだ。


『だが、同時に喜びも感じている。一緒にいられることが、笑顔を見られることが嬉しい。できることなら、あんなことやこんなことをしたいと思っている』


 サクは一拍置いてから、心の中でピアノに答えた。


 ――そうだ。全部、俺の本心だ。


「サク? 何してるの? 早く行かないと列車が来ちゃうよ」


「今行く」


 サクはアサヒの隣に並んで歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ