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魔法使ひは時計回りに旅をする  作者: 箱いりこ
第三章 西の大地が赤く色づく
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73話

 予告通り、カノンは夕方、四時を半分過ぎた頃にやってきた。


「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」


 深々と頭を下げるカノンに、支配人は柔和な笑顔を見せた。


「とんでもない。おかえりなさい、カノンさん。――はい。お預かりしていた指輪です」


「ありがとうございます」


 カノンはほっとした様子で、コイントレーに載った指輪を左手の薬指にはめた。


「仕事のことで頭がいっぱいで。電話を頂くまで、失くしたことにも気づきませんでした。これからは気をつけます」


「少しお疲れなのでは? せっかくの機会ですから、今日はゆっくり休んでいってください」


「はい。そうさせて頂きます」


 カノンは遠慮がちな声で答えると、呟くように言った。


「……三年ぶり、ですね」


「えぇ。早いものです」


「あの時は、無理を言ってすみませんでした。部屋じゃなくて、談話室で寝させてほしいなんて図々しいことを」


「いいんですよ。ちゃんと温かい布団の中で寝てくださればどこだって。今日は一応部屋をとっていますけど、談話室がよければ、そこでもいいですよ」


「いいえ。今回はちゃんと部屋に泊まります。そのつもりで来ましたから」


「分かりました。では、部屋の鍵をお渡しして――と。お客さん」


 支配人に呼びかけられ、少し離れた場所に立っていたサクとアサヒは受付カウンターに近寄った。


「こちらのお二人が、指輪を見つけてくださったんですよ」


 カノンはサクたちの方を向くと、また深々と頭を下げた。


「大切な物を見つけてくださり、本当にありがとうございます」


 サクは恐縮しながら答えた。


「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」


「え?」


 カノンが驚いた顔を上げる。「その」と言いかけたサクの声を遮って、支配人が言った。


「あぁ。調律のことですね?」


「はい。練習した甲斐がありました」


 ピアノが調律されたおかげで、ようやく魔法が出現し、解くことができた。礼を言うべきなのはこちらの方だとサクは思っていた。

 支配人は笑みを浮かべながら頷いた。


「こちらのお客さん。これまで全くピアノを弾いたことがなかったそうですが、一生懸命練習されて。三日かかって、ついに一曲弾けるようになったんですよ」


「そうなんですか?」


「……はい」


 元ピアニスト志望の調律師を前にして、サクは引け目を感じながら返答した。


「何という曲を弾いたんですか?」


「迷える羊のロンド……です」


 瞬間、カノンはエメラルドグリーンの瞳をくるっと輝かせた。


「あの曲をたった三日で?」


「はい」


「すごい! あの曲、初心者向けの曲の中では難しい方なのに。全く弾いたことのない人なら一ヶ月かかってもおかしくないですよ! それを三日で弾いちゃうなんて」


 カノンは興奮した面持ちのまま、支配人の方を向いた。


「校長先生。三日かかって、ついに一曲って言いましたよね? 初心者なら、それくらいかかるのは当たり前です。むしろ早い方です!」


「そうでしたか。いやはや、失礼。つい生徒たちを基準にしてしまいました。よく考えてみれば、ここにいた生徒たちは皆、入学してきた時にはとっくに初心者の段階を過ぎていましたね。……それになにぶん、私は全く楽器を弾かないものですから」


「え?」


 サクは驚きの声を出した。支配人はきまり悪そうに苦笑いを浮かべた。


「私は元々、音楽のことはちんぷんかんぷんな、ただの社会科教師でして。専門的なことは皆、他の先生方にお願いしていたんですよ」


「そうだったんですか……」


 音楽学校の校長なのだから、当然、音楽の先生と思い込んでいた。

 社会科教師だったとは……。サクの頭に一瞬、担任教師の顔が浮かんだ。

 サクの通っていた学校では、原則として入学してから卒業までの三年間、クラスも担任教師も変わらない。だから本来であれば、最終学年の今年もサクの担任はいかめしい後ろ姿に反して甘いマスクで女子生徒に人気の、社会科教師のはずだった。


 今頃心配しているだろうか。それとも、とっくに死んだと思われているだろうか。

 ……いや、きっとまだ自分のことを思ってくれているだろう。

 授業外で話をするようなことはあまりなかったが、自分の担任は目の前の元教師と同じく、生徒をそっと見守る優しい目をしていた。

 サクは支配人に尋ねた。


「どうして、音楽学校の校長先生になったんですか?」


 加勢するようにカノンが言う。


「実は、私もずっと不思議に思っていました。『トリス音楽寄宿学校』は、先生が建てられたんですよね? どうして、音楽学校を始められたんですか?」


 すると支配人は、「少し長くなりますよ」と前置きしてから、優しい口調で語り始めた。


「もう数十年も前のことです。とある町で、私は教師をしていました。

 ある時学校で、たまたま生徒たちの話が耳に入りましてね。なんでも、誰も住んでいないはずの空き家から、ピアノの音がするらしい――と。

 最初にその話を聞いた時には、よくある怪談、事実としても、誰かのいたずらだろうと思っていました。

 その三日後くらいでしょうか。仕事終わりに同僚に誘われて、近くのレストランで夕食をとったあと、私はいつもとは違う道を通って帰宅しました。その通り道に、例の空き家があったのです」


 サクは生垣に囲まれた、二階建ての家を想像した。壁はひび割れていて、屋根はくすんだオレンジ色だった。


「時刻は十時を過ぎていました。ピアノの音に気づいて足を止め、見ると、二階の窓がぼんやりと薄く光っていました。

 なんとも不思議な感覚でした。あの弱々しい光は、ピアノの音そのものだという気がしたのです。ピアノから解き放たれた音が、消えるまでのほんの一瞬、光を放っているのだと。

 演奏は決して完璧なものではなく、つまずいたり、転んだりしていました。けれど、その度に起き上がって、また光を放っていました。

 ……気がつくと私は、『彼』の演奏にすっかり魅了されていました」


 “彼”と言った支配人の唇が、少しだけ震えたように見えた。


「彼は……まだ十歳に満たない少年でした。近くの養護施設で暮らしていて、消灯後にこっそりと抜け出しては、あの空き家に通っていたようです。

 私はそれから毎晩、彼の演奏を聞きに行きました。闇夜に姿を隠して、こっそりと。

 ところが、演奏を聞きに来ていたのは私だけではなかったのです。

 近所の方から通報を受けたらしき警察官と施設の方に、少年は連行されてしまいました」


 廊下がひっそりと静まり返っている。この時間、ここを通る客はほとんどいない。

 もしもここが学校のままだったなら、今は授業終わりで一番騒がしい時だっただろう。

 支配人は、なおも落ち着いた口調で話を続けた。


「私は教師という立場を利用して、施設を訪ね、彼に面会を申し入れました。彼は、あの日以来、厳しい監視の下に置かれ、学校へ通う以外には外へ出ることも許されていませんでした。

 ……私が訪ねた時、彼は部屋で一人机を叩いていました。すぐにピアノを弾いているのだと気づきました。

 私は、そんなにピアノが好きなのかい? と彼に尋ねました。少年は黙ったまま、答えませんでした。私は質問を変えました。――君はなぜ、ピアノを弾くんだい?

 するとただ一言だけ、――ピアニストになりたい。そう、返ってきました。

 彼は幼い頃から、熱心に母親からピアノを教わっていたそうです。その母親が突然の病気で亡くなり、同居していた祖母もあとを追うように亡くなって、施設で暮らすことになったそうでした」


 自分と似た境遇だと、サクは思った。


「私は彼にピアノを弾かせてあげたいと思いました。彼が通っていた基礎学校にピアノはありませんでしたが、私の勤めていた基幹学校には、一台のグランドピアノがありました。

 ですから、私は彼に言ったのです。基幹学校へ進学すれば、思う存分ピアノを弾くことができる。それまであと少しだから、辛抱しなさい、と。

 すると彼は、希望を取り戻したかのように瞳を輝かせました。その様子に私は安堵し、『また来年、学校で』と告げて、施設をあとにしました」


 支配人は口を閉じると、再び重そうに開いた。


「その数週間後のことでした。私の元に一本の電話がかかってきました。――少年が、施設からいなくなった、と。監視が解かれた直後の出来事でした。

 知らせを聞いた私は、急いで学校へ向かいました。あの空き家はもうなく、他に彼の行きそうな場所をあたったが、どこにもいない。心当たりはないかと問われて、私はすぐに学校だと思ったのです。

 ……ところが、着いてみると、どこにも少年の姿はありませんでした。門を越えて中へ入れたとしても、ピアノのある教室には鍵がかかっていましたから、ピアノを弾くことは叶わなかったはずです。廊下の隅かどこかで、気落ちした彼が背中を丸めていると思い、捜しましたが、結局見つかりませんでした。

 諦めて施設へ帰ったのだと結論付けた私は、その足で施設へ行きました。……しかし、彼は戻っていませんでした」


 支配人はどこか遠くを見るような目をした。その先にある場所を、サクは垣間見た気がした。

 風が流れ、草木が揺れる。鳥が羽ばたき、虫が鳴く。

 地続きにあるはずのその場所は、まるで写真よりもリアルな絵画――。


「……私のいた町は、“楽園”と呼ばれる場所のすぐそばに位置していました。周囲の人たちは口を揃えて言いました。現実世界では絶対に叶えられなかった夢を、彼はきっと“楽園”で叶えているだろう。

 その言葉に、私は打ちのめされたような思いがしました。

 彼はただピアノが弾きたいのではなかった。ピアニストという夢を叶えるために、一刻も早く練習がしたかった。ほとんど閉ざされたと言ってもいい道を、彼は自ら切り開こうとしていたのです。

 私はその真剣な思いに、気づいてあげることができませんでした」


 支配人は結んだ両手をぎゅっと強く握った。


「罪滅ぼし……だったのかもしれません。彼と同じように道を閉ざされ、夢を諦めかけている子どもたちをなんとかしてあげたい。そんな思いがずっと私の中にありました。

 ですから、宝くじに当たった時、これは神様から学校建設のために託された資金だと思ったのですよ」


「宝くじ」とアサヒが呟くのを、サクは聞いた。

 支配人は目を伏せた。


「それなのに、私は生徒たちから夢も希望も奪ってしまいました。もっと厳重に楽器を管理していれば、あんなことには……。何もかも私の責任です」


「校長先生……」


「あなたにも、余計な苦しみを背負わせてしまいましたね。けれど、あなたは自分の力で立ち上がり、進むべき道を見つけた。本当によかった。またしても、私は何もしてあげられませんでしたがね」


「いいえ。それは違います」


 カノンは真剣な眼差しで答えた。


「だって先生は、私やみんながいつでも戻ってこられるように、ここを宿として残してくださったんですよね?

 もしもここがなくなっていたら、きっと私は今も迷子のままだったと思います。だから、私は本当に、心から先生に感謝しているんです」


「カノンさん……」


「今、私がここにいられるのは先生のおかげです。あの時――迷子だった私がここへ戻ってきた時、ピアノが私に教えてくれたんです。私の、本当の気持ちを。ピアノが大好きだって気持ちを。

 先生がこの場所とピアノを残してくださったから、私は自分の道を見つけることができました。だから……ありがとうございます、先生」


 支配人はゆっくりと顔を綻ばせた。


「先生先生と呼ばれると、なんだか懐かしい気持ちになりますね」


「……すみません。支配人」


 カノンは気恥ずかしそうに頬を赤らめた。支配人は首を横に振った。


「いいですよ、先生で。今日だけは特別です」


「はい」


 サクはそっと笑みをこぼすカノンを見て、なぜか懐かしい気持ちになった。

 生真面目さを感じさせる口調。凛とした佇まい。はにかむような控えめな笑顔。

 誰かにすごく似ている気がする。一体、誰だろうか……。

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