72話
「……ク。サク」
小鳥のさえずりのような、鈴の音のような、心地のよい声がした。
サクはゆっくりと顔を上げた。一瞬朝かと思ったが、鼻から吸い込んだ空気の匂いで、夕方の終わり頃だと気がついた。
アサヒがほっとした表情で言う。
「おかえり。戻ってきたと思って声をかけたのに、全然反応がないから心配したんだよ?」
「ニャー」
「ニャー?」
サクは足元に目を向けた。
「フーガ」
呟くと、フーガはまた「ニャー」と鳴いてサクの足に擦り寄った。
アサヒは目をぱちくりさせた。
「この子、フーガっていうの?」
「そうらしい。この学校の生徒だった人……昨日の夕方、すれ違っただろ? 支配人のじいさんの横にいた、女の人」
「うん」
「あの人のルームメイトだった人が名付けたらしい。あの人の名前がカノンで、毛や瞳の色が似ているから、フーガって」
「カノン? 昨日見た映画の主人公と同じ名前だ!」
アサヒはそう言って、目をキラキラ輝かせた。
「……あっ。だから昨日おじいさんは、わたしが映画の話をした時、主人公の名前のことを言ってたんだね。あの女性と同じ名前だったから」
サクは幻影の中で見た女性と、昨日すれ違った女性を頭の中で比較した。あの時――三年前と比べて、女性は穏やかで曇りのない顔をしていた。
本心を見失い、彷徨い歩く、迷える羊の姿はどこにもなかった。
――あの時……あの人は自分の本当の気持ちを知って、進むべき道を見つけたのかもしれない。
父の魔法のおかげで。
サクは目の前のピアノに視線を戻した。
父はなぜこのピアノに魔法をかけたのだろうか。同情したからだろうか。
弾けもしないのに楽譜を読み込むほど音楽が好きだった父は、同じく音楽が好きで、ピアノが大好きで、それなのに背を向けて離れていこうとする彼女を引き留めたかったのだろうか……。
サクはゆっくりと椅子から立ち上がった。左手を鍵盤の上に置く。
「一応訊くけど、意思とか人格とか、そういうのってないよな?」
ピアノは返事をしなかった。サクは無言を肯定と受け取った。
ピアノが話した言葉は、本心以外の部分も含めて、「魔法」によって作られた幻だ。消し去ることに罪悪感を持つ必要はない。
すぅーっと息を吸う。夜の始まりの冷えた空気が喉の奥に染み込む。
小さく、声を発する。
「こんな魔法は……いらない」
瞬間、パリンッと何かが割れたような音がした。サクはほっとため息をついた。
「これでやっと次に進める」
「うん。無事に済んでよかった!」
アサヒが明るい声で言った。
その声とは反対に、サクは一瞬暗い気持ちになった。
父の失踪の理由を知るためここまで旅をしてきた。父の歩いた道を歩き、出会った人と会い、ここまでやってきた。いつも父の存在を近くに感じていた。
もう一度、会いたいと願っていた。たとえそれが、幻影であっても。
あと何度父に会えるだろうか。もしかすると、次で最後になるかもしれない。
二度と会えない父に、本当に二度と会えなくなる。
「ニャー」
励ますように、フーガが鳴いた。サクは思わず口元を緩めた。
「じゃあな、フーガ。元気でいろよ」
フーガの頭に手を伸ばす。だがフーガはサクの手を振り切るように体を右に向けた。
何かを見つけた様子で、前足を伸ばしてちょんちょんとつついている。
「ピアノの下に何かあるみたい」
アサヒがそう言ってしゃがみこんだ。
「これって……」
立ち上がったアサヒは、手のひらに銀色のリングを載せていた。
「指輪? 誰のだろう?」
「ちょっと貸して」
サクは右手の親指と人差し指で指輪をつまみ、内側を覗き込んだ。
「何か書いてある……けど、暗くてよく見えないな」
その時、背後から「お客さん」と声がした。
「申し訳ありませんが、六時になりましたので」
支配人はそう言って、手に持った丈夫そうな布を広げ始めた。
「すみません。手伝います」
サクは指輪をズボンのポケットに入れると、ピアノに布をかけるのを手伝った。
「いやはや、どうもありがとうございました。毎日のことですけど、なかなか大変でしてね」
支配人は右手で腰をさすりながら、にこやかに笑った。
部屋の中へ入り、重いガラスドアが閉まる。ガチャッと鍵がかけられた。
サクは真面目な顔で言った。
「いっそ、ピアノをこの部屋に移した方がいいのでは?」
「それはそうなのですが……。この場所に置いてしまうと、来てくれなくなってしまうような気がして」
「ナルのことですか?」
アサヒが間髪を入れずに尋ねた。
支配人は「ええ」と頷いた。廊下に出て、ゆっくりと歩き始める。
「彼は、自分がなぜピアノを弾くのか分からないと言っていました。ピアニストになりたいわけでもなく、楽しいわけでもなく、ただ弾きたいから弾いているわけでもないと。いつの間にか、迷子になってしまったんでしょう。
彼の中に最初にあったのは、好奇心。次にあったのは、ここの生徒だった少女と交流する楽しさ。それから競争心。
彼がみるみる上達していったのは、才能だけじゃなく、彼女とピアノを弾きたいという強い気持ちがあったからだと思うんです」
サクは遠慮がちに声を発した。
「あの、その生徒だった人って、もしかしてカノンさんじゃ」
「おや? お客さん、彼女をご存知で?」
「あ、いや、俺は面識ないんですけど、父が知り合いで……」
そう言った勢いで、尋ねる。
「カノンさんって今、何をされているんですか?」
「ピアノ調律師ですよ」
支配人の言葉に、サクは「やっぱり」と心の中で呟いた。
「彼女もまた、迷子になっていましたね。本当に長いこと迷子で……三年前、突然帰ってきたんです。
あの時は本当に驚きましたね。宝くじに当たったかのような衝撃でしたよ。本当に、本当に、奇跡が起きたと。実際、宝くじに当たった時よりも嬉しかったですね。ですが、彼女は帰ってきてもまだ、迷子のままだったんです。
彼女をどう導けばいいのか、私は頭を悩ませました。これでも一応教師でしたので、なんとかしなくてはと使命感に駆られましてね。……でも結局、私の手は必要ありませんでしたね」
玄関前を通る。暖かな光が、高い吹き抜けの天井からゆらゆらと降りている。
「彼女は突然私のところにやってきて言ったんです。本当にピアノが大好きで、その気持ちはどうしたって消せないのだと。
それは心の底から溢れ出た本心だと思いました。何がきっかけかは分かりませんが、固く閉ざしていた心の扉を開き、ようやく本当の気持ちを認めることができたのでしょう。
ちょうどそこへ、懇意にしているピアノ調律師の方がやってきましてね。彼が調律師にならないかと彼女を誘ったんです。その瞬間の彼女の顔は、今も忘れることができません」
支配人は嬉しそうな笑顔をサクたちに向けた。
「今年から、ここのピアノは彼女に調律してもらうことになったんですよ。彼女自身、すごく喜んでいました」
「きっとピアノも喜んでいると思います!」と、アサヒが言った。
「ええ」
支配人はさらに目を細めた。
「本当によかった。こうしてまた、彼女と話ができたことが、私にとっては何よりの喜びですよ。……おまけにこの度、結婚も決まったようで」
「結婚……」
サクはあっと思い、ポケットの中から指輪を取り出した。
「これ、もしかして……カノンさんの婚約指輪なんじゃ」
「婚約指輪ですと?」
支配人は驚いた声をあげて指輪を見ると、すぐに受付カウンターの内側に入った。
「とりあえず、ここへ」
サクは手に持った指輪を、差し出されたコイントレーに載せた。
支配人が眼鏡をかけ、指輪をつまみ上げる。
アサヒが言った。
「ピアノの下に落ちていたんです。一昨日は無かったと思います」
サクは深く頷いた。一昨日、ピアノの下を覗いた時には確かに無かった。
支配人も頷いた。
「おそらく彼女のものでしょう。昨日ここへ来た時、これと同じような指輪をはめていたのを見ましたから。……おや? 内側に何か文字のようなものが」
支配人は眼鏡のつるをつまみながら、目をじーっと細めた。
「……あの、よかったら読みましょうか」
サクが言うと、支配人は「すみませんね。老眼が酷くて」と苦笑いしながら指輪をトレーに戻した。
サクは再び指輪を手に取り、内側を覗いた。
「D.C. ――ダ・カーポ?」
「瞬時に演奏記号と捉えるとは、さすがですね。お客さん」
「つい頭の中で変換されてしまって」
「D.C. おそらく、ダイからカノンへという意味でしょう。ダイ君は彼女の夫になる人で、この学校の卒業生で、さらにプロのピアニストなんですよ。
二人とも音楽を勉強した身ですから、もしかするとダ・カーポとかけているのかもしれませんね」
サクは小さく呟くように言った。
「ダ・カーポ。……初めに戻る」
「とにかく、彼女に連絡しないと。ええと、工房の番号は……」
支配人はそう言って、ガチャッと受話器を取った。電話はすぐに繋がったようだった。
数分経って、支配人は笑みをたたえながら受話器を置いた。
「いやぁ、よかった。ちょうど明日は午後からお休みだそうで、夕方に来てくれるそうですよ。
おまけに今度こそ泊まっていってくれるそうで」
言いながら、支配人は「予約台帳」と表紙に書かれた帳簿を広げた。ボールペンを素早く動かし、明日の日付の欄に記入する。
「じゃあ、俺たちとは入れ替わりですね」
「なんですと?」
大きく目を見開いた支配人は、直後、元の柔和な表情に戻った。
「失礼しました。あと一日で記録更新と思っていたところだったので、つい」
「記録?」と、アサヒが首を傾げた。
「連続宿泊日数の記録ですよ。お客さんたち、あと一日で最長記録を更新できそうだったのに、惜しいですね」
アサヒが興味ありげな顔で尋ねる。
「記録を更新したら、何かいいことでもあるんですか?」
「ええ、ありますとも」
支配人はにこりと微笑んだ。
「どれでもお好きなパンを一つ、差し上げましょう」
「じゃあ、メロ」
アサヒは開いた口を閉じて、サクを見た。
「どうする?」
「今、メロンパンって言いかけただろ」
サクは小さくため息をついた。
目的を達したことで、ここにいる理由はなくなった。明日の朝に出発しようと思っていたが……まぁいいか。
まだ出発の準備も整っていないし、何よりここは宿代が安い。安いというより破格だ。だから一日延びたくらい、なんてことはない。
「じゃあ、あと一日だけ。明後日の朝にここを出ます」
「承知しました」
支配人は満面の笑みで、素早くボールペンを走らせた。
「ところで、お客さん。さっきから気になっていたんですが……首のところ、どうされたんです?」
「え?」
サクは反射的に左側の首を手で押さえた。ヒヤッとした。ここだけ不自然に体温が低い。
あざだ。直感的にそう思った。
父が魔法をかけた時にできたのと同じ場所に、あざが現れた。
「えっと、その。ちょっとぶつけてしまって」
「それはそれは。すぐに冷やさなくては。食堂から氷をもらってきましょう」
「いえ、大丈夫です。全く痛みはないので。気にしないでください。それじゃ、失礼します」
サクは早口でそう言うと、首の左側を手で覆ったまま歩き出した。
ドクドクと心臓が鳴る。
「――サク」
階段の手前、誰もいない静かな場所で立ち止まる。ゴクッと喉が鳴った。
「首、見せて」
サクは言われた通り、ゆっくりと左手を下ろした。首筋に鋭い視線が突き刺さる。
「ぶつけたなんて嘘。だって、魔法を解く前にはなかった。そのあざは何?」
「これは、その……」
サクは視線を泳がせながら、頭をぐるぐる回した。
アステールで見た幻影。あの場所にいた二人の魔法使いの体にも、あざがあった。
自分と父。二人の見知らぬ魔法使い。
共通するのは性別が男ということ。もしかすると、男の魔法使いにだけ「代償」が存在するのかもしれない。
「今まで言ってなかったけど、魔法を使ったり解いたりすると、俺の体のどこかにあざが現れる。腕とか背中とか。今まで魔法を使った数だけ、あざがある」
「そうなの?」
サクは袖をまくって、腕のあざをアサヒに見せた。
「これは単なるしるしだ」
「しるし?」
「魔法を使ったっていうしるし。……アサヒにはないんだよな?」
「うん」
「俺と父さん、それに前に幻影で見たラゴウって男と、その父親にもあざがあった。共通するのは性別が男だということ。つまりこのあざは、男の魔法使いにだけ現れるってことだ」
「どうして?」
「それは……魔法が使えるってことを誇示するためなんじゃないか?」
アサヒは訝しそうに眉をひそめた。
「男にしか分からない事情があるんだよ。とりあえず、痛くもかゆくもないし、心配いらないから」
「本当に?」
「本当に」
「そっか。よかった!」
アサヒはほっとしたような笑顔を見せた。
「いつも大げさなんだよ、アサヒは」
サクはそう言って、ぎこちなく笑った。胸がチクリと痛んだ。
父は病気で死んだ。その事実しかアサヒは知らない。父の最期の姿をアサヒは知らない。
父の全身を覆い尽くしていた赤紫色のあざ。あざは、単なるしるしではない。
魔法を使った代償として命を削られていく。あざは、残りの命を示す「警告」だ。
そのことを、アサヒは知らない。




