71話
再び中庭に赴いたサクは、ピアノの前に腰掛けた。じっと見つめた鍵盤に左手を伸ばす。
このピアノに魔法をかけたのは、父に違いない。なぜこんな魔法をかけたのか、突き止めてやる。
時計の針がくるくると回り出した。
――誰だ?
目の前に、黒いグランドピアノがあった。さっきまで座っていたはずのその椅子に、誰かが腰掛けている。
肩の高さに切り揃えられた、明るい茶色の髪。真っ白なブラウス。紺色のスカート。
顔の見える位置まで移動する。うつむき加減の顔から、透き通ったエメラルドグリーンの瞳が覗いた。
――この人……。
その顔には見覚えがあった。昨日、宿の支配人と並んで歩いていた人だ。
女性はゆっくりと両手を鍵盤に置いた。軽快なリズムで叩きだす。
その曲は、『ポップコーン・マシンガン』だった。
ポップコーンが弾け飛ぶように、ポンポンと短い音が鳴る。しかし……。
――何か、違う。
なんとなく、心地悪さを感じた。いまいち音がリズムに乗っていない。その音たちが作り出すメロディーは、どこか脆く不安定なように思えた。
少しして、ぴたりと音が止んだ。女性は浮かない顔をして、右手をゆっくりと握った。
「やっぱり、駄目か……」
女性がそう呟いた時、近づいてくる人影に気がついた。
「父さん」
思わず声に出す。懐かしい父の姿が目の前にあった。
父はピアノの横に立つと、女性に尋ねた。
「今の曲、『ポップコーン・マシンガン』ですよね?」
「……はい」
「どうして途中でやめてしまったのですか?」
女性は戸惑った表情を見せながらも、返答した。
「上手く弾けないからです。右手が、思うように動かないんです」
「……なるほど。僕と一緒ですね」
「あなたも?」
目を丸くした女性に、父は両手を見せて言った。
「あ、ピアノは弾けないですよ、元々。一緒というのは手のことです。僕も、思うように自分の手を動かすことができないんですよ。それも、両手ともね。
この前だって、水飲み場の蛇口を勢いよくひねってしまって全身びしょ濡れになりましたし、バスの運賃箱に誤って五百エルン入れてしまいましたし。たったの百エルンだったんですよ! 本来の運賃は。うっかり手を滑らせてしまったせいで……おつりは出ないし……あぁ。思い出すと気が滅入ります」
女性はクスッと笑った。
「そうですか。私は右手だけなので、あなたよりは軽症ですね」
「はい。きっと僕の不器用さには遠く及ばないでしょう」
そう言って、父は口の両端を上げた。
――なんで得意げなんだよ。
心の中で呟き、呆れた目を父に向ける。父は真面目な顔をして、女性に問いかけた。
「ところで、なぜさっきの曲を? 短い音が連続する箇所が多いですし、右手が上手く動かないのであれば、余計に難しい曲だと思いますが」
三拍ほど置いて、女性はおもむろに口を開いた。
「見たことありますか? 『ポップコーン・マシンガン』」
「はい。地元の映画館で、息子と一緒に」
「私の名前、あの映画の主人公と同じなんです」
「たしか……カノン、でしたよね」
女性はこくりと頷いた。
「自分と同じ名前なので親近感が湧いて……。それに、どんな困難にも屈せず、決して最後まで諦めない彼女を見て、励まされたような気がしたんです。私も彼女みたいになれるはずだって思ったんです。
だからコンクールの練習の合間に、よくこの曲を弾いていました。映画を思い出して、もっと頑張ろうって思えたから。でも……」
女性はうつむき、右手をゆっくりと開いた。父が言った。
「右手が思うように動かなくなってしまったんですね?」
「……はい。結局、コンクールには出られず、この曲も弾けなくなってしまいました。久しぶりにピアノに触れて、もしかしたら弾けるんじゃないかって、少しだけ思ったんです。それで、よく弾いていたこの曲を……」
「そうですか。右手が思うように動かなくなった原因は分かったんですか?」
「医者には練習のしすぎと言われました。ただ、心理的な要因もあるかもしれないと」
「……なるほど。心理的な要因ですか」
女性はハッとした顔をして、立ち上がった。
「すみません。初対面の方にこんな話をお聞かせしてしまって。私、もう行きますね」
その時、左側から「ニャー」と猫の鳴き声がした。
「フーガ」
猫は女性に駆け寄ると、体を擦りつけながらゴロゴロと喉を鳴らした。女性はしゃがみこんで、猫の頭を撫でた。
父が言った。
「その猫、フーガって名前なんですね」
「えっ。あ、はい」
「あなたが名付けたのですか?」
「いえ……。ルームメイトが、毛の色や瞳の色が私に似てるから、カノンに似たフーガって名前にしようと言ってつけたんです。
学校に迷い込んできたこの子に、最初は隠れて二人でご飯をあげていたんですけど、バレてしまって。でも、校長先生がみんなで世話をしましょうと言ってくださったんです」
「なるほど。やはりあなたは、ここが学校だった時の生徒なんですね」
「……はい」
「先ほどあなたが言った心理的な要因ですが、もしやこの学校で起きた事件と関係があるのではないですか?」
――事件……。
以前アサヒが言っていた。五年前、トリス音楽寄宿学校の生徒数名が「パイドパイパー」と名乗る人物に連れ去られ、失踪した。生徒達は突然何者かに楽器を盗まれたことで、コンクールに出られず、将来に失望し、“楽園”に向かった……。
女性は目を伏せながら、ゆっくりと言葉を発した。
「全校生徒たった三十名の小さな学校でした。みんな家が貧しかったり、兄弟が多かったり、親がいなかったり……。この学校でなければ、音楽を続けることすらできなかった。そんな子たちが集まって、毎日切磋琢磨していたんです。
楽器が盗まれた時、コンクールまでもうあまり日がなくて、でも、誰一人諦めてはいませんでした。……将来がかかっていたから」
女性は猫を撫でる手を止めた。
「私たちは先生方と一緒に、何とか楽器を調達できないかと奔走しました。結果、いくつかは調達することができたんですが、全てとはいかなくて……。
不公平ですよね。みんな一緒に頑張ってきたのに。ましてピアノ専攻だった私は、初めから何の影響もなかったんです。みんなと違って。
クラリネット専攻だったルームメイトは私に言ってくれました。私たちのことは気にしなくていい。応援してる。って。それなのに……」
声を詰まらせた女性は、猫の頭に載せた右手を見つめた。
「ルームメイトをがっかりさせたくなくて、気持ちに応えたくて、必死でした。でも、練習すればするほど、弾けなくなってしまって……。勇気を振り絞って、本当のことを告げた私に、彼女が言ったんです。一緒にに行こうって」
父は女性を見下ろしたまま、落ち着いた声で言った。
「それで、あなたは“楽園”へ向かったのですか?」
「……はい。でも、途中でみんなとはぐれてしまいました。たぶん、置いて行かれたんです。楽器を盗まれたわけでもない私がついてくることを、みんなよく思わなかったんだと思います」
「そうでしょうか」
「え?」
女性が顔を上げる。父は女性のエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐ見て言った。
「きっとみなさんは、あなたは来るべきではないと思ったんだと思いますよ。現に、行こうと思えば一人でも行けるのに、あなたはそうしなかった。みんなと一緒でなければ、“楽園”に行く意味も理由も無かったのでしょう」
女性は黙りこくった。父は四拍ほど置いて、言葉を続けた。
「あなたは、どうしてまたこの場所へやってきたのですか?」
「それは……分かりません。気がついたらこの街にいて、自然と足がここに向かっていました。
何をしていてもこの学校で過ごした日々のことを思い出してしまうんです。その度に悲しい気持ちになってしまって。悲しい思い出ばかりじゃないはずなのに……。だから、来てみようと思ったのかもしれません」
「そうですか。ここへ来て、何か変化はありましたか?」
猫が小さく「ニャー」と鳴いた。女性はわずかに微笑んだ。再び右手で猫の頭を撫でる。
「はい。この子と、あと、素晴らしい演奏のおかげで、少しだけあの頃の楽しかった気持ちを思い出せました」
「素晴らしい演奏? あぁ、昨日の少年ですね」
「はい。久しぶりにピアノを弾いてみようと思ったきっかけは、昨日の彼の演奏なんです」
「なるほど。昨日の少年の演奏は確かに素晴らしいものでした。三曲とも、悲しげな曲でしたね。なんとも哀感の漂う……。ですが、聴いていて嫌な気持ちにはなりませんでした。むしろ心地よささえ感じましたよ」
「本当に。押し込んでいた感情が自然と溢れ出てしまいました。でも、不思議と気持ちが軽くなったんです。それで、ピアノを弾いてみたくなってしまって」
女性は立ち上がると、ピアノに視線を向けた。
「やっぱり、弾けなかった。それが分かっただけでもよかったです。これでピアノとはきっぱり決別できます」
「本当にそれでいいんですか?」
「え?」
「あなたはピアノと決別したいと、本心から思っているのですか?」
父の言葉に、女性は困惑した表情を浮かべた。
「あなたはずっと迷子になっているような気がします。友人のことを想うあまり、自分の本当の気持ちを見失っている」
「本当の、気持ち……」
女性は口を閉ざしたままうつむいた。父はそっと左手をピアノに置いた。
「このピアノは今朝、調律されたばかりだそうですね。最初にあなたに弾いてもらえて、喜んでいることでしょう」
「そんなはずないです。途中で弾くのをやめてしまいましたし……」
「それなら、このピアノのためにも一曲、最後まで弾いてください。どんな曲でも構いません。たとえば、あなたが子どもの頃によく弾いていた曲とか」
「子どもの頃によく弾いていた曲……」
女性はそう呟くと、ピアノに歩み寄った。父はピアノに視線を移した。
『弾く者の本心を告げよ』
父の声が、頭の中でこだました。今この瞬間、ピアノに魔法がかかったのだと分かった。
瞬時に父に目を向ける。首筋に、さっきまではなかった赤紫色のあざが浮かんでいた。
女性が両手を鍵盤に置いた。ポンッと音が鳴る。その曲は、『迷える羊のロンド』だった。
うつむいた顔から、真剣な目が覗く。硬い表情がだんだん緩み、明るくなっていく。
特別な技巧のない、楽譜通りの演奏だった。時折リズムが崩れかかったが、指さばきには一瞬の迷いも感じられなかった。
父は女性に背を向けた。開かれた薄暗い部屋のドアに向かって、一直線に歩いていく。
「父さん!」
咄嗟に声を張り上げて呼んだ。すぐさま後を追う。
だが、父の背中はみるみる遠ざかっていった。




