70話
翌日の夕方、サクは部屋の窓から中庭を覗いた。
少ししてから、老人――もとい支配人がやって来て、ピアノにかけられたカバーを外した。
「行くか」
アサヒが「うん!」と明るく答えた。
部屋を出て一階へ降りると、昨日と同じように猫がニャーニャー鳴きながらすり寄ってきた。
アサヒが膝を屈め、小さな頭を撫でる。
「わたしたち、これから中庭に行くんだけど、あなたも来る?」
すると猫は「ニャー」と返事をした。
「言葉が通じた!」
「偶然だろ」
「……でも、本当についてくるよ?」
サクはアサヒと同じように軽く後ろを振り返った。猫は、ごく当たり前のようにスタスタと後ろを歩いている。
「ついてきたって、面白いことなんか何もないぞ」
猫は「ニャーニャー」と鳴いた。
「そんなことない。きっと何かあるはずだ。だって」
「テキトーなことを言うな」
「そういえば」
アサヒはふと気がついたような顔をして言った。
「この子、何て名前なんだろう?」
「さぁ? 目が緑色だからミドリとか?」
「ニャー」と、背後で猫が不満げに鳴いた。
「テキトーなことを言うな。だって」
「それ、俺がさっき言った言葉……」
「サクの飼ってた猫は、なんて名前だったの?」
「……アオ。目の色が青いから」
「わたしと一緒だ!」
「オスだけどな」
アオはある日、いつものように散歩へ出かけたきり、帰ってこなかった。
幼いサクは、父や祖母と一緒に懸命に名前を呼んで捜した。しかし、ひと月以上経っても見つからなかった。
いつかきっと帰ってくる。そう信じて待ち続けるサクに、父が言った。「いつまでも待つな。別れを受け入れろ」と。
その瞬間、みるみる涙が目に溜まり、溢れ出した。なだめるように祖母に抱きしめられて、なんとか泣きやんだが、父の言葉を思い出すとまた涙が出そうになった。
父はそれ以降、アオについて何も言わなかった。アオはとうとう帰ってこなかった。
サクはピアノの前に腰掛けた。そばでアサヒと猫が見守っている。
弾いてもどうせ何も起こらない。肩の力を抜いて、ポンッと鍵盤を叩いた。
ほんの少しだけ楽しい気持ちになった。だがその一方で、わずかに違和感を感じた。
一昨日とは何かが違う。何かとは何だ。……そうだ、音だ。
サクは自分の演奏に耳をすました。
弾け飛ぶように、流れるように、音が広がっていく。ガラス玉のような澄んだ美しい音が反響する。
――きっといい音が出ますよ。
支配人の言葉は確かだった。
最後まで弾き終えると、サクはゆっくり息を吐いた。少し冷たい空気を吸い込むと、爽やかな気分が胸を満たした。
一昨日と音が変わったのはなぜか。疑問と同時に、「調律」の二文字が頭に浮かんだ。
そうだ。そうに違いない。昨日、このピアノは調律されたのだ。
確信した瞬間、どこからか声がした。
『迷える羊よ、私の声が聞こえるか?』
サクは上体をひねって、あたりを見回した。
「どうしたの?」と、アサヒが尋ねる。
「何か、声が聞こえた気がして」
「声? 何も聞こえなかったけど……」
その時、また声がした。
『こちらを見よ』
サクは声のする方――黒いグランドピアノを見た。
「ピアノ……?」
『そうだ。私はピアノだ。そしてお前が今聞いている声は、お前の演奏そのものだ。お前が奏でた音たちが、声となってお前の元へ戻っているのだよ』
――魔法だ。
今になって、魔法が姿を現した。サクはそのわけを瞬時に理解した。
魔法の発現には、三つの条件を満たす必要があった。
ピアノが壊れていないこと。曲を弾くこと。そして、きちんと調律されていること――。
『私はお前の奏でた音の長さ分しか話すことができない。だから余計なおしゃべりはここまでだ。――今から、お前の本心を告げる』
「本心?」
『お前は恐れている。いつやって来るか分からない別れを。だから「好き」という気持ちを受け入れられずにいる。
大事なものを失いたくない。それならば、初めから大事なものなどなければいい』
サクは口を開けたまま絶句した。何も言い出すことができなかった。
『別れは必ず訪れるということを、お前は身をもって知っている。それがどんなに辛く、悲しいことかも。胸が押しつぶされそうになりながら、息が止まりそうになりながら、それでも受け入れるしかないことも。特に父との別れはお前の心を深く傷つけ、未だに苦しめている。
だから父と関わりを持つあの子を好きになることは、お前にとってこの上なく苦しいことなのだ』
ドクン。と心臓が強く振動した。サクは開いた口をぎゅっと結んだ。
『だが、同時に喜びも感じている。一緒にいられることが、笑顔を見られることが嬉しい。できることなら、あんなことやこんなことをしたいと思っている』
「思ってない!」
サクは片手でバンッとピアノを叩いた。
「サク?」
アサヒが首を傾げる。その隣で猫が「ニャー」と鳴いた。
「あ……」
途端に、サクは顔から血の気が引いていくのを感じた。
『安心しろ。私の声は演奏者本人にしか届かない』
その言葉に、サクはほっと胸を撫でおろした。ピアノに尋ねる。
「……それで?」
『それだけだ』
「は? 何が目的なんだよ」
『目的などない。演奏者が心の奥底に隠した本当の思いを知らせることだけが、私に与えられた役割だ』
「趣味悪いな」
『それは私にではなく、私をこんな風にした者に言え』
ピアノはそれきり何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、アサヒが言った。
「ねぇ、どうしたの? ひとりごとみたいにしゃべってたけど」
サクはそのままの姿勢で告げた。
「ナルに訊く必要はなくなった」
「それってつまり……」
頷いて、アサヒに顔を向ける。
「魔法が発現した。一昨日駄目だったのは、ピアノが調律されていなかったから。たぶん昨日、調律されたんだと思う」
「なるほど。ピアノを弾いても魔法が現れなかったのは、そういうことだったんだね。……それで、どんな魔法だったの?」
「曲を弾くと、その音が言葉となって、演奏者に心の奥底にある本心を知らせる……ということらしい」
「本心?」
アサヒは不思議そうに首を傾げた。サクは表情から悟られまいと、顔を真っ直ぐピアノに向けた。
「父さんのこととか色々。大したことじゃないし、アサヒには関係ない」
「うん……」
「このピアノに魔法をかけたのは、間違いなく父さんだと思う。なんでこんなふざけた魔法をかけたのか、突き止めてやる」
「待って」
アサヒがそう言って、鍵盤に伸びたサクの左手を制止した。
「……足音が聞こえる」
「足音?」
サクは開かれたドアの向こうへ目を向けた。
「……ナル。なんでこんなに早く」
四時少し過ぎにここへ来てから、まだ十分も経っていないはずだった。
近づいてきたナルに、サクは言った。
「今日は早いんだな」
「ピアノの音が聞こえて、気になって来たんだよ」
ナルはそう言いながら、じっとサクを見た。
そこをどけということか。サクは素直に椅子を降りた。ナルはこのピアノが「ただの」ピアノでないことを知っている。そう確信した。
「じゃ、俺たちはこれで」
サクはそう言って、アサヒに視線を送った。アサヒも「またね」とナルに言った。
二人はその場をあとにした。名前の分からない猫だけが、ナルの元に残った。
部屋に戻ったサクは、窓から中庭をそっと覗いた。
ピアノを演奏するナル。軽やかな音が周囲に弾け飛ぶ。その曲は、最近流行しているらしい、有名歌手の曲だった。
昼に繁華街へ出かけた際、三度も聞いた。好きなわけでもないのに繰り返し頭の中で流れ、うんざりしていた。いつの間にか停止していたが、ナルの演奏のおかげでまた再生されてしまった。
その曲が終わってしばらくしてから、二曲目が始まった。先ほどとは打って変わって、華やかで厳かな曲だった。
この曲も以前聞いたことがあった。音楽の授業で先生が弾いていた。先生はこれまで三度、友人の結婚式で弾いたと言っていた。
「この曲、知ってる」
隣でアサヒが呟いた。サクはピアノを演奏するナルをじっと見つめながら、返答した。
「結婚式の曲だろ。行ったことないけど」
「そっか、結婚式……。わたしは行ったことあるよ。前にね、先生とはぐれて道に迷ったことがあって、気づいたら綺麗なお花がたくさん咲いている場所にいたの。
そこに人が大勢いて、なんだろう? って覗き込んだら、真っ白なドレスを着た女の人が男の人とキスしてたの」
サクは顔の向きを窓の外に固定したまま、「ふぅん」と呟いた。
――キス。
その言葉に、内心ドキドキしていた。今アサヒの方を向けば、視線は間違いなく唇に向かうだろう。
できることなら、あんなことやこんなことを――。ピアノの声が頭に流れる。
うるさい。黙れ。そんなことはどうでもいい。重要なのはそこじゃない。重要なのは……。
途端に胸が苦しくなる。今は考えたくない。
「……というか、行ったことあるって言わないだろ、それは」
「どうして? ちゃんと拍手して、おめでとうございますって言ったのに」
「あとで噂になってたかもな。そういえば、知らない子がいたんだけど……って」
「そっか。名乗っておけばよかった」
「そういう問題じゃない」
二曲目が終わった。静寂が訪れた。
おそらくナルは今、ピアノの言葉を聞いているのだろう。サクはじっとナルを観察した。その表情からは、何も読み取れなかった。
しばらくして、三曲目が始まった。その曲は先ほどサクが演奏した曲、『迷える羊のロンド』だった。
「すごい。全然違う曲みたい」
と、アサヒが感心したように呟いた。サクはこめかみをぴくりとさせた。
ナルは前回とは少し違ったアレンジを加えて、その曲を演奏した。楽譜にない高い音が空に向かって飛び跳ね、滑り台を滑るように降りてくる。
軽やかな音とともに、動物が踊っているようなイメージが浮かんだ。その動物とは、ずんぐりむっくりの羊ではなく、猫だった。
しかし、本物の猫はナルのすぐ近くで前足を伸ばして、伸びをしていた。にぎやかな演奏にも慣れっこなのか、あくびもしている。
「自由気ままだな……」
つい猫に見入っているうちに、いつの間にか演奏が終了していた。
と思ったら、また別の曲が始まった。今度は昨日と同じ、暗く、重く、悲しい曲だった。
四曲目、五曲目、六曲目……。いつもと違い、ナルは全く違う曲調の曲を何曲も弾いた。
最初の演奏が始まってから一時間以上経った時、ナルはついに演奏をやめた。
長い静寂の後、ジャーンと大きな音が鳴り響いた。サクは驚いてビクッと肩を跳ね上げた。体を丸めて寝ていた猫が飛び起きて、一目散にどこかへ逃げていった。
ナルはゆっくりと立ち上がると、ピアノの前から去っていった。
不満をぶつけるような、大きな音がサクの耳に残った。
「どうしたんだろう?」
アサヒが心配そうな表情で言った。サクは少し間を置いて答えた。
「ナルは元から、あのピアノがただのピアノじゃないことを知っていたはずだ。そうじゃなければ、ピアノの音が変わったくらいですぐにやって来ないだろうし、ピアノの声に一切驚いた顔を見せないなんてあり得ない」
「つまり、ピアノの言葉を聞きにきたってことだよね?」
「あぁ。……だけど、言われた言葉は納得いくものじゃなかったんだろうな」
「ずっと同じことを言われたのかな? 全然違う曲を弾いてたけど」
「違う曲を弾いたって、変わらないだろ。本心はナルの中にあるんだから」
ナルは魔法のかかったピアノを目的にやってきた。その理由は、ピアノの言葉を聞きたかったから。それは間違いないはずだ。
しかし、自ら望んで聞いていながら不満を持つとはどういうことだろうと思った。
ピアノは演奏者に、心の奥底にある本心を告げる。演奏者が気づいていない本心。もしくは、気づいていながら封じている本心……。
サクにとっては後者だった。自分がなぜアサヒに対する気持ちを消したいと願ってしまうのか、その理由は分かっていた。
恐れている。いつやってくるか分からない別れを、恐れている。
これ以上、大切なものを失いたくない。そんな気持ちが心にずっとブレーキをかけていた。だが、そのブレーキは壊れてしまった。
今さらどうしたって、アサヒのことを好きだという気持ちが消えることはない。
一度気持ちを受け入れたのだから、この苦しみも受け入れるしかない。
サクはゆっくりと息を吐いて言った。
「もう一度、ピアノの元へ行こう」




