69話
「映画を見に行こっ」
アサヒがそう言って、肩にかけたポシェットから券を二枚取り出した。
サクはベッドの上から無言でアサヒを見下ろすと、再び横になった。
「いいよ、映画なんて。昨日無駄な練習に費やした分、今日は寝る。……どうせナルも来ないし」
何もやる気が起きなかった。無気力な日曜日。昼過ぎまで寝ようと思っていた。
「そっか。サクが寝てるなら、一人で行ってくる。でも二枚あるから……途中で暇そうな人を見かけたら、声をかけてみようかな」
サクはガバッと勢いよく起き上がった。
「やっぱり行く」
遅めの朝食及び早めの昼食を終えると、サクはアサヒとともに、バス通りから少し外れた場所にある映画館に向かった。
そこは宿と同様、古いレンガ造りの建物で、年季の入った看板に「トリス・シネマ」と書かれていた。
薄暗い館内へ入る。煙草の匂いの染みついたロビーを抜け、窓口で入場券を差し出す。半券を受け取って、階段を上る。
二階にある劇場の座席数はわずか百。客の入りは三割程度だった。
サクは真ん中あたりの適当な席に座った。隣に座ったアサヒは、興味深そうにあちこちを見てから、じっと正面のスクリーンを見つめていた。
「もしかして……映画館、初めて?」
「うんっ。あの白いところを見ていればいいんだよね?」
「そうだけど、まだ始まらないぞ。暗くなってからじゃないと」
その時、入口の方から女性の声がした。
「おせんにキャラメル、ポップコーンはいかがですか~」
振り向くと、首から箱を提げた売り子が、ドア近くの客の元へ向かっていた。
サクは小さく呟いた。
「さっき食べたばかりだから、何もいらないな」
「うん。無駄遣い禁止」
アサヒはそう言いながら、ちらりと売り子に目を向けた。その後も、呼び声を発しながら客席をまわる売り子に、何度も目を向けていた。
「おせんにキャラメル、ポップコーンはいかがですか~」
通りがかった売り子に対し、サクは即座に答えた。
「キャラメル、一つください」
「は〜い。百エルンです」
財布を取り出し、百エルンと引き換えに黄色い小箱を受け取る。
「ありがとうございま~す」
売り子が去ったあと、サクはその箱をアサヒに手渡した。
「はい。これくらいは無駄遣いの範疇じゃない」
アサヒは目をぱちくりさせた。
「わたしに? どうして?」
「物欲しそうな目で見てたから」
「そんな目で見てないよっ」
アサヒはわずかに頬を膨らませた。しかしすぐに元通りになって、
「……食べてもいい?」
「どうぞ」
アサヒは箱からキャラメルを一粒取り出すと、包み紙を開いて口に入れた。途端にぱっと花が顔に咲き誇る。
「甘い! 美味しい!」
「それはよかった」
なんだか照れくさい気持ちになり、サクは顔を背けるように正面を向いた。
「サク」
呼びかけられ、再び隣を向く。
「ありがとう」
その時、「ブー」と開演を知らせるブザーが鳴った。同時に照明が落とされ、部屋は真っ暗になった。
スピーカーから、聞き覚えのあるポップな音楽が流れ出す。
サクは正面のスクリーンに目を向けた。
見覚えのある、首に赤いスカーフを巻いた女。手に持った短機関銃の銃口がこちらを向く。女は不敵な笑みを浮かべて、一言。
「できたてのポップコーンはいかが?」
直後、発射されたポップコーンがスクリーンを覆い尽くした。
その映画は、五年前に上映されて大ヒットしたアクション映画、『ポップコーン・マシンガン』だった。
それは父と最後に見に行った映画でもあった。どちらが見たいと言ったわけでもなく、今日と同じようにたまたまチケットを手に入れて、たまたま上映中だったので見ただけだった。
一瞬、懐かしい気持ちが湧いた。しかし、感傷的にはならなかった。
暗くなる直前に見たアサヒの笑顔が、頭に浮かんだ。それは映画が終わるまでのあいだ、ずっとサクの頭の中で映し出されていた。
「おもしろかった!」
部屋が明るくなった瞬間、アサヒが言った。入口の扉が開き、ガヤガヤと騒がしくなる。
アサヒは座席に座ったまま、後ろを振り返って呟いた。
「どんどん人が入ってくるね」
「さっきは再上映だったから少なかったんだな。……どうする? さっきの映画は一度見たことのあるやつだったし、もう一本見てもいいけど」
この映画館では、一枚の入場券でその日上映している映画を何本でも見ることができた。
アサヒはこくりと頷いた。
「そうしよっ。他にすることもないし、暇だから」
「そうだな。このまま次の映画を見てから帰ろう」
入口の方から、売り子の呼び声がした。
「おせんにキャラメル、ポップコーンはいかがですか~」
アサヒが不敵な笑みを浮かべて言った。
「できたてのポップコーンはいかが?」
「言うと思った」
アサヒはキラキラと目を輝かせた。
「カッコよかったね! カノン! それにしても、まさかポップコーンにあんな秘密があったなんて……」
「念のため言っておくけど、フィクションだからな。あと、ポップコーンはいらない」
「わかった。じゃあ、キャラメルのお礼はまた今度ね」
「いいよ、お礼なんて。それこそ無駄遣いだから」
「それなら、お金のかからないことにする。わたしにやって欲しいこととかない?」
「いいって別に」
サクは正面のスクリーンに目を向けた。
しばらくして、ブザーが鳴った。部屋も暗くなった。
始まった映画は、若い男女が織り成すラブストーリーだった。
よくある普通の出会いから始まり、とりとめのない会話が続く。見ていて退屈になるようなシーンの連続に、なぜこんな映画が人気なんだと思わざるを得なかった。
あくびをしながら、サクはさっきのアサヒの言葉を思い返した。
やって欲しいこと。……猫の鳴き真似とか?
――にゃあ。
またもやアサヒの姿が頭の中に映し出された。変なことを考えるな。そう自分に言い聞かせながら、スクリーンに目を向ける。
すると終盤、突然濃厚なラブシーンが始まった。サクの両目のまぶたは開いたまま張りついた。首や肩がカチカチに凝り固まった。
そのシーンが過ぎたあとも、サクの身と心は凍りついたままだった。
――気まずい。終わったら、どんな顔をすれば……。
そのまま映画は終了した。明るくなった途端、サクは腹部をさすって呟いた。
「はぁ、腹減ったな。何か食べに――」
コツンと肩に何かが当たった。隣を見る。いつの間にか三つ編みになっている、アサヒの頭だった。
眩しさに気づいたのか、アサヒはうっすらとまぶたを開けた。
「……あれ? ここ、どこ?」
「寝ぼけてるのか?」
「あっ、思い出した! 映画を見てる最中に眠くなっちゃって、三つ編みにしたんだった」
アサヒはそう言って、三つ編みを解いた。サクは呆れ声で言った。
「いつから寝てたんだよ」
「う〜ん。ハンバーグの中からチーズが出てきたところまでは覚えてるんだけど……」
「そんなシーンあったか?」
「あったよ! そこだけはちゃんと覚えてる!」
「そこだけって……。まぁ、それならそれで、むしろよかったけど」
「ん?」
「腹が減ったから、早く出よう」
サクはすっと立ち上がった。
映画館を出たサクとアサヒは、真っ直ぐ宿へ戻った。
門の手前から見える古い時計。示している時刻は午後四時二十分。十分遅れているため、つまるところ現在時刻は午後四時半だった。
玄関をくぐり、中へ入る。すると右側から、用務員のような風体の老人とスーツケースを持った若い女性が歩いてきた。
女性は玄関前で立ち止まって、老人に言った。
「それでは、これで失礼します」
「よければ泊まっていきませんか? 今日はお客さん、少ないですから」
「すみません。あいにく明日は朝から遠方で仕事なんです。だから今日中に移動しないといけなくて……」
「そうですか。大変ですね。あまり無理なさらないように」
「はい。お気遣いありがとうございます。校長先生――じゃなかった。支配人もお体に気をつけてくださいね。近頃冷えてきましたから」
女性は軽く頭を下げると、ドアを開けて出ていった。
――校長先生……。
サクは驚いた顔で老人を凝視した。老人は振り向いて言った。
「おや? お客さん、ただいまお戻りで?」
サクは慌てて表情を変え、頭を下げた。
「映画館の券、ありがとうございました。さっき行ってきました」
「そうですか。どんな映画をご覧になられたのですか?」
「えっと」
一瞬、頭に濃厚なラブシーンが流れた。それしか記憶に残っていなかった。
隣でアサヒが言った。
「ポップコーンが出てくる銃を持った女性が、戦う映画です!」
「おぉ、あの映画ですか! たしか主人公の名前は、カノンでしたよね」
「はいっ。カッコよくて、とっても素敵な女性でした」
「そうですか」
老人はにこやかな表情を見せると、一瞬、先ほど女性が出ていったドアに目を向けた。
「お楽しみいただけたようで、何よりです。……そうそう、お客さん。もし明日もいらっしゃるなら、是非ピアノを弾いてください。きっといい音が出ますよ」
「……はい」
サクはぎこちない表情で返答した。
老人は「どうぞ、ごゆっくり」と言って、去っていった。
「ピアノを弾いたって、何の意味もないんだけどな」
腕につけた時計に触れながら、サクはため息をついた。
アサヒは首を傾げた。
「いい音が出るってどういうことだろう? 昨日と何か違うのかな?」
「さぁな」
「なんだか気になるから、明日弾いてみてっ」
「意味のないことはしない」
サクはそう言って廊下を歩き出した。
角を曲がる直前、横から猫が現れた。よく見かける、エメラルドグリーンの瞳とオレンジがかった明るい茶色の毛が特徴的な猫だった。
猫はアサヒにすり寄って、ニャーニャー鳴いた。
「どうしたんだろう?」
アサヒがしゃがみこむ。
「撫でてほしいんだろ」
「ニャー」と猫が返事をした。
「すごい! サク、猫の言葉がわかるんだねっ」
「いや、今のは偶然……。昔飼ってたから、ちょっとは分かることもあるけど」
「そうなの?」
「昔、ばぁちゃんが近所に捨てられてた猫を拾ってきたらしい。物心がついた時には、猫がいた」
思えば、そんな性格だから祖母は自分のことも受け入れてくれたのだろう。実の孫でないことは分かっていたはずなのに。
サクは膝を屈めて、猫の頭に手を伸ばした。猫は逃げることなく、気持ちよさそうに撫でられていた。
サクは思い立って、アサヒに言った。
「ニャーって言ってくれたら、明日ピアノを弾く」
アサヒはきょとんとした顔をした。一瞬猫を見て、もう一度サクを見る。
「にゃ、にゃー?」
眉間にしわを寄せて言った。
「なんか違う」
「よくわからない。どうしてわたしが猫の鳴きまねをしたら、サクがピアノを弾くの?」
「それは……キャラメルのお礼ってことで」
「どうしてキャラメルのお礼が猫の鳴きまねなの?」
アサヒはさらに訝しげな顔をした。サクは真顔で言った。
「俺の住んでた町では、猫の鳴きまねを聞くといいことが起こるという言い伝えがあるんだよ」
「そうなの?」
「うん」
アサヒは納得したように頷きながら、「わかった」と言った。ひと呼吸置いて、
「にゃあ」
そう言ったあとに、少し照れた表情をした。
「……これでいい?」
しばらく呆然としていたサクは、ハッとして立ち上がった。
「合格」
「やったー! ……って、あれ? これって試験だったっけ?」
アサヒが首をひねる。サクは視線を逸らして淡々と言った。
「先にシャワーを浴びて、少し早いけど夕飯にしよう」
「うんっ」
サクはそのまま、部屋までの道のりを早足で歩いた。
止まれ。と心の中で呟きながら。それは足ではなく、気持ちのことだった。まるでブレーキの壊れた自転車で、坂道を下っているような感覚だった。
どうすることもできない。自分の意思では止められない。
これが「好き」という気持ちであることは、分かっている。受け入れている。
しかし、サクは心の奥底でその感情を拒絶していた。
こんな気持ち、なくなってしまえばいいのに、と。




