6話
「このカメラを直してほしいの」
紅茶を半分ほど飲んだあたりで、ミヨさんは本題に入った。
テーブルの端に置かれたカメラがゆっくりと持ち上げられ、中央に移動する。
それは、古いフィルムカメラだった。
珍しいカメラだ。
サクはそのシルバーと黒のコンパクトなカメラを、食い入るように見た。
正面左に刻印された製造会社は、有名メーカーに吸収されて今はない。とりわけこのカメラは製造年数が短く、流通量も少なかった。
サクはこれと同じ物を、父が持っていた雑誌で見たことがあるだけで、実際に目にするのは初めてだった。
「壊れてしまって、動かないの。裏蓋も開かなくって」
「触ってもいいですか?」
ミヨさんに「どうぞ」と言われ、サクは興味本位でカメラを手に持った。
どこかで落としたのだろうか。表面に、明らかな傷があった。
「そのカメラはね、亡くなった夫の物なの。あの人がとても大事にしていた物だから、直してあげたいのよ」
ミヨさんの言葉に、サクは表情を硬くして、カメラをテーブルに置いた。
「それなら、専門の修理屋に任せた方が……。経験の浅い俺たちよりも、その道のプロに直してもらった方が確実ですよ」
それは素直な気持ちだった。直す直さない以前に、目の前の老婦人が、なぜ自分たちのような実績の定かでない若輩者に頼んできたのか、疑問に思った。
ミヨさんはテーブルの上に身を乗り出して、ひそひそ声で言った。
「専門の修理屋さんは、高いのよ」
サクはまばたきをして、沈黙した。
ミヨさんは例によって、ほほほと笑った。
「前に、遠くの町の修理屋さんに電話したんだけど、ウン万かかるって言われちゃって。
やだわぁ。死んだ人間のために、そんなにお金かけられないわよ。あなたたち、安く請け負ってくれないかしら? さっき警官に捕まっていたところを助けてあげたでしょう?」
「捕まってません」
サクがすかさず否定する。
ミヨさんは笑顔を浮かべて、サクに言った。
「そういえば、ポケットの中身は無事にしまえたかしら?」
サクは口を小さく開けたまま、固まった。
「ポケット?」
アサヒが不思議そうにサクを見る。
「さぁ……何のことだろう……」
サクはしらばっくれたが、内心ドキドキしていた。
あの時、後ろのポケットを気にしていたから、何かを隠していると勘づかれたのか? まさか、自販機を開けるところを見られていた――いや、そんなはずは……。
ミヨさんはまたしても、ほほほと笑った。
「最悪、裏蓋を開けて中のフィルムを取り出してくれるだけでもいいのよ」
「……分かりました」
半ば脅されて、サクは依頼を承諾した。
ミヨさんは目元のしわを深くして、嬉しそうに微笑んでいた。
試されている――いや、遊ばれている。
本気で修理してほしいのなら、お金をかけてでも専門の修理屋に頼むだろう。それを何の実績もない、見ず知らずの人間に頼むなんて……。今より状態が酷くなってもいいというのか。
サクは自分の腕に全く自信がないわけではなかったが、客観的に考えてそう思った。
テーブルに置いたカメラを見る。
そのカメラが、急にかわいそうに思えた。と同時に、何とか直してやりたいという気持ちが湧いてきた。
カメラの修理経験は何度かある。が、拾い物のジャンクを直したことがあるだけの、所詮アマチュアだ。自分にこのカメラを直せるか……。
意欲半分、不安半分で、サクはミヨさんに尋ねた。
「それで、どこで作業をすればいいですか?」
「そうねぇ。納屋はどうかしら? 時々風が吹き込んでくるようなところだけど、今の時季なら暑くもなく、寒くもなく、ちょうどいいと思うわ」
サクはアサヒとともに、ミヨさんのあとについて居間を出た。中庭を囲む細い回廊を一列になって歩く。
居間の反対側に位置する木製の扉を開いて外へ出ると、数歩先に納屋があった。
鍵はかかっていないらしい。ミヨさんは戸に手をかけると、ガタガタと軋むような音を立てて開けた。
壁に付いているスイッチをカチッと押す。天井からぶら下がった裸電球が暖色に灯る。
居間より数倍広い空間の隅に、手作り感のある木の机が佇んでいた。
壁に備え付けられた棚には、新聞紙、バケツ、トイレットペーパーなどなど、色々な物が乱雑に置かれている。
「どうかしら? 机もあるし、ここなら作業できそうかしら?」
「はい、大丈夫です」
サクが返答すると、ミヨさんは壁に立てかけられた、折りたたみ式の椅子を目で示した。
「そこの椅子を使ってちょうだい。それから、棚にある物は何でも使っていいわ。役立つ物があるかわからないけれど」
「わかりました!」
と、今度はアサヒが返答した。ミヨさんは頷いて、二人に言った。
「私はこれから用事があって出かけなきゃならないの。二時間ほど留守にするけど、問題ないかしら?」
「はい。決して悪いことはしませんので」
サクは反射的にそう答えた。
ミヨさんは目をぱちくりさせてから、おかしそうにほほほと笑った。
「疑って聞いたんじゃないですよ。私が留守にすると、あなたたちが困ることがあるかしらって心配したんです。
あっ、そうそうお手洗いの場所を教えてなかったわ。さっきの廊下をね――」
ミヨさんは戸口で、二人に家の間取りを説明した。
トイレの場所だけでなく、風呂や台所など、およそ立ち入ることのないであろう場所まで丁寧に教えてくれた。
さすがに不用心ではないか? サクは訝しく思った。
自分たちが本当は泥棒だったらどうするのか。警官は、顔を見られているから悪いことなんてできないと言っていたが、全然人はいないし、逃げようと思えば逃げられそうじゃないか。
もしや、これは何かの罠なのか……?
「それじゃあ、あとはよろしくね。修理屋さん」
ミヨさんは微笑みながらそう言うと、行ってしまった。
その後ろ姿を見送ったあと、サクは広い机の前に立った。
真ん中に、カメラを置く。
自分が直してやろうと思っていた。だが……。
――このカメラは、「魔法」で直してもらおう。
自分が下手に触るより、その方がいいだろう。あの人は二時間も帰ってこないし、人目を気にする必要もない。ついでに「魔法」をもう一度この目で確かめるチャンスでもある。
それに、この納屋には色々な物が置いてある。探せばこの辺りの地図だとか、何か先に進むために使えるものがあるかもしれない。棚にあるものは何でも使っていいと言われたのだから、問題はないはずだ。
早く修理を済ませて、棚の中を探ってみよう。そんなことを考えていると、
「さっそく修理、はじめようよ」
アサヒが椅子を抱えて、机へ近づきながら言った。
「あの人はいなくなったんだし、魔法で直せば一瞬だろ? 椅子なんて持ってこなくてよかったのに」
サクはそう言いながら、机の真正面を明け渡すつもりで一歩後ろに下がった。
「だめ。それは魔法じゃ直せない」
「え?」
サクが驚いて聞き返すと、アサヒは机の上のカメラを見下ろして言った。
「魔法じゃ、きっとその傷も消してしまうから」
「……別に、消してもいいと思うけど?」
サクは訝しげな目で、カメラの表面についている傷を見た。
修理を頼まれているのだから、傷を消したって問題はないはずだ。新品同様の状態にして、何が悪いというんだ。
アサヒは訴えかけるような目でサクを見た。
「亡くなった旦那さんが大切にしていたカメラでしょ? 傷を消して、新品みたいにしちゃったら、旦那さんが使った痕跡もなくなってしまう。だから、消さないほうがいいと思うの」
サクはその言葉がいまいち飲み込めず、眉間にしわを寄せた。
アサヒはカメラに視線を戻して続けた。
「ミヨさん、その傷に触れながら寂しそうな顔をしてたから、何かあるんじゃないかと思って。それが何かは聞けなかったんだけど……」
サクは再びカメラを見下ろした。深く、鋭く、痛々しい傷が、目に刺さる。
あの人がカメラを持ち上げた、ほんのわずかな時間。自分がカメラに気をとられている間、彼女は別のものを見ていたらしい。
もしこの傷が大切なものなら、消すわけにはいかない。消してしまっては、二度と元に戻せなくなる。
サクはアサヒに尋ねた。
「カメラ全体じゃなくて、壊れた部品だけを直すことってできる?」
「もちろん。その部品だけに触れて魔法を使えば」
その言葉を聞いたサクは、ゆっくりと息を吐いた。それなら、部品交換が必要だとしてもなんとかなる。
「……分かった。俺がみてみるよ。気が散るから話しかけるなよ。魔法の出番があればこっちから話しかけるから」
アサヒはパッと顔を輝かせた。
「了解!」
サクは工具箱をカメラの右側に置いた。アサヒから椅子を受け取り、机の前に腰掛ける。
カメラを手に持ち、フィルムが巻き戻っているのを確認して、裏蓋を開けることを試みた。が、全く開かない。ロックがかかっているのか、引っかかっているような感触がある。
サクは工具箱の中からドライバーを取り出すと、ネジを外した。露出した金属部品を引き上げてロックを解除する。
首尾よく裏蓋を開けることに成功し、フィルムを救出した。
問題は……。サクの頭にミヨさんの言葉がこだました。
――壊れてしまって、動かないの。
その言葉通り、巻き上げレバーは回りきらず、シャッターボタンも押せなかった。
かなり分解する必要があるかもしれない……。
分解して、組み立てる。それだけでも難易度は高い。修理したことのある機種ならまだよかったが、初めての機種だ。部品の配置を正確に覚えておかないと、元に戻せなくなってしまう。
サクは工具箱の中から、カメラの修理に使えそうな道具やオイルを取り出して机に並べた。もう一度、ドライバーを手に取る。
ここから、本気の修理のはじまりだ。
ネジを外し始めてしばらくすると、時間も、呼吸も、全身の血流さえも、止まっているかのような感覚に陥った。
隣で少女が待てと言われた犬のようにじっとして、ひたすら自分の手元を見ていることにも気がつかなかったほど、集中していた。
最後のネジを締め、ドライバーを置く。巻き上げレバーを回し、シャッターボタンを押すと、カシャッと音が鳴った。
その瞬間、サクはどこか別の場所から現実世界に帰還したような気がした。
完全に直ったかどうかは、フィルムを入れて実際に写真を撮ってみないと分からない。
けれど、シャッターは切れるようになったし、裏蓋も問題なく開閉できるようになった。ひとまず依頼は達成できたと言えるだろう。
充足感に浸りながら、椅子に沈み込んだ。疲労で重くなった体が、沼に沈んでいくような感覚がした。
それにしても、カメラ修理の道具が随分と揃っていた。ボロボロになったモルトも、工具箱の中に交換用があったおかげで張り替えることができた。
間違いない。この工具箱はカメラを修理するために持っていたのだ。学校の誰かに、壊れたカメラを直してほしいと頼まれていたとか……?
サクは疲れた目を、天井近くの小さな窓に向けた。
暗い。今、何時だ? それに、何か忘れている気が……。
湯気が出そうなほど熱くなった頭が、急速に冷えていくのを感じた。
タッタッタッタッ。背後から足音が一定のリズムを刻みながら近づいてきて、止まった。
「……サク」
単調な声で呼びかけられた。「あー」と声にならない声を漏らしながら、サクはゆっくりと首を動かした。
「修理、終わった?」
その口調は思いのほか軽かった。
「あ、うん」
よかった。怒ってはなさそうだ。サクはこめかみをぽりぽりかきながら、内心ほっとした。
悪い癖で、集中しすぎると周りが見えなくなってしまう。元々、壊れた部分は本体から切り離して、手っ取り早く彼女に魔法で直してもらうつもりだったのに、修理に夢中になっているうちに忘れていた。
「ごはんにしよっ。お腹空いたでしょ?」
そう言って、アサヒはサクの肩を掴んだ。その細い指からは想像できない強さで。
――やっぱり、怒ってる。
サクはたじろぎ、ふらつきながら椅子から立ち上がった。