68話
午後四時になった。サクはピアノの前の椅子に腰掛けると、両手を鍵盤に置いた。
そばにアサヒはいない。昼過ぎに散歩に行ってくると言って出ていったまま、戻っていなかった。
――四時までに戻ってくるって言ったくせに。
鍵盤を沈める。タン……ターン……。弱々しい音が、静寂の中に消えていく。
全く身が入らなかった。
一体アサヒはどこへ行ったのか。迷子になったのか。もしや事故に遭ったんじゃないか。それとも、何か事件に巻き込まれて……。
サクはとうとう鍵盤から両手を離した。
捜しに行こう。決心して立ち上がる。
その時、薄暗い部屋の方からタッタッタッと足音が聞こえた。
「ギリギリ間に合った!」
アサヒは部屋から出てくるなり、笑顔で言った。
サクは力が抜けたように、すとんと椅子に腰を下ろした。譜面台の横に置いた時計を睨みつけて言う。
「全然間に合ってない。十分二十五秒遅刻」
「えっ?」
アサヒは驚いた顔をして、時計に目をやった。
「本当だ……。あの時計、遅れてたんだ」
「あの時計って?」
「門のところから見える、古い時計。ずっとあの時計を見てたんだけど、まさか遅れてるとは思わなくって」
「ずっとって、そんなに近くにいたのか」
サクは大きくため息をついた。たかが十分遅れているだけであんなに焦るなんて、どうかしていた。心配性がうつったか?
アサヒは申し訳なさそうな声で言った。
「遅れてごめんなさい。四時までに戻ってくるって約束してたのに」
「別に、いいよ。時計が遅れてたなら仕方ないし、たかが十分だし。……それに、元々一人でやるつもりだったから」
サクはそう言うと、ピアノに向き直った。ふぅと大きく息を吐く。両手を鍵盤に載せる。
「それではどうぞ」とアサヒが言った。
「だから、試験官か」
試験――と思うと、なんとなく緊張した。だがそれは歓迎すべきものだった。
身と心がキュッと引き締まる。集中力が高まるのを感じる。
鍵盤を押す。ポンと音が鳴り響いた。いける。……と思ったが、そう上手くはいかなかった。
中盤でリズムが崩れ、一瞬で指が迷子になった。
サクは小さくため息をついた。アサヒが弾んだ声で言った。
「すごい! 昨日よりずっと上手になってる!」
「当たり前だろ。一日中部屋に籠って練習してたんだから」
サクは再び鍵盤に両手を置いた。時間はまだある。何としても、今日中に最後まで弾いてやる。
意気込んで鍵盤を押す。失敗してはやり直す。何度も、何度も。
そしてついに――。
「……できた」
アサヒが「すごい! すごい!」と言いながら、拍手した。
十三回目にして、サクはやっと最後まで弾き切ることに成功した。
肩の力を抜きながら、長いため息をつく。ゆっくりと顔を上げ、少し暗い空を見た。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。肺から全身に、達成感が行き渡った。
「これで解放――」
視線をピアノに戻す。再び鍵盤に手を置く。
「……なん……で……」
消え入るような声で呟いた。
何も起こらなかった。時計の針は回るどころか、ぴくりとも動かない。目の前には黒いピアノがしんと静かに佇んでいる。
サクは思わず両手で鍵盤を叩いた。ジャーンと大きな音が鳴り響いた。
「なんでだよ! ちゃんと演奏しただろ。簡単な曲だから駄目だったのか? 俺には十分――」
「ねぇ、サク」
アサヒが真剣な表情で言った。
「このピアノにどんな魔法がかかってるか、分かった?」
「え……」
サクはアサヒに向けた目をピアノに戻した。
言われてみれば、このピアノを演奏している最中、何の違和感も感じなかった。
絵は、見ると吸い込まれるような感覚がした。
眼鏡は、かけると少し先の未来が見えた。
棺は、触れるとほのかに温かく、かかっている魔法は初めから明らかだった。
――魔法が……発現していない。
サクは椅子を降りた。ピアノを上から覗き込む。
もしかしたら、魔法がかかっているのはこのピアノ本体ではなく、中に隠された「何か」なのではないかと思った。
――こうなったら分解して……。
そばでアサヒが言った。
「だめだよ、そんなことしちゃ」
「心を読むなよ」
「心なんて読んでないよ。顔に書いてあったのを読んだだけ」
サクはすっとアサヒから顔を背けた。
「……だけどこのままじゃ、前に進めないだろ。ピアノを弾いても何も起こらないということは、このピアノには何の魔法もかかっていないってことじゃないのか? もしそうなら、真の探し物はこのピアノの中にある。そう考えるのが妥当だろ?」
「そうかな……。わたしはやっぱり、このピアノだと思うんだけど」
「そう思う根拠は? どうせただの直感だろ」
サクは苛立つ気持ちを抑えながら、膝を屈めた。
ピアノの下に入り込み、裏を覗く。何かを隠すスペースは……ない。
それならば、地中に――。コツコツと地面のタイルを叩く。爪をタイルの端に引っ掛ける。しかしそれが持ち上がることはなく、地中に何かが隠されている気配は皆無だった。
サクはピアノの下から出て、立ち上がった。腕を組んでしれっと呟く。
「やっぱり、ピアノだな」
アサヒが言った。
「根拠かどうか分からないけど……。さっきね、宿のおじいさんにここが学校だった頃の話を聞いたの。それで――」
その時、薄暗い部屋の方から足音がした。アサヒは話を止めて、部屋の奥へ目を向けた。サクは譜面台の横に置いた時計を見た。
時刻は午後五時ちょうどだった。
真っ直ぐ歩いてきたナルは、サクとアサヒを一瞥すると、無言でピアノの前に腰掛けた。
アサヒが「こんにちは」と声をかけた。
ナルは小さく抑揚のない声で「こんにちは」と言った。そしてそのまま両手を鍵盤に置き、演奏を始めた。
重々しく、悲しい雰囲気の曲だった。その音と、ピアノと、ナル自身が一体となっているようだった。
自ら奏でる音に飲み込まれ、自らも曲の一部となる。ナルという人間の輪郭はどんどん曖昧になっていく。
毎日印象が違って見えるのは曲のせいなのか。そう、サクは思った。
ナルはいつものように、同じ曲調の曲を三曲演奏すると、何も言わずに椅子を降りて去っていった。
サクとアサヒは言葉を発することなく、手を叩くこともしなかった。
呆然とナルの姿を見送ったサクは、再びピアノに目を向けた。そっと鍵盤に左手を伸ばす。沈めると、ジャーンと音が鳴った。
さきほどの曲につられて、うら悲しい気持ちになる。
「……今日のところは、諦めて引き上げよう」
「うん」
サクたちは一旦部屋に戻ると、夕食をとるために宿を出た。
外へ出たのは、気分を入れ替えるためでもあった。
一曲弾くという目標を達成したのに、目的を達成できなかったことで、サクの心は沈み込んでいた。おまけにナルの演奏が尾を引いて、気持ちはさらに暗くなっていた。
少しその場から離れたい気分だった。
サクは歩きながら「はぁ」とため息をついた。これで今日何度目のため息だろう。ふと思ったが、まともに考える気はなかった。
目論見が外れた。必死に練習して弾けるようになったのに、何の意味もなかった。
ピアノから離れた場所へ行けば、おのずと気分が変わると思ったが、簡単には変わらなかった。
暗い顔をしていると、アサヒがにこりと笑って言った。
「あんな短期間でピアノを弾けるようになるなんて、さすがサク!」
「何の慰めにもなってないから。だいたい、アサヒが言ったんだろ。一曲弾かないとだめだって」
「だめなんて言ってないよ。だめなんじゃない? って言っただけで。壁にぶつかったら、試行錯誤するのは当然でしょ?」
「そりゃあ、そうだけど……」
もしや、曲の難易度が低すぎたのでは。という考えが頭をよぎったが、すぐに排除した。
バス通り近くの広場に出て、キッチンカーでパンとスープとポテトを購入した。
近くのベンチに並んで座る。
肌寒さを感じたが、温かいスープを飲めば気にならない程度だった。
「そういや」と、サクはパンを食べ終えてから言った。
「あいつ……ナルが来る前に、何か言いかけてなかった?」
「うん。お昼に散歩に行こうと思って外に出たらね、掃除をしてる宿のおじいさんに会って」
「あぁ、あの用務員みたいな人……」
「用務員?」
「いや、なんでもない。続けて」
「うん。それで、暇だったから掃除を手伝ったの。……あっ! お礼にって、映画館の入場券をもらったの、忘れてた!」
アサヒはポシェットから二枚の紙切れを取り出して見せた。サクは真顔で「続けて」と言った。
アサヒも真面目な顔をして、ポシェットに券を戻すと、話の続きを始めた。
「おじいさんに、どうしてあのピアノは二時間しか演奏できないんですか? って尋ねたの。そうしたら、二つ理由を教えてくれて。
一つ目の理由は、雨や風から守るため。この地域では、雨はあまり降らないらしいけど、それでもずっと野ざらしにしておけば傷んでしまうから、夕方の四時から六時のあいだ以外は特殊なカバーをかけてるんだって」
「なるほど。確かにずっと外に置いてあった割に、全然傷んでなかったな。……だけど、なんで四時から六時なんだ?」
「うん。それが二つ目の理由と関係あるんだけど……。
宿が学校だった時代、四時から六時の二時間は放課後の自由時間だったんだって。その時間、生徒たちはレッスンから解放されて、好きなことをしていたみたい。外に出かける子もいれば、一人で勉強をする子もいたり。
門もこの二時間だけは開いていて、だから、外から入ることもできたらしいの」
「外から……」
サクは呟いた。アサヒはこくりと頷いた。
「ある時、近所に住む男の子が学校に入って、部屋に置かれていたピアノを勝手に演奏し始めたの。その演奏はでたらめで、男の子はすぐに一人の生徒に見つかってしまった。
だけどその生徒は、男の子を叱ることも、追い出すこともなく、一緒にピアノを弾き始めた。
それから校長先生の許しを得て、月曜日から土曜日の放課後、男の子はその生徒と一緒にピアノを演奏したんだって。その男の子はすごい才能を持った子で、生徒の演奏を真似てるうちにみるみる上達していったみたい」
「その男の子って……」
「うん。ナルだよね?」
サクは今日見たナルの姿を頭に浮かべた。重々しく、悲しい曲を演奏するナル。何も言わずに去っていった少年――。
アサヒはひと呼吸置いて、また口を開いた。
「五年前……学校で窃盗事件が起きて、保管されていた楽器が大量に盗まれてしまったらしいの。そのせいで、多くの生徒は練習ができなくなって、演奏家になるための大事なコンクールにも出られなかった。
ピアノは大きいから、盗まれずに無事だったけど、学校は生徒も含めた人の出入りを厳しく管理するようになって、男の子は出入りを禁じられてしまったんだって。
でも、それだけじゃなくて……」
アサヒは口を閉ざし、表情を暗くした。サクは怪訝に思い、眉をひそめた。
「サク、『パイドパイパー』って知ってる?」
「パイドパイパー……。聞いたことがあるような、ないような……」
「大陸西部では、“楽園”に行けば、現世で叶えられなかった夢を叶えることができると言われているんだって。
だけどそれは、死んだ後のことで、生きているうちに“楽園”に向かうことはよくないこととされている。でも時々、本気で“楽園”に行きたいと願う人がいて、同じ考えを持った人が集まる。すると、どこからともなく『パイドパイパー』と名乗る人物が現れて、その集団を“楽園”に連れて行っちゃうの」
「楽園……」
死んだ人間の魂は、全て“楽園”に向かう。現世で叶えられなかった夢を、そこで叶えることができる。
大陸西部では、はるか昔からそんな信仰があったらしい。
その“楽園”は、古くは天上にあると考えられていた。しかし今は、大陸の中央にあるという考えが一般的になっている。
アサヒがゆっくりと口を開いた。
「楽器が盗まれて、コンクールにも出られなかった生徒たちは、ある日曜日、忽然と姿を消してしまった。きっと『パイドパイパー』の仕業だって、おじいさんは言ってた。
楽器がなくなって、生徒もいなくなって……それが原因で廃校になってしまったみたい」
「なるほど」
重苦しい話ではあったが、サクの心はすでに深い池の底にあったため、これ以上沈むことはなかった。
「それでね」とアサヒは続けた。
「残されたピアノの鍵盤に、一枚のメモが挟まっていたらしいの。そこには、『どうか少年に、このピアノを弾かせてあげてください』って書いてあって。
おじいさんも、ピアノだけは売るつもりがなくて、宿として再出発した時に中庭に置いたんだって。目立つ場所に置けば、泊まりにきたお客さんにも弾いてもらえると思ったかららしいんだけど……。
最初のうちはそこそこ弾いてもらえたのに、徐々に見向きされなくなってしまって。だけど、ピアノの音を聞いた男の子がまた来てくれるようになったんだよって、おじいさん嬉しそうに言ってた」
「つまり、あのピアノはほとんどナルのために置かれたものってことか……」
サクは顎に手を置いて思案した。あのピアノに魔法がかけられているとして、ナルならば、どんな魔法がかかっているか分かるかもしれない。
「明日ナルに、それとなく尋ねてみるか……」
「明日は日曜日だよ?」
アサヒの言葉に、サクは「あっ」と呟いた。
「日曜日に、ナルは来ない」
サクは長い長いため息をついた。本日最長のため息だった。




