67話
「あんな嫌な奴だったとは」
サクは机の上に楽譜を置いて、自分の耳にしか聞こえないほどの小さな声で呟いた。
思い出すと、胃の底が熱せられたヤカンのように熱くなった。
「よかったね! 弾いてもらえて」
にこりと微笑むアサヒに、サクは渋々頷いた。
ぐちゃぐちゃのリズムで、六小節目まで弾いた曲。その曲を最初から最後まで演奏してもらったことには確かに意味があった。
忘れないよう、聞いたメロディーを頭の中で繰り返す。
机に広げた、鍵盤を描いた紙の上で指を動かす。
それを見ていたアサヒが、小さく首を傾げながら呟いた。
「あのピアノ……どうして二時間しか演奏できないんだろう?」
サクは手を止めて答えた。
「さぁな。おかげで全然練習できない。……けど、あんな場所で何時間も下手なピアノを弾いてたら、どこかから苦情を言われるかもしれないし。なんとかして数回で弾けるようにならないと」
プレッシャーに押しつぶされそうだった。またため息をつきそうになったのを、ぐっと我慢した。
それを察したように、アサヒが穏やかな声で言った。
「大丈夫だよ」
「――大丈夫って、いつもそう言うよな。根拠もないくせに」
「根拠ならあるよ。サクならできるって信じてるから。それに、わたしがついてる。だから大丈夫!」
アサヒは顎をくいっと上げた。
サクはアサヒの透き通った青い瞳をじっと見つめた。
どこからそんな自信が湧いてくるのか。源泉を探すように、瞳の奥を覗き込む。
アサヒは困惑した様子で数回まばたきをした。
一瞬で我に返ったサクは、慌てて顔を背けた。無言で棚へ向かい、そそくさと財布を取り出す。
「腹減ったから、食堂に行って夕飯にしよう」
「うんっ。そういえば、黒板に今日のオススメはカツライスって書いてあったよ」
「カツライス……」
ゲン担ぎみたいだなと思いながら、サクは食堂へ向かった。
定員二十名ほどの小さな食堂には、サクたちの他に、客は一人しかいなかった。
その客も、サクがカツライスを食べ終わる頃にはいなくなっていた。
サクは空になった皿にスプーンを置いて言った。
「明日の予定だけど、夕方の四時からまたあの中庭へ行く。それまで俺は、部屋にこもってひたすら練習する。と言っても、いつもと同じく、紙に描いた鍵盤の上で指を動かすことくらいしかできないけど……。そのあいだ、アサヒはどうする?」
もぐもぐと口を動かしながら、アサヒが首をひねる。サクは訝しげな目つきでアサヒを見た。
「そういや、昨日も今日もずっと何してたんだよ」
アサヒは最後のひと口をごくんと飲み込んで言った。
「えっと……。空を眺めたり、鳥を数えたり……あとはひたすらサクを観察してた」
「俺を観察するのはやめてくれ。見られると集中できない」
「あっ、そうだ! 引き出しにトランプがあったの。だから明日は神経衰弱か、ババ抜きをする!」
「どうやって一人でババ抜きするんだよ。他にあるだろ? 一人でできること」
「一人でできること……う~ん、お昼寝?」
「何時間寝る気だ」
「じゃあ、お散歩!」
「……まるで猫だな」
「そんなこと言ったって、他に思いつかないし。お金のかかることはできないし……」
「まぁ、確かに。散歩に行くのはいいけど、あまり遠くへ行くなよ。もし迷って帰って来られなくなったら――」
「わかってる。ちゃんと四時までに戻ってくるから、安心して」
サクは立ち上がって、食器の載ったトレーを持ち上げた。
「それは別に、一人でも構わないけど。俺は自分のやるべきことをやるだけだから」
「強がらなくてもいいのに」
「強がってなんかない。――ごちそうさまでした」
トレーを返却し、食堂を出る。虚勢を張るように背筋を伸ばして歩く。
その時、サクはふと気がついた。隣を歩くアサヒが、以前よりもわずかに小さくなっていることに。
サクは部屋のドアの前で立ち止まると、隣を向いた。自分の頭に右手を置き、その手をすーっと水平に移動させる。アサヒの頭上に、およそ五センチの空間があいていた。
アサヒはきょとんとした顔をして、目をぱちくりさせた。
「背くらべ?」
「俺の方が少し高い」
「そうだね。最初に会った時はほとんど同じくらいだったのに」
サクは若干優越感を得た気持ちで、ドアレバーを引いた。
「このままどんどん差が開いて、そのうちアサヒは俺を見上げるようになるかもしれない」
「うん……」
少し元気をなくした声に、サクはさらに優越感を得た気がした。
「牛乳ばかり飲んでる割には、全然成長してないよな。アサヒは」
部屋がしんと静まったあとで、サクは「しまった」と思った。慌てて振り向き、
「いや、今のは悪気があって言ったわけじゃ……」
アサヒは何も答えなかった。棚を開け、着替え一式を取り出すと、「シャワーを浴びてくる」と言って部屋を出ていった。
怒らせた……。いや、嫌われたかもしれない。傷つけてしまったかもしれない。
少し背が伸びた。たったそれだけのことで調子に乗ったばかりに。
後悔の念がサクの頭の中でぐるぐると渦巻いた。おかげで、刻み込んだはずのメロディーがどこかへ飛んでいってしまった。
「最悪だ」
そう呟いて、サクはパタンと棚の扉を閉じた。そのままとぼとぼと、アサヒが向かったのとは反対側にある男子用のシャワールームへ向かった。
再び部屋へ戻ると、アサヒはすでにベッドの中だった。
――最悪だ。
今度は心の中で呟いた。部屋に戻ったら、きちんと謝ろうと思っていた。それで許してもらえれば、安心して寝られると思っていた。だが、その希望は粉々に打ち砕かれてしまった。
サクは机に向かった。こんな気分では寝つけない。楽譜を見ながら、黙々と紙に描いた鍵盤の上で指を動かした。音階も音符の長さもちゃんと分かっている。しかし、メロディーは流れて来なかった。
「クソッ」
小さく呟く。紙の鍵盤を叩く指先に力が入る。ナルと名乗った少年の、嘲笑うような笑みが頭に浮かんだ。
また胃の底が熱くなった。苛立つ気持ちがグツグツと沸いた。だがそれは、ナルに対するものではなく、自分自身に対するものだった。
サクは手を止め、机の上に顔を伏せた。気持ちが落ち着き、頭が完全に冷えるまで待とうと思った。
「――サヒ」
ゆっくりとまぶたを開ける。紙の匂いがする。いつも使っていたノートの匂い。ページを破り、ピアノの鍵盤を描いた――。
サクはガバッと勢いよく顔を上げた。
朝だった。窓から差し込んだ光に目が眩む。
その時、背中からするりと何かが床に落ちた。確認しようと振り返って、サクは全身を硬直させた。
落ちた毛布のそばに、アサヒが立っていた。
アサヒは何も言わずにくるっとドアの方を向くと、そのまま部屋を出ていった。
サクは何の言葉も発することができなかった。昨日の失言に加えて、今日のこの失態で完全に嫌われた。そう思った。
半年のあいだで、少しずつ変わっていった関係。縮まった距離。
最初は目的のために仕方なく一緒にいた。名前を呼ぶことすら避けていた。
だんだん一緒にいることが当たり前になり、「アサヒ」と名前で呼ぶことにも、いつの間にか抵抗が無くなっていた。
当たり前だったこの関係が、こんなにも簡単に崩れてしまうなんて。距離が一瞬で遠くなるなんて。
謝ればそれで済むと思ったのが間違いだった。
やはり適度に距離を保ち続けなければならなかった。そうすれば、あんな調子に乗ったことは言わなかった。
好きになってはいけなかった。好きになってさえいなければ、今こうして喉の奥からこみ上げてくるものをせき止めることはなかった。
指先が震え出す。感情を抑え込むように拳をぐっと握りしめる。
謝らなければ。許してもらえなくても、完全に嫌われてしまったとしても、とにかく謝らなければ。
その時、ゆっくりとドアが開いた。
「はい。これ、飲んで。体冷えてるでしょ?」
そう言って、アサヒがマグカップを差し出した。サクはおもむろに手を伸ばした。
立ち込めた湯気が顔にかかる。渋い紅茶の香りがした。
「今度やったら、毛布でぐるぐる巻きのロールケーキにしちゃうからねって言ったよね」
アサヒは床から毛布を拾って広げた。サクは急いで頭を下げた。
「ごめん!」
「しょうがないなぁ……。反省してるみたいだし、今回は許してあげる。だけど次はないからね? 次やったら、毎晩寝る時にロールケーキにしちゃうから!」
「うん……。それだけじゃなくて、昨日のことも……」
アサヒは小首を傾げた。
「昨日のこと? ……って、何のこと?」
「え」
アサヒは本当に何のことだか分からない様子だった。
「なんだ、怒ったんじゃなかったのかよ」
「怒った?」
アサヒはまた小首を傾げた。
「覚えてないならいいよ。わざわざ思い出すようなことじゃないし」
サクは大きくため息をついた。本気で嫌われたと思い、焦って損をした。
しかしそれなら、あの態度は何だったのか。怒ったわけじゃないのなら、なぜあんな風に黙り込んだのか。……と思ったが、とにかくよかったという安堵の気持ちによって、疑問はかき消えた。
喉の渇きを感じ、サクはもらった紅茶を一口飲んだ。アサヒが手に持った袋を見せて言った。
「朝ごはんにしよっ。さっきついでに買ってきたの。焼きそばパンとコロッケパン、どっちがいい?」
「またその二種類か。アサヒが買ってきたんだから、アサヒが先に選べばいいよ」
「う〜ん。じゃあ、メロンパン!」
アサヒはそう言って、袋の中から丸いメロンパンを取り出した。
「何、その隠し球……」
「おまけにって、もらったの。おやつにと思ってたんだけど、やっぱり朝食べることにする! だから、サクは好きな方を選んでいいよっ」
そう言われ、サクは「じゃあ、コロッケパンで」と答えた。アサヒは袋からコロッケパンを出して言った。
「やっぱり、焼きそばパンもいる? お腹空くでしょ?」
「じゃあ、あとで食べる用にもらっとく」
「はい、どうぞ」
アサヒは焼きそばパンをサクに渡すと、その手をくるっと返した。
サクはすぐに財布を出して、アサヒの手のひらに硬貨を三枚載せた。
「まいどありー」
と、アサヒは売店の店員と同じ口調で言った。
手に持ったマグカップから温もりが伝わってくる。サクは安らいだ気持ちで、もう一度大きくため息をついた。
すると、突然頭にメロディーが流れてきた。
――迷える羊。
まるで自分のことのようだと思った。
過ぎたことや、どうしようもないことを延々と悩み続けている。
勝手な思い込みで不安になり、目的を見失いそうになっている。
自分はこんなにもちっぽけで、弱かったのか。
少し背が伸びたところで、少し筋肉がついたところで、強さを得られたわけではなかった。




