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魔法使ひは時計回りに旅をする  作者: 箱いりこ
第三章 西の大地が赤く色づく
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66話

 バス通りに面したブックカフェで軽く夕食をとった後、サクは二冊の本を購入した。

 一冊は『猿でもわかる楽譜の読み方』、もう一冊は『猫でも弾けるピアノ楽譜集 その1』だった。


 ペラペラと楽譜をめくりながら、街灯の灯る道を歩く。


「ひとまず一曲弾けるようになればいい。難易度は問わない……はずだ」


 確信は持てなかった。が、不安になるようなことは一切考えたくなかった。

 アサヒは元から不安など抱いていない様子だった。


「猫でも弾けるってあるから、きっと簡単だよ。だって、猫の手ってこんな感じでしょ?」


 そう言って、丸めた両手を見せた。サクは一拍置いて言った。


「ニャーって言ってみて」


「にゃあ?」


「……なるほど」


「なるほどって何が?」


 アサヒは不思議そうに小首を傾げた。


「猫にピアノは弾けない。今のでそれが分かった」


 アサヒはさらに首を傾げ、さらに眉間にしわを寄せた。

 サクは真剣な顔で、さらに楽譜をめくった。

 どの曲にするか……。聞いたことのある曲名。なんとなく浮かぶメロディー。しかし、どれもピンと来なかった。

 心の中でうーんと唸りながら、残り少ないページをめくる。


「あっ」


 突然、手が止まった。


「どうしたの?」


 サクは開いたページをアサヒに見せた。


「この曲にしようと思う」


「……迷える羊のロンド? 猫じゃなくて、羊なの?」


「猫だろうが羊だろうが、目的を達成できるなら何だっていいだろ」


「そうだけど。サクはこの曲、知ってるの?」


「いいや、知らない」


 アサヒは目をぱちくりさせた。サクは開いたページに再度目を向けて言った。


「他に聞いたことのある曲もあったけど、どれもピンと来なかったんだよ。この曲は……なんとなくこれだと思ったから」


 完全に直感で何かを選ぶなんて、自分にしては珍しいことだとサクは思った。

 だが、この判断は間違っていないと思った。


 ――迷える羊。


 その言葉には、強く惹きつけられるような何かを感じた。




 夜。アサヒが眠りについたあと、サクは机のライトをつけて本を開いた。

 猿でも分かるということは、分からなかったら猿以下なのかと、今さらタイトルに文句を垂れつつも、真剣に楽譜の読み方を勉強した。


 ――全音符……音の長さを表す基準となる音符……。


 まるで宿題だと思った。

 学校へ通っていた頃、音楽ははっきり言って苦手科目だった。興味もなく、学んだところで将来役に立つ見込みもない。だが苦手だった最大の理由は、父にあった。

 父は楽器を演奏できない癖に、なぜかよく楽譜を買ってきた。それを真剣な顔で読んでいたかと思えば、まぶたを閉じて体をゆらゆらと揺らしていた。

 不思議に思って、何をしているのかと尋ねると、父は「頭の中でピアノの演奏を聞いているんだよ」と答えた。

 まだ文字を習い始めた年頃のサクには、父の言葉の意味も、父が読んでいる五本の線に書かれたへんてこな文字の読み方も意味も、何も分からなかった。一度、何て書いてあるのか読んでほしいとねだったが、父は困った顔でボリボリと頭を掻いて、「うーん。むずかしいな」と呟いていた。

 そのうちに楽譜に対する興味は薄れ、父の言った「むずかしい」という言葉だけが頭に残った。


 とにかく、この苦手意識を取り払わなくては。そう思いながら、サクは集中して勉強を続けた。


 ……つもりが、いつの間にか眠ってしまっていた。


 小鳥のさえずりが聞こえる。

 サクは机に伏せていた顔をゆっくりと上げた。その拍子に、背中から暖かい毛布のようなものがするりと落ちた。

 あたりは昨日の昼間と同じくらい明るかった。

 時刻を確認しようと、近くの置時計に目を向ける。が、伏せて寝ていたせいか、ぼやけてよく見えなかった。

 すると突然、


「ニャー」と鳴き声がした。


「アサヒ?」


 サクはパチパチとまばたきをした。視界が明瞭になる。左を向くと、足元に昨日の猫がいた。


「なんだ、本物の猫か」


 なんだとはなんだとでも言うように、猫は短く「ニャッ」と鳴いた。

 アサヒが「おはよう」と言いながら近寄ってきた。サクは椅子に腰掛けたまま、「おはよう」と返した。


「さっき、わたしのこと呼んだ?」


 ドキッ。サクは動揺を隠すように、真顔で言った。

 

「空耳だよ、たぶん。……それより、なんでここに猫がいるんだよ」


「トイレに行こうと思ってドアを開けたら、入ってきちゃったの。この猫、ここで飼われてるのかな?」


「そうかもな」


 透き通ったエメラルドグリーンの瞳。オレンジがかった茶色の毛並みは、思わず撫でたくなるほど艶やかだった。

 サクは頭に手を伸ばした。その瞬間、猫は避けるように方向転換し、スタスタと部屋から出ていった。

 アサヒがドアの方を向いて、不思議そうに呟いた。


「あれ? どうしたんだろう? わたしにはあんなにスリスリしてきたのに」


「嫌味か」


 そう言って、サクは椅子から立ち上がった。


「悪いんだけど、着替えたいからちょっと外に出てくれない?」


「うん。……あっ、そうだ! ついでに下の売店で朝ごはん買ってこよっと。パンでいい?」


「うん。あとで代金渡すから、いくらだったか教えて」


「わかった」


 アサヒは棚からポシェットを取り出して肩にかけると、「行ってきます」と言って出ていった。


 ドアが閉ざされたあと、サクは椅子の背もたれに引っかかっていた薄い毛布を手に取った。

 端を持って広げる。その瞬間、鼻がピクッとした。手も固まった。

 ふわりと柔らかな香りがした。それは、いつも近くで感じている匂いと同じだった。

 引き寄せられるように顔を近づける。体がふわっと宙に浮き上がった。そんな感覚を得た直後、虚しさと自己嫌悪に襲われ、瞬く間に墜落した。


 こんなくだらないことをしている場合じゃない。サクは急いで毛布を畳むと、アサヒの椅子の上に置いた。

 服を着替え、床に両手をつく。腕立て伏せを二十回した。仰向けになり、腹筋を二十回した。

 立ち上がって、今度はスクワットをする。十三、十四、十五……ドアが開いた。


「ただいま! 牛乳とパン、買ってきたよっ」


「……おかえり」


 額に汗を滲ませているサクを見て、アサヒは小首を傾げた。


「運動でもしてたの?」


「まぁ、ちょっとだけ。体を温めようと思って」


 本当のところ、ここ一ヶ月のあいだですっかり日課になっていた朝の筋トレをしていただけだった。


「へぇ。……あっ! そういえば昨日、毛布もかけずに机で寝たでしょ」


 そう言って、アサヒは一歩サクに近寄った。サクはすっと視線を逸らした。その先に、畳んで置いた毛布があった。


「……毛布、ありがとう」と、小声で言う。


「まったくもう。かけた時にはもう朝だったし、そのあいだに風邪引いてたら意味ないんだから。次やったら、毛布でぐるぐる巻きのロールケーキにしちゃうからね」


「すみません。以後気をつけます」


 また風邪を引くわけにいかない。アサヒに迷惑をかけるだけでなく、貧弱な人間と断定されては困る。サクは気を引き締めた。


「それじゃ、朝ごはんにしよっ」


 そう言って、アサヒは手に持った袋入りのパンをサクの前に差し出した。


「焼きそばパンとコロッケパン、どっちがいい?」


「本当に学校みたいだな……」


 サクは呟きながら、焼きそばパンに手を伸ばした。



 午後五時を迎えた頃。外からピアノの音が聞こえてきた。

 サクは机に楽譜と鍵盤を描いた紙を広げたまま、立ち上がって窓に近寄った。


「昨日の人だ」と、そばでアサヒが呟いた。


「うん」


 中庭にひっそりと佇むピアノ。少年は、昨日とは全く異なる曲調の曲を演奏していた。優美で、ゆったりとした曲だった。

 なんとなく、少年自身も昨日とは別人のように見えた。

 髪と瞳の色は、黒と茶のあいだ。鼻は高くも低くもない。肌の色は白くも黒くもない。

 服装は無地の長袖Tシャツに、無地のズボン。

 正直なところ、印象に残りにくい容姿をしていた。


 他人のことを言えた義理ではないと思いつつ、サクはじっと少年を観察した。

 印象がはっきりしないせいで別人に見えるのか? 原因は謎だった。


 少年は同じ曲調の曲を、三曲続けて演奏した。

 音が止む。静寂のなか、アサヒが小さく手を叩いた。

 少年はこちらに気づくことなく椅子を降りると、昨日と同じく薄暗い部屋の中へと姿を消した。


「すごく上手だったね」と、アサヒが言った。


「素人だからそう思うだけで、プロが聞いたらそうでもないかもしれない」


 口から出た言葉が妬みに聞こえて、サクはすぐに続けた。


「というのは冗談で。……あんな風に弾くのは無理だけど、とにかく一曲弾けるようにならないと」


 練習を再開しようと、机に戻る。


「うんっ。頑張って!」


「他人事かよ」


「だって邪魔になると思ったから。サクがいいって言うなら、わたしも一緒に練習するけど」


 そう言って椅子を持ってこようとしたアサヒに、サクは慌てて「待った」と言った。


「やっぱり集中できないから、一人でさせて。どっちにしろあと少しだし」


「わかった。明日には弾けそう?」


「たぶん……」


 自信はなかった。楽譜の読み方は理解している。曲のテンポも音階も分かっている。しかし、いまいちメロディーが頭に流れてこなかった。

 こればかりは、実際に弾いてみなければ分からない。

 サクは再び楽譜に目を向けると、小さくため息をついた。




 翌日。午後四時になるのを待って、サクとアサヒはピアノが置かれている、中庭らしき場所へ向かった。

 演奏できる時間帯は、午後四時から午後六時。たったの二時間しかなかった。

 おまけに、もし今日もあの少年が来るのなら、五時には一旦切り上げなければならない。


 サクは部屋から持ち出した置時計を譜面台の横に置き、楽譜を開いた。

 昨日や一昨日と同じく、聴衆はいない。猫も今日はいなかった。

 右手にアサヒが立って言った。


「それではどうぞ」


「試験官かよ」


 サクはふぅとひと息ついてから、鍵盤に両手を置いた。

 頭の中でトン、トン、トンとリズムを打つ。

 鍵盤を押す。タン、ターン……たった二音で躓いた。

 仕切り直してもう一度。……今度は二小節目で指が迷子になった。そこまでの音も、全くリズムに乗っていない。

 ただ指を動かせばよいというものではなかった。鍵盤はそれなりに重く、しっかりと沈めなければ音が出ない。


「全然駄目だ……」


 肩を落とすサクの横で、アサヒが言った。


「大丈夫だよ。まだ始めたばかりなんだから」


「……そうだな」


 サクは再び両手を鍵盤の上に置いた。「猫でも弾ける」というのはもちろん嘘だが、この曲が初心者向けの曲であることは間違いなかった。

 右手で弾く主旋律はテンポが抑えられており、音階も複雑ではない。

 左手はさらに単純で、ずっと同じ動きをするだけ。


 しかし、全くの初心者には十分な難しさだった。

 あっという間に五十分が経過した。ぐちゃぐちゃのリズムで、六小節目まで。せいぜいこの程度だった。


「休憩」と言って、サクは椅子から立ち上がった。楽譜と置時計を手に持って、最初にここへ来た時に通った狭い道に入る。

 アサヒがヒソヒソ声で言った。


「あの人、今日も来るかな?」


「さぁな。もし来なかったら、練習を再開しよう」


 サクは古い建物の陰から様子をうかがった。

 しばらくして、薄暗い部屋の中から少年が出てきた。昨日一昨日と同様、手には何も持っていない。


「楽譜なしで弾けるのか……」


 サクは頬を引きつらせた。自分なんて、簡単な曲を一曲弾くだけで大苦戦しているというのに。


 少年はピアノの前に座ると、軽快なリズムで鍵盤を叩き始めた。

 その曲は誰もが知っている、ポップな映画音楽だった。

 またしても、少年に対する印象が揺らいだ。


「……ポップコーン・マシンガン」


 サクは思わず曲名を口にした。アサヒが小首を傾げた。


「サク、この曲知ってるの?」


「まさか、知らないの?」


「うん」


「嘘だろ。数年前に流行って、一時期はどこでも流れてたぞ。最近はあまり聞かなくなったけど」


「そうなんだ」


 アサヒはそう呟くと、再びピアノを演奏する少年に目を向けた。

 少年は続けて三曲演奏した。どれも数年前に流行した曲だった。


 演奏が終わりに近づく。

 突然、アサヒが「そうだ!」と言った。


「ねぇ。あの人に『迷える羊のロンド』を演奏してもらおうよ」


「なんで?」


「一度演奏を聞いたら、コツをつかめるかもしれないでしょ?」


「……けど、また逃げられるかもしれないだろ」


「その時はその時だよ。もし嫌そうにされたら、謝って立ち去る。ね? どう?」


「それなら、まぁ……」


 サクは小声で返答した。なんとなく乗り気ではなかった。が、アサヒの言う通り、メロディーさえ聞けばどうにかなりそうな気もした。


 ポンッと大きな音が響いた。演奏が止んだ。

 二人はゆっくりと少年の元へ歩み寄った。


「すごい! 上手!」


 アサヒはそう言って、パチパチと手を叩いた。

 少年は一瞬驚いた顔をしたあと、にこやかに笑って「ありがとう」と言った。

 その笑みに、サクはなぜか警戒心を抱いた。やはり昨日とも一昨日とも違う。本当は別人なのかと疑うほど、印象が異なっていた。

 アサヒも同じように感じているはずだが、逃げられなかったことに対する安堵の方が大きかったらしい。顔にあったわずかな緊張が解け、微笑を浮かべている。

 サクはさっさと本題に移ろうと、楽譜を見せて切り出した。


「あのさ。実は少しお願いがあって……この曲を弾いてほしいんだけど」


 少年は楽譜に目もくれず、きょとんとした顔で言った。


「なんで?」


「えっと」


 言葉を詰まらせたサクの代わりに、アサヒが答えた。


「そのピアノでこの曲を弾きたいの。でも、初心者だから上手く弾けなくって。一度お手本を見せてもらえたらと思ったんだけど」


「なるほどね。キミが弾くの?」


「ううん。わたしじゃなくて――」


 アサヒはサクに視線を送った。少年は口の端をわずかに上げ、目を細めた。


「ふうん。彼女の方だったら、手取り足取り教えてあげたのに」


「な」


 サクは絶句した。少年はふっと鼻で笑って、サクの手から楽譜を取った。


「あぁ、この曲か。猫でも弾けるくらい簡単な曲だな」


 苛立つ気持ちをぐっと抑え、サクは努めて冷静な声で「お願いします」と言った。


「いいよ。今日は金曜日だからね」


 そう言うと、少年はサクに楽譜を返した。椅子に座り直し、鍵盤に両手を添える。

 ポン、ポーンと軽やかな音が鳴り響いた。余裕げな表情を浮かべ、体をゆったりと揺らしながら少年は演奏した。

 こんなに明るい曲だったのか。サクは頭にメロディーを刻み込もうと、耳に意識を集中させた。

 しかし、演奏の中盤でふと気がついた。少年の左手が不規則に動いていることに。

 高度なアレンジが加えられていた。


 少年が両手を膝に下ろした。

 アサヒが「すごい!」と言いながら、本日二度目の拍手を送った。サクは声を絞り出すように「ありがとう」と言った。


「こんなのは朝飯前だよ。今は夕飯前だけど」


 上手いことを言ったとでも思ったのか、少年は口の片端だけを上げて、嫌味っぽく笑った。

 サクはこめかみをぴくりとさせた。

 アサヒが少年に尋ねた。


「昨日も一昨日もあなたのことを見かけたけど、毎日ここに来てピアノを弾いてるの?」


「日曜日以外はね。宿泊者じゃなくても弾いていいって言われたから」


「そうなんだ。とっても素敵な演奏だったから、また聞けたら嬉しいな」


「そんなこと言うと、隣の彼が嫉妬しちゃうよ?」


「え?」


 アサヒはきょとんとした顔をした。

 サクは苛立ちを噛み殺して、「そんなわけないだろ」と少年に言った。

 少年はまた嫌味っぽく笑った。


「ふうん。キミ、名前は?」


「……サクだけど」


 アサヒが間髪を入れずに、「わたしはアサヒ」と名乗った。


「僕はナル。それじゃ、またね」


 ナルは椅子から降りると、薄暗い部屋の中へ消えていった。

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