64話
やけにやさぐれた顔をしているなと思った。寝起きなのか腹が減っているのか分からないが、とにかく機嫌が悪そうだ。
……などと、冷静に熊の表情を分析している場合ではなかった。
熊は早朝と夕暮れ時に行動が活発になると本で読んだことがある。まさに今、その時間帯だった。
サクは冷や汗を流しながら、今度こそ魔法で何とかするしかないと思った。しかし、切迫したこの状況では、思うように頭が働かなかった。
とにかく逃げなければ。ゆっくりと後ずさる。
反対に、アサヒはサクの右腕から手を離し、ゆっくりと前へ進み出た。
サクは咄嗟に「アサヒ」と声をあげた――つもりだったが、口から出たのはただの空気だった。
アサヒは熊の前に立つと、落ち着いた口調で言った。
「わたしはあなたと争いたくはないの。だからお願い。ここから立ち去って。わたしたちもすぐにこの森を出ていくから」
すると……熊は前足を地面に下ろして、ゆっくりと方向転換した。そしてそのまま、のそのそとどこかへ去っていった。
アサヒは笑顔でサクに向き直った。
「よかった! 話が通じて」
「そんな馬鹿な……」
呆気に取られたままサクは呟いた。と同時に、緊張で固まった筋肉が一気に緩んだ。その反動で足がもつれ、尻もちをついた。
「大丈夫?」
駆け寄ってきたアサヒの顔を、サクは無言で見上げた。心配そうな瞳に、自分の情けない姿が映っているような気がした。
「早くこの森を抜けよう」
そう言いながら立ち上がり、早足で歩き出す。
なぜ毎度毎度こうなるのか。魔法を使えたって、肝心な時に役に立たなければ意味がない。
守られてばかりなのは嫌だった。守られるのではなく、守りたかった。別にいいところを見せたいというわけではなく、好かれたいわけでもなく、ただただそうしたかった。
しかし、現実は思い通りにいかない。どうすればもっと強くなれるだろうか。
――そうだ。筋トレしよう。
疲れた頭はまともに働いていなかった。
緑に囲まれたのどかな場所に、古めかしい石造りの家がぽつりぽつりと建っていた。
小さなこの村に、果たして宿があるだろうかと思いながら、サクは誰もいない道を歩いた。
――まぁ最悪、外にテントを張ればいいか。
アサヒが明かりの灯る一軒の民家に目を向けて言った。
「あの家の人に、このあたりに宿がないか聞いてみよっ」
「そうだな」
アサヒが民家のドアを叩いた。
「ごめんください!」
すると、中からすぐに「はぁーい」と明るい声がして、
「いらっしゃーい」
勢いよく開いたドアに、サクは驚いてびくりとした。目の前に立っている小太りの女性も、同じく驚いた顔をした。
「あら? どちら様?」
女性の背後から同じく中年の男性がやってきて言った。
「来たかマルク! ……って、誰だ?」
サクはなんとも気まずい思いをしながら言った。
「すみません。俺たち宿を探してて。ここら辺に泊まれる場所って……ないですか?」
「あら、ごめんなさい。てっきり友人が来たものと思ってしまって。……宿? この村には宿なんてないですよ」
「そうですか」
サクは肩を落とした。
またあの狭いテントで寝るのかと思うと憂鬱だった。
それに風呂にも入りたかった。一応昨日、川の水で体を拭いたが、それで十分とは言えなかった。
その時、家の奥で電話が鳴った。男性が踵を返した。
「――何? 昨夜から風邪を引いて来られないだと? なんでもっと早く言ってくれなかったんだ! ……まぁいい。ゆっくり休め。じゃあな」
ガチャッと電話を切る音がした。女性があからさまに気落ちした表情を浮かべた。
「どうやらメインディッシュは来ないようね」
サクは再びびくりとした。女性はハッとした顔をして、笑いながら手をひらひらさせた。
「あらやだ。メインディッシュって友人のことじゃないわよ。友人が持ってくる予定だったキノコのこと」
「キノコ……?」
「そう。近くの森に、この時期にしか採れない希少なキノコがあるのよ。猟師をやっている友人が毎年それを採ってきてくれるんだけど……。今年は残念ながら食べられそうにないわ」
サクはあっと思い、アサヒから没収した袋をカバンから取り出して女性に見せた。
「そのキノコって、これじゃない……ですよね?」
女性は袋の中を見るなり、血相を変えた。
「あ、あなたたち。どこでこれを? 特に……これ!」
女性は一番平凡な見た目をした茶色いキノコを手に持って、わなわなと震えた。
「どうしたんだ?」
と、奥から男性が戻ってきて言った。男性は女性が手に持っているキノコを目にして、口をぱくぱくさせた。
「そ、それは幻の……シリオストロ・イッシュボン・タロストブルック・ケイティー!!」
「へ?」
「君たち知らないのか? このキノコは百グラム――」
「しっ!」
女性が男性の口を押さえた。
「さて、と。あなたたち、是非うちに泊まっていきなさいな。何も心配はいらないわ。食事も風呂も寝床も用意してあげるから」
女性はキノコの入った袋を大事そうに抱えて、「さぁさぁ」と手招きした。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
サクはアサヒと顔を見合わせてから、靴のまま家に上がった。
ダイニングに入ると、すでにディナーと思しき料理がテーブルに並べられていた。
「どうぞ適当に座って。なんだったら先に食べてくれてもいいわ。私はこのキノコをオーブンで焼いてくるから」
差し上げますと言った覚えはなかったが、まぁいいかと思った。キノコを渡す代わりに泊めてもらえるのだということは、理解していた。
サクが席につくと、隣に座ったアサヒが囁くように言った。
「言ったでしょ? 正真正銘食べられるキノコだって」
「疑ってすみませんでした。だけど、あの場で食べなくてよかっただろ? 俺が没収してなかったら、泊めてもらえなかったかもしれないんだから」
アサヒは不満げに口をとがらせた。
「わたしがキノコを採ったおかげなのに」
「そうだな。キノコ様様だな」
「キノコじゃなくて、わたし!」
「名前も知らなかったくせに。もう一度聞くけど、あの茶色いキノコの名前は?」
「えっと……シ……シイタケ……」
「ブー。椎茸ではありません」
中年の男性がワインボトルを持ってきて言った。
「いや、シイタケで合ってるよ。シリオストロ・イッシュボン・タロストブルック・ケイティー。略してシ・イ・タ・ケさ」
「え……」
サクは絶句した。隣でアサヒが勝ち誇ったように顎をくいっと上げた。
男性は赤ワインをグラスに注いだ。
「シイタケって言うと、別の地域では違うキノコを指すみたいだな。まぁ、紛らわしいだろうけど、あれだって正真正銘シイタケなのさ。……君たちも飲むかい?」
サクとアサヒは首を横に振った。
「いえ。お酒はいりません」
「わたしもいいです」
「そうかね。まぁ、いいさ。君たちの分も私が飲むからな」
男性は愉快そうにガハハと笑った。
しばらくして、奥の方から香ばしい匂いが漂ってきた。女性がミトンをはめた手で長方形の皿を持って、やってきた。
「さぁ、食べるわよ。幻のシイタケを!」
サクはごくりと唾を飲んだ。
夜になって、サクとアサヒは使っていない寝室に案内された。そこは、進学のために家を出た、夫妻の一人息子が使っていた部屋だった。
当然、部屋にベッドは一つしかなかった。
この家に住む中年の夫妻は、サクとアサヒに名前や年齢、どこから来たのか等といった質問をしたが、関係性については問わなかった。
わざわざ訊くようなことではないと思ったのかもしれない。仮にこちらから夫婦でも恋人でもないと言ったところで、むしろ困惑させるだけだったろう。
こうした状況にも慣れなければと思った。一緒に旅をする以上、度々同じ空間で寝ることになるのは仕方のないことだった。
サクはカバンを床に下ろして言った。
「俺は床で寝るから、アサヒがベッドでいいよ」
アサヒは首を傾げた。
「どうしてベッドがあるのに、床で寝るの?」
「どうしてって……」
サクは目の前のベッドを見た。一人用にしては大きい。二人用にしてはやや小さい。
――よりによって、なんでこんな半端なサイズなんだ……。
今朝も昨日も一昨日も、テントで目を覚ますと肩や腕が当たっていた。あの狭いテントでは離れようとしたって無理だった。
もしこのベッドで一緒に寝れば、四日連続で同じことになる。
「とにかくもう寝るから。おやすみ」
サクはタオルを床に敷いて言った。
「だめ」
アサヒがそう言って、サクが敷いたタオルを取り上げた。
「何で?」
「硬い床の上で寝たら背中が痛くなるって、前にも文句言ってたでしょ。だから、わたしが床で寝る。わたしは全然平気だし。サクはベッドを使って。それでいいでしょ?」
「……いや、よくない」
サクは床に置いたカバンの中からロープを取り出した。綿の入った掛け布団を横にどかし、縦に二分割するように、ベッドの真ん中に伸ばして置く。
「右が俺。左がアサヒ。はみ出したら、罰金五百エルンな」
「罰金五百エルン……。わかった。絶対にはみ出さないように、両手両足をピシッと揃えて寝る」
「怖いから普通に寝てくれない?」
サクはベッドに横たわった。アサヒとの距離はおよそ二十センチ。昨夜よりも開いている。
だが、心臓を掴まれているような胸苦しさは変わらなかった。
布団がずれないように手で押さえながら、横を向く。胸に溜まった空気をゆっくりと吐き出す。
――なんで好きになってしまったんだろう……。
こんな感情はない方がいい。あっても邪魔なだけだ。
いっそのこと、消えてくれたら。
そんな思いを抱きながら、サクは押し寄せてくる眠気の波に飲まれた。
朝目覚めると、隣で眠っているはずのアサヒがいなかった。
「アサヒ?」
ふと、昨夜思った言葉が頭に鳴り響いた。――いっそのこと、消えてくれたら。
その願いが間違って叶えられてしまったのではないかと思った。
――まさか、布団に魔法を……。
あの時、誤って布団にアサヒを消し去る魔法をかけてしまったのではないか。咄嗟にそんな考えが浮かんだ。
「違う。消えてほしかったのは気持ちで、アサヒじゃない」
起き上がって、布団をめくる。温もりが残っていないか触れて確かめる。が、よく分からなかった。
不安な気持ちに囚われたまま、ベッドの左側に顔を近づけて匂いを嗅ぐ。なぜそうしたのかは、よく分からなかった。
その時、部屋のドアが開いた。
「何……してるの?」
アサヒが強張った表情で言った。
サクはふっと我に返った。起床してからの一連の思考と行動を思い返す。
きっと昨日食べた幻のシイタケのせいだ。あれのせいで、頭がおかしくなっていたに違いない。
アサヒは真っ直ぐサクの元へ歩み寄った。サクはビクッと肩を震わせた。
「……あの、ね。さっき下で、おばさんに協力してもらってお昼に食べるお弁当を作ったの。……だから、罰金は免除してください」
「罰金?」
思いがけない言葉に、サクはぽかんとした。アサヒは目をぱちくりさせた。
「わたしがロープをはみ出した証拠を探してたんじゃないの?」
「え?」
「わざとじゃないの。そんなつもりなかったのに、気づいたらサクの背中に体が……」
想像した途端、耳の先まで赤くなったのが感覚として分かった。
それを誤魔化すように、サクは慌てて言葉を口にした。
「罰金ってあれ、冗談だから」
「冗談? それなら、どうして証拠を探してたの?」
「証拠なんて探してない」
「それじゃあ、さっきは何をしてたの?」
「え……」
サクは表情を硬直させた。アサヒはしばらくサクをじっと見つめたあと、「あっ」と声を出した。口元に手を当てて、ひそひそ声で言う。
「もしかして……おねしょ?」
「するか馬鹿」
出発の支度を済ませたサクとアサヒは、夫妻に、村からニ十キロ離れた町にある駅まで車で送ってもらった。
礼を言って夫妻と別れ、切符を買って列車に乗る。
サクは座席に座ると、左腕の時計を見た。針は「11」と「12」のあいだを指している。
列車で向かう先が、目的地であるという保証はない。が、とにかく進むしかなかった。
顔を上げて隣を見ると、アサヒが三つ編みを編んでいた。
「早速寝る気?」
「ううん。急に眠くなった時のために、こうしただけ」
サクは呟くように言った。
「寝るのはいいけど、俺に寄りかかるなよ」
「大丈夫! 左側の窓に寄りかかるようにするから!」
そう言って、アサヒは顎をくいっと上げた。
昼になり、今朝アサヒが作った弁当を二人で食べた。それから少し経って、アサヒは予想通りこくりこくりと頭を揺らし始めた。
そしていつもの無防備な寝顔を晒して、左側の窓――ではなく、サクの肩に寄りかかった。
「なんでだよ……」
そう呟きつつも、なんとも言えない感情が湧いてきた。
髪の匂いに鼻先をくすぐられながら、サクは無意識にアサヒの寝顔を見つめた。
白く透き通った頬に、ほんのりと血色が浮かんでいる。思わず手が伸び、指先でそっと触れた。
その瞬間、夢から覚めたように我に返った。
キノコだ。弁当に入っていた、白いキノコと黒いキノコのせいに違いない。
……そんな言い訳は無意味だった。
消そうとしても消せない。止めようとしても止められない。
どうしようもない感情は、ガタンゴトンと揺れながら線路の上を走り続けた。




