63話
右手に川が流れていた。その岸から少し離れた道なき道――草原を、サクは急ぎ足で歩き始めた。
およそ八十メートル前方。約束通り、アサヒがこちらに背中を向けて立っている。
遮る物のない砂漠や草原で用を足すには、十分に距離をとる必要があった。
サクは静かにアサヒの隣に立つと、遥か彼方の地平線をじっと見つめた。
まだまだ先は長い。村にたどり着くまで、あと三日はかかるだろう。
「ここらで一泊するか」
脚の筋力がそろそろ限界を迎えそうなのを感じて、サクはアサヒに提案した。
「そうだね。さっそく準備しよっ」
アサヒはそう言うと、背中からリュックを下ろしてテントを取り出した。それを二人で協力して組み立てる。
このテントはアステールを出発する前日に購入した物だった。持ち運びに適したサイズや重さ、そして何より価格を重視した。
そのため、完成したテントは生地がペラペラで、一瞬でも強い風が吹けば壊れそうに思えた。
――まぁ、無いよりはマシか……。
「この調子で、もう一つのテントも組み立てよう」
アサヒは小首を傾げた。
「もう一つって?」
「え」
サクは再び、設営したばかりのテントに目を向けた。ギリギリ二人入れる程度の大きさ……。
「なんで二人用なんだよ! 一人用を二つ買ったはずだろ?」
「う〜ん。組み立ててるうちに合体しちゃったのかも!」
「嘘つくなら、もっとマシな嘘をつけ」
サクはアサヒをじっと睨んだ。アサヒは口を尖らせて言った。
「だって、一人用二つよりも二人用一つの方が軽いし安いんだよ? それにあの時サク、言ってたよね? もし、外で一夜過ごすことになったとしても、絶対に俺から離れるなよって」
「あれは……」
サクは一瞬たじろいだ。負けじと反論する。
「離れるなとは言ったけど、くっつけとは言ってない。半径三メートル以内にいれば十分だし、テントは一人用を横に並べれば問題なく……」
鋭い視線に、語尾がどこかへ逃げていった。
「半径三メートル以内って、その根拠は?」
ぐうの音も出なかった。どうせ同じテントで寝ることは確定している。これ以上不毛な言い争いをするのは時間の無駄だ。
はぁ……とサクはため息をついた。
「分かったよ。だけど、くっつくなよ。あと、俺より先に起きるな」
「どうして?」
「それは……」
再びたじろぐ。とっさに嘘の理由を言おうとしたが、何も思いつかなかった。と、その時。
「あーっ! わかった!」
アサヒが大声を出した。
ドキッ。サクの心臓は大きく跳ねた。
「先に起きて、わたしの顔に落書きするつもりなんだ!」
「……するわけないだろ。ガキじゃあるまいし」
アサヒはじっと訝しむような目でサクを見た。
サクは「あぁ、腹減った」と言いながら膝を屈めて、地面に置いていたカバンを開けた。カバンの中には、食料――主に缶詰が入っていた。
「待って。今日の夜ごはんは違うものにしようよ」
「違うもの……って、まさか」
サクはアサヒの考えを見通して、川の方を向いた。
「うんっ。手で捕まえるくらい、どうってことないんだから」
アサヒはそう言うと、すぐさま川に向かっていった。サクも立ち上がってあとを追った。
清らかな水の中を、体長二十センチほどの魚が気持ちよさげに泳いでいる。
水深は浅く、最も深いところでも膝が浸かる程度と目測したが、それでもこのまま入れば服が濡れることは間違いなかった。
「魚を捕るのはいいけど、びしょ濡れになるぞ」
サクはそう言いながら、首を横へ動かした。
靴を脱いで裸足になったアサヒが、両腕を交差させてワンピースの裾を持った。その手をそのまま上へ持っていき――。
「脱ぐな!」
咄嗟に叫んだサクの声に、アサヒは驚いた様子で手を止めた。
白くて華奢な太ももが露わになっている。あと少しで下着が見えそうだった。
サクはすっと目線を上げて言った。
「すぐに両手を離せ。さもなくば……寝顔に落書きをする」
アサヒはパッと両手を離した。ワンピースの裾がはらりと落ちた。
サクは「はぁ〜」と、大仰にため息をついた。
「あのさ。前にも言ったと思うけど、恥ずかしいと思わないの?」
「恥ずかしい? 下着を見られるのが恥ずかしいってこと?」
「……そう」
「それなら大丈夫! 裸じゃないから!」
「どういう理屈なんだよ。この際だから言っておくけど、普通は人に見られると恥ずかしいものなんだよ。特に男には」
アサヒはまだピンと来ていない様子で、目をぱちくりさせた。
サクは苛立って言った。
「もし裸だったら恥ずかしいんだろ? 俺の裸を見ても恥ずかしいんだろ? それはなんでだ。俺が男だからだろ。
男に下着を見せるってことは、裸を想像してくださいって言ってるようなものなんだよ。つまり裸を見せてるのと変わらないってことだ」
――あれ? 何言ってんだ、俺。
アサヒは急激に顔を赤くした。その表情を見て、サクもみるみる赤くなった。
「……わかった。サクの前では絶対に服を脱がない」
アサヒはうつむきながら、小声で呟いた。
サクはさっと膝を屈めて、少し冷たい川の水に両手を突っ込んだ。本当は飛び込みたい気持ちだったが、ぐっと堪えた。
「やっと分かったか。というか、俺に限定するなよ。さっきのは一般論だからな」
「でも先生は、わたしが目の前で着替えても何も言わなかったし、恥ずかしそうにもしてなかったよ? むしろ真面目な顔をしてた」
「えっ……」
サクは顔を引きつらせた。父とアサヒがそういった関係でないことは確かだが、ならば父はどういう気持ちでアサヒの下着姿を見ていたのか。それも真面目な顔で。
――あのムッツリめ。
そうとしか考えられなかった。
妙な怒りが湧き上がってくるのを抑え込むように、サクは勢いよく立ち上がった。膝の上にあるあざが見えないよう、ズボンをギリギリまでまくり上げる。
「俺が魚を捕るから、そのあいだにアサヒは火を起こしといて」
「うんっ」
サクは靴を脱いで川に入った。ツルツル滑る魚を必死に掴んで、河原の石の上に置く。魚はピチピチと跳ねた。その向こうで、うっすらと煙が上がっていた。
一人三匹。計六匹の焼き魚が今晩のメニューだった。
砂漠の夜と同様、草原の夜は少し肌寒かった。
サクはカバンの中から薄いグレーのジャンパーを出して羽織った。
草原に寝転んで、空を見上げる。
地上には、持っていたライトの他に明かりと呼べるものはなく、これ以上ないほどに美しい星空が広がっていた。
「賑やかだね。ここよりもずっと」
アサヒが呟きながら歩み寄ってきた。
「そうだな。こっちは真っ暗で、俺たち以外には誰もいないし……。まるで世界に取り残されたみたいだ」
「うん……」
隣でしゃがんだアサヒに、サクは警戒心を抱いて上体を起こした。
「そういや、昼間のあれはなんだったんだよ」
「あれって?」
「雷の時の」
「あぁ! ちゃんと防げたでしょ?」
「あれは防いだんじゃなくて、たまたま運よく通り過ぎただけだろ。あの時は何度も『大丈夫』って言うから信じたけど、どうせ根拠のないテキトー発言だったんだろ」
アサヒは神妙な顔をした。
「わたしはただ、サクを守りたくて……」
「あのなぁ。仮に直撃しなくても、あの体勢じゃ地面を流れる電流で感電してたかもしれないだろ。というか、直撃する危険がまず高かったんだけど。もし直撃してたら、二人とも怪我では済まなかっただろうな。
それに……俺だけ助かっても意味がないんだよ。俺たちは時計の針が指す方に、二人で行かないといけない。それが父さんの思惑なら、その通りに行動しないと意味がない。どっちかが欠けたら駄目なんだよ」
サクは真っ直ぐアサヒを見た。
「……だからもう、無茶なことはするなよ」
アサヒは小声で「うん」と返答した。サクは片膝を立てて、立ち上がった。
「そろそろ寝よう。体力を回復させないと、明日の移動に支障が出る」
「そうだね」
アサヒは三つ編みを編み、青い花の髪飾りで先を留めた。
サクはなんとなく尋ねた。
「今更だけど、なんでいつも寝る時だけその髪型なの?」
「だって、頭の横とか後ろにつけてると寝られないでしょ?」
「外せばいいだろ?」
「それは嫌。大事な物だから、身に着けていたいの」
「へぇ……」
誰かからのプレゼントなのだろうか。父か、それとも別の誰かか。
もし父からもらった物ならば、はっきりとそう言うはずだ。
アサヒは以前、「会いたい人がいる」と言っていた。最初、時計の針が指す方へ行けばその人に会えるかもしれないとも言っていた。
今まで針が指したのは、絵、眼鏡、棺。それらが見せた幻影に、それらしき人物は現れていない。
会いたい人とは一体誰なのか。どのような人物なのか。アサヒがいつも身に着けている髪飾りは、その人にもらった物なのだろうか……。
訊きたいことは山ほど頭に浮かんだ。しかし口は頑なに動かなかった。
テントの中はあまりにも狭かった。
隣で寝ているアサヒとの距離は、わずか三センチほど。かすかに体温を感じる。
――眠れない。
サクはなかなか寝つけず、そのうちに尿意を感じた。
すぅすぅと寝息を立てているアサヒを起こさぬよう、そっとテントの外へ出る。その場から少し離れたところで用を足した。
この妙な開放感にはすっかり慣れた。だが、病みつきになるようなことはなかった。
テントへ戻り、再びアサヒの隣で仰向けになる。
肩や手が触れるのを避けようとすると、体が強張って眠れない。いっそのこと触れてしまおうかと思った。気づかれないように、そっと……。
――何を考えてるんだ。
サクはアサヒに背中を向け、まぶたを固く閉じた。
少し息がしづらいような、胸苦しさを感じる。
その原因ははっきりと分かっていた。分かってはいたが、どうすることもできなかった。
昼間自覚したこの気持ちは、隠し通さなければならない。せめて、目的を達成するまでは。
三日経って、サクとアサヒはようやく森の入口に辿り着いた。
地図によれば、この森を抜けた先に小さな村があるはずだ。
「あと少し」
そう呟いて、サクは薄暗い森の中へと足を踏み入れた。
わずかに黄色く色づいた葉がざわめいている。地を這うように伸びる細い枝に、時折足を取られそうになりながら森の中を進む。
サクは立ち止まって、左腕につけた時計を確認した。
この時計があって本当によかったと思った。
時計の針を見ていれば、方位磁針を見ているかのように方角が分かった。おかげで、草木の生い茂る道なき森を迷うことなく進めた。
「そろそろ昼時か……」
サクは少し開けた明るい場所に着くと、太陽を見上げて呟いた。振り返り、アサヒに言う。
「ここらで一旦休憩にしよう」
「そうだね」
そう返答したアサヒは、いつの間にやら手に謎の袋を持っていた。
「何それ?」
「キノコだよ! 歩いてる最中に採ったの。あとで食べようと思って」
「いつの間に……。というかそれ、毒キノコだろ」
「違うよ! 正真正銘、食べられるキノコ!」
「本当か? それなら、ちゃんと名前分かるんだな?」
「も、もちろん」
青い瞳が泳いだ。
サクはアサヒの手から袋を取ると、一種類ずつキノコを取り出した。
「これは?」
「えっと。白くて柔らかいから、マッシロプニプニタケ」
「……これは?」
「黒くて硬いから、マックロカチカチタケ」
「……じゃあ、これは?」
「茶色くてほどほどの硬さだから、えっと……なんて名前だっ……タケ」
「はい、没収。名前も分からないキノコを食べられるわけがないだろ。もし毒キノコだったらどうするんだよ」
アサヒは頬を膨らませた。
「先生は食べてくれたのに。むしろ節約のために、キノコを採って食べようって言ってたくらいなのに!」
「節約のためって、いくらなんでも……。というか、父さんは食べられるキノコとそうじゃないキノコを見分けることができたから、食べられたんだよ。俺には無理」
サクは肩からカバンを下ろしながら呟いた。
「あと、あまり父さんのことを口に出すなよ」
「……ごめんなさい。先生のこと、思い出したくない時もあるよね」
別にそういう意味で言ったわけじゃ――と言いかけて、サクは口をつぐんだ。
カバンの中からサバの缶詰とイワシの缶詰を取り出す。
「ほら。安心安全の缶詰に勝るものはない」
「あっ! そういえばさっき、コオロギを見かけたよっ」
「……サバイバルっぽくするのやめてくれない?」
「サバイバル?」
アサヒはとぼけた顔で首を傾げた。
休憩を終えると、再び木立の中を歩いた。陽が傾き、徐々に暗くなっていく。
サクは無言のまま、ひたすら歩くことだけに集中していた。
おもりをつけているかのように、ふくらはぎが重い。太ももの筋肉も、そろそろ限界だと訴えている。
もうすぐこの森を抜けられるはずだ。自分の足に言い聞かせるように、心の中で「あと少し」と唱えた。
と、その時。どこからか「グオォォォ」という音が聞こえた。
「何だ?」
立ち止まって呟いた直後、右腕をぐっと掴まれた。驚いて隣を見る。
アサヒは真剣な目をしていた。その視線は一直線にどこかへ向けられていた。
サクはアサヒの視線をたどった。
そこにいたのは、二本足で立つ、黒く大きな――熊だった。




