59話
エマに留守番を頼まれて、三日目。
サクは早朝に目を覚まし、テーブルに突っ伏して二度寝をしていた。
トントンと肩を叩かれる。寝ぼけたまま、頭を上げる。と、
スポッ。
頭の上から何かが体に被せられた。ゆっくりと自分の上半身を見下ろす。
「なんだこれ」
それはビニール袋だった。中央に穴があけられていて、そこから頭だけが出た格好になっている。
シャキン。シャキン。背後から金属の擦れる音がした。おそるおそる後ろを振り返る。
三つ編み姿のアサヒがハサミを片手に、にこっと笑って言った。
「さて、罰ゲームのお時間です」
「罰ゲームって……何する気だよ」
「サクの髪を切るの! 暑そうにしてたから、わたしが切ってあげる!」
「は? い、いや、いいよ。それなら今日床屋に行くから」
「安心して。先生には上手って褒められたから」
サクはぴたっと動作を止めた。
「……父さんの髪、切ったことあるの?」
「うん」
「あのもじゃもじゃ頭を?」
「もじゃもじゃって言うほど、もじゃもじゃじゃなかったような。ちょいもじゃ? ちょいちょいもじゃ?」
「いや、もじゃもじゃ度合いはどうでもいいから。それより、なんで父さんの髪を切ることになったんだよ」
「邪魔だから切ってほしいって言われて。お金がもったいないから、床屋には行きたくないんだって言ってた」
サクは黙りこくった。父は自ら頼んでアサヒに髪を切ってもらった。ただ床屋代がもったいないという理由だけで。
その時と同様、これは大したことではない。第一罰ゲームなのだから、受け入れるしかない。
いや、待て。待て待て待て。
これは大したことではないのではないのではないか。
というか、そもそもなんでこれが罰ゲームなんだ。罰ゲームの意味、ちゃんと分かってるのか?
と、大混乱に陥ったサクの肩をアサヒが掴んだ。
「それじゃあ切るから、ちゃんと前を向いてっ」
「ちょっ」
ジョキッ。強制的に前を向かされた直後、間髪を入れずにハサミが入った。
サクは観念して、時間が過ぎるのを待った。そのあいだずっと、心臓がドクドクと鳴っていた。この音がアサヒに聞こえているのではないかと、気を揉んだ。
別のことを考えて気を紛らわそう。そう思って頭に浮かんだのは、昨夜読んだゼニス王の自叙伝だった。
――早く終わってくれ。
これは本当に罰ゲームなのか。いや、間違いなく罰ゲームだった。
「できた! どう? すっきりした?」
解放されたサクは、アサヒに気づかれないようにゆっくりと深呼吸した。
首の後ろに手をやる。襟足が短くなっている。心なしか、涼しくなったように感じた。
椅子から立ち上がってビニール袋を外し、壁に掛けられた鏡の前に立つ。
「本当だ。上手い」
前髪も、側頭部も後頭部も、バランスよくカットされていた。
アサヒは顎をくいっと上げた。
「そうでしょ? 伸びたらまた切ってあげる!」
「いや、いいよ」
「どうして? わたしが切れば、お金が浮くのに」
「結局金かよ」
サクはため息をつくと、床に落ちた髪を自らほうきで集めた。
「……アサヒは?」
「え?」
「髪、切らないの?」
軽い気持ちで尋ねた。しかし、返事はすぐに返ってこなかった。少し間を置いて、
「切らないよ」
アサヒは真顔でそう呟くと、三つ編みの先についていた、青い花の髪飾りを外した。
ウェーブがかった金髪がふわっと広がる。長い髪を後ろで一つにまとめて、再び髪飾りを留める。と、にこっと微笑んだ。
「これで暑苦しく見えないでしょ?」
「うん。まぁ……」
サクはアサヒの態度を不思議に思いながら、呟くように言った。
「似合ってるよ。長い髪に、その髪飾り」
「え?」
「あー、今のは無し、じゃなくて――」
「ありがとう」
アサヒは満開に咲いた花のような笑顔を見せた。
サクはしばらく硬直し、慌ててトイレへ駆け込んだ。
用を足しながら、サクは思案した。今日を合わせて残り十二日。
地下という閉鎖的な空間は、人間が生活するのに適さない。早く外へ出なければ、精神が崩壊してしまう。
――せめて別々の部屋で過ごせれば……あ。
サクは朝食の最中、アサヒに提案した。
「あの人に言われた通り、このフロアの部屋を片づけよう。どこか一部屋でも使えるようにすれば、俺たちは別々の部屋で残りの日々を過ごせる。
食事の時は一緒でいいけど、風呂とか着替える時とか、寝る時とかは別々の方がいいだろ?」
アサヒはパチパチとまばたきした。
「わたしは寝る時も一緒で大丈夫だよ? お風呂は覗かれなければ問題ないし、朝着替える時は裸じゃないから問題ないよ。一応最初に約束した通り、ちゃんと脱衣所で着替えるようにしてるけど」
「どこが問題ないんだよ。問題大ありだろ。……とにかくこれは、今後のためでもある。
山積みにされている物は処分して構わないとあの人は言っていた。それってつまり、ここにある物を売って金にしても構わないってことだろ?」
サクがそう言った瞬間、アサヒはハッとした顔をした。
「資金調達……!」
「正解。金になりそうな物は売って、ついでに部屋を掃除しよう」
サクとアサヒは一番価値の高い物がありそうな「4」の部屋へ向かった。
「あまり目立つ物は避けて、運び出しやすい物だけ集めよう」
「うん。壊れてる物はわたしが直すから、こっちに置いて」
「分かった」
サクは軍手をはめると、山のように積まれた物を仕分けし始めた。
価値のありそうな物。壊れているが、直せば売れそうな物。ただのゴミ。
この部屋に置かれていたのはほとんどが絵画や彫刻といった美術品、ランプや花瓶といった調度品や工芸品、そして宝石類だった。
入口近くにある棚の半分開いた状態の引き出しから、サクはネックレスを手に取った。
「いやいや……いくらなんでもこれは駄目だろ」
大粒のダイヤモンドが散りばめられたそのネックレスを、サクは引き出しの奥に戻した。
焼失した宮殿に残された王家の財産は、ほとんどが売り払われたか、博物館や美術館に寄贈されたという。
ということは、ここにある物は元々あった王家の財産ではなく、全てエマの私物ということになる。
元王族であるエマには、ここで不自由なく生活できるだけの金が与えられていたはずだ。しかし、これほど高価な物を買えるだけの金額が出されていたとは思えない。
貢ぎ物……なのだろうと思った。
多くの男から金品を受け取り、関係を持っていたのだろう。その中に、自分の本当の父親がいる。ということは理解していたが、他人事のようにどうでもよかった。
「なんだか、宝探ししてるみたいだね」とアサヒが言った。
「宝探し? そこらじゅう宝だらけだろ」
「そっか。じゃあ……空き巣みたい!」
「違う」
サクとアサヒは半日かけて、物を仕分けした。
ひびの入った陶器や傷のある宝飾品等は、全てアサヒが右手で直した。それだけの数の物を魔法で直しても、アサヒの顔や手足にあざは現れなかった。
以前、タオル一枚だけの姿を偶然うっかり目撃してしまった時にも、あざはどこにも見当たらなかった。
やはり、アサヒには自分や父のような「代償」は無いのだと、サクは確信した。
「これで最後……っと」
そう言って、アサヒは右手に持った置物を床の上に置いた。
「なんだそれ」
「何って……幻の鹿?」
それは両手ですっぽりと包み込める大きさの鹿の置物だった。だが、ただの鹿ではない。背に翼を生やした、黄金の牡鹿だった。
サクはその置物を手に取って、あちこち観察した。すると、木製の台座の裏にサインらしきものが書かれているのを見つけた。
「カビト……ラン? 誰だよ」
「かの有名な芸術家、カビトルさんじゃないの?」
「違う。たぶん大した価値なんてない。これはゴミ」
「えー、せっかく直したのに。……もったいないから、飾っとこ」
そう言って、アサヒは入口付近の棚に置物を置いた。
サクは膝についた埃を払いながら、立ち上がった。
「今から行っても、ちょうど店が閉まる頃だろうし、売りに行くのは明日にしよう。にしてもこの数じゃ、全部売るのに五日はかかるな……」
「そうだね。一度にたくさん同じお店に持っていったら、不審に思われるだろうし。だけど、大丈夫だよ。時間はまだたくさんあるんだから!」
ゲホッと咳をして、サクは「4」の部屋を出た。この埃まみれの部屋で寝られるようになるのは、もう少し先だろうと思った。
――あと数日の辛抱だ。
翌日。サクとアサヒはカバンや買い物袋に入れた数点の宝飾品を持って、商店街の裏手にある質屋に赴いた。ところが、
「年齢を確認させていただきますので、身分証明書を見せてください」
店員のその一言で、予定は全てストップした。サクもアサヒも、身分証明書を持っていなかった。
忘れましたと告げると、店員は眉をひそめながら、「では身分証明書をお持ちになって、再度ご来店を」と言った。
これまで年齢確認のために、身分証明書の提示を求められたことはなかった。だから簡単に年齢を誤魔化せた。しかしそれは、たまたま運がよかったというだけかもしれない。
「昨日の苦労が水の泡だ……」
サクは日陰の道を歩きながら、うなだれた。
数件店を回ってみたが、どこも同じく身分証明書の提示を求められた。
これで、物を売って資金にする計画は完全に潰えた。
おまけにエマが帰ってくるまで別々の部屋で過ごすという計画も白紙に戻った。
山のように物が置かれたままでは、掃除はできない。一旦外のホールに出せばよいが、相当な手間がかかる。一人では到底無理だ。アサヒの協力が必要だが、資金調達に失敗した今、上手く事を進めるための理由が見つからなかった。
アサヒはきっぱりと諦めた様子で、陽の差す方へぐんぐん歩いて言った。
「仕方がないよ。お金がないわけじゃないんだし、資金調達のことは忘れて、別のことをしよっ!」
「……別のことって?」
「う〜ん。節約しなきゃいけないから、遊ぶにしても、お金がかからないことじゃないと……。腕相撲とか!」
「やらない」
「どうして? また負けるから?」
「あの時は集中力を欠いてただけで、普段なら絶対俺の方が強い」
「じゃあ、確かめてみようよっ。本当はどっちが強いか」
「だからやら――」
その時、サクはぽんっと閃いた。
「分かったよ。やるよ。ただし俺が勝ったら、罰ゲームとして、あの部屋の掃除に付き合ってもらうからな。
せっかく途中まで片づけたのに、中途半端なままは嫌なんだよ。元清掃員として、あの部屋だけは何としてもキレイにしないと」
「それって罰ゲームなの?」
「いいだろ、なんだって。それを言うなら、アサヒが俺の髪を切ったのだって……」
いや、あれは確かに罰ゲームだった。
「わかった! じゃあ、夜ごはんを食べたら三回勝負ね! 早く部屋に戻って作らなくっちゃ」
アサヒはそう言うと、少しばかり歩を早めた。
サクは歩調を合わせながら、アサヒの横顔を見た。夕陽に照らされて、白い肌がほんのりと赤く色づいている。
透き通った青い瞳も、今この瞬間だけいつもと違う不思議な色に見えた。
心臓がドクンと一回、大きく鳴った。咄嗟に視線を逸らす。
近づきすぎては駄目だ。一定の距離は保たなければならない。それなのに……無意識のうちに近づいてしまっている。
目に見えない引力が働いているかのように。
――このままではまずい。
絶対に勝たなくては。サクは心に、西から照りつける太陽よりも赤い炎を燃やした。




