5話
サクは小屋を出ると、左に向かって歩いた。それは時計の針の向きとは真逆の方向であり、バスで来た道を数十メートル戻っていた。
「見て」
半歩前を歩いていたアサヒが、左前方を指差して言った。
サクは立ち止まって、そちらに目を向けた。岩壁に、ぽっかりと穴が空いている。トンネルだ。
こちら側はどこまでも大きな岩壁が立ちはだかっていて、行き止まりと思っていただけに、意表をつかれた。
「行こっ」
「うん」
サクは訝りながら頷いて、狭いトンネルの入り口をくぐった。
左に手を伸ばすと、冷たく、ゴツゴツとした感触があった。天井は低く、思い切りジャンプすれば指先が届きそうだ。早く抜けないと、天井が崩落して押しつぶされてしまう。そんな想像がふっと頭に浮かんだ。
サクはわずかに足を早めた。白い光が見える。この先に一体何があるというのだろう。そう考えた時、アサヒが言葉を発した。
「この先に、なんとね」
ぱっと視界がひらける。
「町があったの」
サクは目に入った景色に息をのんだ。
「本当だ、町だ」
トンネルを抜けた先に、小川に架かる橋があった。その橋の向こう側に、趣のある古い家屋が立ち並んでいるのが見えた。
サクは橋を渡ると、丁寧に敷き詰められた石畳を歩いて、町の中へ入った。通りは車一台がやっと通れるほどの幅だった。人はおらず、静まり返っている。
空き家なのだろうか。両側の家屋からも人の気配を感じない。けれども、建物も道もきちんと手入れされているように見える。ということは、どこかに人がいるのではないか。
同じことを感じていたのか、アサヒがきょろきょろと左右を見回しながら、
「もっと進んでみようよ。誰かいるかも」
と言った。サクは頷き、先へと歩を進めた。
突き当たりを左に曲がる。するといきなり、
「ん? 君たち……」
ベンチに腰掛けた男に話しかけられた。
人がいた――のはよかったが、いきなり声をかけられるとは思っていなかったので、驚いた。
しかもそれが“警官”とくれば、なおさらだった。
三十路くらいの男の警官は、咥えていた煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。じろじろと二人を見て言う。
「どこから来たの?」
警官は背が高く、肩幅もあった。その割に迫力はない。平坦な口調と、眉尻が微妙に下がった容貌のせいか。
サクは戸惑いながら答えた。
「ロク……からです」
「ロク? バスで半日はかかるだろう。なんでこんなところに……」
警官は目を細め、わずかに伸びた顎髭をさすった。
「君たち、年はいくつ?」
「じゅう――」
サクは「四」と言いかけて引っ込めた。
十四はまずい。成人していないと知られたら、間違いなく親の所在を訊かれる。そうなると、返答に詰まる。
そもそも記憶を失っているから、自分の本当の年齢が分からない。
今日が何年何月何日か分かれば。いや、本当の年齢を知ったところで、十六歳以上でなければ意味がない。
ややこしいな。適当に答えようと口を開きかけた時、
「十六です」
アサヒが清々しく答えた。
「俺も十六です」
サクは慌てて言ってから、隣をちらりと見た。
――十六歳だったのか。もう少し下かと思っていた。
「ほぅ、成人したばかりか。……で、どうしてこんなところに?」
「えっと、たまたまトンネルを見つけて、入ってみたらここにたどり着いた……というだけなんですけど」
「なるほどねぇ。わざわざこんな僻地にやって来て、たまたま見つけたトンネルに入った、と。……ところで、随分重そうな荷物を持っているようだけど、何が入っているの?」
警官は不思議そうな目で、サクの肩にかかった帆布のカバンを見た。
サクは素直に答えた。
「財布と筆記具と、あと工具箱です」
「工具箱?」
警官は眉をひそめてサクを見た。その視線が再びカバンに向けられる。
それは無言のプレッシャーだった。
サクはなんとなく嫌な予感がしながらも、カバンを肩から下ろし、膝をかがめてファスナーを開いた。
底に鎮座する黒い箱に、警官の目の色が変わった。
「その箱、開けてくれる?」
「はい」
サクはカバンの中から工具箱を取り出して地面に置き、蓋を開けた。
警官は腰を落として、まじまじと箱の中を見た。
「色々持ってるなぁ。ドライバーにペンチに、はんだごてまである。なんでこんな物持ち歩いているんだ?」
感心したような物言いだったが、語尾にはっきりと疑惑の念が表れていた。
「それは……」
まずい。不審に思われている。
サクはズボンの後ろポケットを気にした。精密ドライバーと先の曲がった針金が入ったままだ。これが見つかれば、“空き巣”と疑われるに違いない。
おつりのために、あんなことするんじゃなかった。緊張と後悔の念が合わさって、言葉が出てこない。
「それは修理の道具ですよ。わたしもサクも、唯一の特技が物を修理することなんです」
アサヒが言った。サクとは正反対の緊張感のなさで。
――唯一の特技なんて言ってない……けど、間違ってない。
緊張の解けたサクは、ふと思いついて口を開いた。
「修理屋をやろうと思っていて、それで工具箱をカバンに入れていたんです。まだまだ半人前ですけど」
「二人で?」
「はい」
と、アサヒが即答した。サクは思わずアサヒの顔を見そうになった。
――この状況を分かっていたのか?
サクはアサヒが示し合わせたわけでもないのに、自分の嘘にのってきたことを意外に思った。と同時にほっとした。すぐさま嘘だとバラされる可能性にまで、考えが及んでいなかったのだ。
「修理屋ねぇ……」
そう簡単には納得してくれないらしい。
警官は腰を上げると、難しい顔をして、探るようにゆっくりと目線を動かした。
まだ何か訊いてくるな。サクは心の中で身構えた。と、その時。
「あらぁ〜。かわいらしい修理屋さんねぇ」
「え?」
突然背後から聞こえた声に驚いて、サクは振り返った。
「……ミヨさん。こそこそと陰に隠れて、ずっと聞いてたんでしょう。毎度毎度いつ出てくるか気になってしょうがないんで、やめてくださいよ」
警官にミヨさんと呼ばれたその老齢の女性は、こちらに向かってゆったりと歩きながら言った。
「面白そうなことを見つけたらね、物陰に隠れてひっそりと観察するの。そしてね、ここぞという場面でわぁっと飛び出すのよ。それが私の趣味なの」
「そのせいで、この前空き巣を取り逃がしたんじゃないですか」
サクは“空き巣”という言葉にドキッとした。
「あらぁ、結局捕まえられたじゃない。乗ってきたバイクがパンクしてて、災難だったわねぇ、あの空き巣さん。小石だらけの悪路じゃ、そういうこともあるわよねぇ」
ミヨさんの含みのある言い方に、警官はため息をついた。
「危ないことはしないようにって、いつも言ってるでしょう」
ミヨさんは警官の忠告など全く意に介する様子もなく、ほほほと笑って言った。
「修理屋さん、よかったらうちへいらっしゃらない? ぜひ直していただきたい物があるのよ」
突然の誘いに戸惑うサクをよそに、アサヒがボールを打ち返すような調子で答えた。
「もちろんです!」
――もちろんって、おい。
サクはやる気満々のアサヒに、心の中で抗議した。場を切り抜けるためについた嘘だってことが、分かっているのか、いないのか。
「では行きましょうか。さぁ、あなたも。荷物を片づけていらっしゃい」
ミヨさんが歩き出すと、当然のようにアサヒも歩き始めた。サクは伺うように警官を見た。
「行っていいよ。君たち、悪党には見えないし。それに、ばっちり顔を見られてるから悪いことなんてできないだろう?」
警官は変わらず平坦な口調でそう言うと、ベンチに腰を下ろして、再び煙草に火をつけた。
サクは隙を見て、ポケットの中身を工具箱に入れた。急いでその箱をカバンに収めると、二人の背中を追いかけた。
まるで幻想の世界にいるみたいだ。サクは歩きながら思った。
どうぞご自由にお入りくださいと言わんばかりに、開け放たれた門。軒先に咲く、薄紫色の花。通りを抜ける暖かい風に運ばれて、甘い香りが漂ってくる。
だが、現実感がないのは、町並みが美しいせいではなく、人がいないせいだった。
そう実感すると、急に侘しさが目についた。玄関前に佇む、閉ざされたポスト。外された看板のあと。ふと目に入った家の窓の奥に見えたのは、もぬけの殻だった。
「静かですね」
サクは率直な感想を述べた。
「そうでしょう。この町は元々、秘境の宿場町として栄えていたんだけど、今じゃ誰も寄りつかない本当の秘境になってしまって……。一日二回、岩壁の向こうからバスが出てるんだけど、あまりに利用者が少ないから、もうすぐ廃線になるかもしれないわ。そうなったら陸の孤島よ。
年寄ばかりでねぇ。毎日のように次は誰が逝くかって、そんなことばかり話してるの。今も誰かの家に集まって、くだらない話をしているんでしょうね。いつも同じ話ばかりでつまらないから、私は時々しか参加しないの」
ミヨさんは姿勢よく歩きながら、淡々と話した。
「時々でも参加しないと、気がついたら人数が減っていた。……なんてことになったら怖いでしょう? そうは言っても、年々人口は減るばかりなんだけど」
サクは苦笑いを浮かべながら、あたりを見回した。
「空き家が多いんですか? それにしては、きれいに手入れされているように見えますけど」
「そうねぇ、多いわねぇ。空き家の手入れは、町の住民全員でやっているのよ。それに、町を出ていった若者たちが時々帰ってきて手伝ってくれるの。優しい子が多くてねぇ。彼らにとっては足かせでしょうに」
不思議な町だと思った。寂れていても、町全体に一体感がある。それでいて、無理に統率されている感じがない。周囲は山ばかりの閉鎖的な土地であるのに、自由で開放的な空気が漂っている。
警官やミヨさん、時々帰ってくるという町を出て行った者たち。誰もが強制されることなく、自分の意思でこの町を維持しようとしている。そんな気がした。
けれど、限界は近いようだ。サクは故郷を思い起こした。
「零域」に飲み込まれ、やがて消える町――。「零域」から離れた場所にも、こんな風に消え入りそうな町があるんだなと、感慨深く思った。
「さぁ、着きましたよ。どうぞ上がってくださいな」
ミヨさんが、ガラガラと引き戸を開けて言った。
「おじゃまします」
サクは促されるままに、敷居をまたいだ。
しんと静まった玄関は一軒家にしては広く、ほのかに木の香りがした。来客用なのか、端からずらりと同じ色、同じ形のスリッパが並んでいた。
そのスリッパを履くと、左手の居間に通された。
「適当に座ってちょうだい。お茶を入れてきますから」
「ありがとうございます」
ミヨさんが立ち去ると、サクとアサヒはそれぞれ、入口から近い位置の椅子に座った。
椅子は全部で四脚あり、部屋の中央に置かれた黒褐色のテーブルを挟むように配置されていた。
カーテンやカーペットは落ち着いた緑色で統一されており、座ったばかりの椅子の座面も緑のビロードだった。
一見、まとまりのある部屋と思ったが、壁際の棚だけは異様な雰囲気を漂わせていた。
高さのある棚の下段に、本のような物が窮屈そうに詰め込まれている。上段には大小さまざまな謎の置物が並んでいた。
石の鹿。木彫りの鹿。クリスタルの鹿。黄金の鹿。ぬいぐるみの鹿(大)。ぬいぐるみの鹿(中)。ぬいぐるみの鹿(小)……。
それらはなぜか、こちらに尻を向けている。
――なんだあれは? 直して欲しい物って、まさかああいった変な置物とかじゃないだろうな?
サクは急に不安になった。
あの老人は何を直してほしいというのか。それは自分に直せる物だろうか。自分に直せなければ……。
隣の金髪少女が、右手でワンタッチ。あら不思議、なんということでしょう。元通りに直ってしまいました。おばあさんは驚いて腰を抜かしてしまいましたとさ。
そんな光景がパラパラ漫画のように脳内で再生されて、サクは顔をひきつらせた。
後々面倒なことにならないよう、打ち合わせておこう。声をひそめて言う。
「まだ何を直せばいいかわからないけど、あの人の前でいきなり魔法を使うなよ?」
すると、アサヒは口をとがらせながら、小声で返答した。
「そんなことするわけないでしょ。簡単に他人に明かすようなものじゃないんだから」
予想外の返事にサクは少しばかり驚いた。
――それなら、俺に魔法を明かしたのは、俺が父さんの息子で、時計を持っていたから……なのか?
サクはアサヒに対する認識を改めた。
初対面で魔法だなんだと、わけの分からない言葉を浴びせられたので、勝手に非常識で予測不能な行動をする人間と思いこんでいた。が、意外に察しがよく、機転も利く。
さっきの警官とのやり取りでもそう感じた。けれどそれゆえ、余計につかみどころがないとも思った。
サクはひと呼吸置いて、さっきよりも真面目な口調で言った。
「俺に直せる物なら俺が直す。もし、絶対に修理不能な物だったら断る。どうやって直したか訊かれたら面倒だから、魔法も使わない。
魔法を使うのは、そのどちらでもなく、あの人の目を盗めた時だけ」
「うん、わかった」
アサヒはこくりと頷いた。
しばらくして、ミヨさんがポットとカップの載ったお盆を持って居間に入ってきた。
サクはお盆の上よりも、下から覗いている物に注目した。
ミヨさんはなぜか、首からカメラを提げていた。