58話
部屋に戻ったサクは硬いパンを噛み切りながら、眉間にしわを寄せて呟いた。
「二週間……」
アサヒがにっこりと微笑んで言った。
「わたしたちにも長いお休みがやってきたってことだねっ」
「何のんきなこと言ってるんだよ。もうここに用はない。今日これから出発して、次の場所に向かうはずだったのに……」
「急がば回れって言うでしょ? 焦って先へ進んだって、いいことないんじゃない?」
「自分だって、ちょっと前まで出発する気満々だったくせに。大体回ってすらないし。急がば止まれとは言わないだろ」
サクは「はぁ」とため息をついた。
「というか、何のために俺たちがここで留守番する必要があるんだよ」
「掃除のためじゃない? 『好きに過ごしてくれて構わないわ。何だったら、使っていない部屋に溢れてる物を全て処分して、キレイにしてくれてもいいわよ』って、エマさん言ってたから」
「俺たちは清掃業者じゃない。そもそも、アサヒが宿泊費チャラにつられて了承しなければ――」
「それだけじゃないよ! ほら! あの美味しい高級な塩ももらったし!」
そう言いながら、アサヒはテーブルの端に置かれた小瓶を持ち上げた。
中で、薄紅色の結晶がキラリと光った。
「食べ物にもつられたことを嬉しそうに言うな。それに、さっきまであの人に対して怒ってたくせに、よくそんなニコニコと」
「ちゃんと謝ってくれたからいいの。もうエマさんがわたしたちに危害を加えることはないって、はっきりわかったから。それに……サクが無事ならいいの」
その言葉に、サクは全身を熱くした。冷たい牛乳の入ったグラスを持つ手まで、電熱線が通っているかのように熱くなっていた。
「俺だって――」
言いかけた言葉を飲み込んで、サクは天井を仰いだ。額にグラスの底を当てる。
「あぁ……二週間……」
全身にこもった熱は、なかなか引かなかった。
近づきすぎては駄目だ。一定の距離は保たなければならない。
今のままではまずい。せめてここを出られれば、以前のように平穏でいられるはずなのに。
昼を過ぎて、サクたちは棺が見せた幻影の謎を調べるため、図書館へ向かった。
昨日、サクは幻影の内容をアサヒに話した。アサヒは興味深げに聞いていたが、最後には何が何だか分からないといった様子で、う〜んと唸っていた。
父から何か聞いてないかと尋ねたが、何も聞かされていないようだった。
あれはどこなのか。何という国なのか。プテロ銀、“一の位”の魔法使い、ラゴウ……。
ノートに書き留めた文字を頭上に浮かべながら、サクは閉館時間ギリギリまで古い地図や書物を読み漁った。しかし手がかりは何一つ見つからなかった。
仕方なく、手元にあった本を一冊借りて図書館を出た。
「明日もう一度来てみるか……」
まだ明るい空に、一番星がぽつんと光っていた。その星を見ていると、
「サク!」
階段の下からアサヒの声がした。サクは階段を下りて言った。
「いつの間にかいなくなったと思ったら……どこに行ってたんだよ」
「どこって、スーパーだけど。夕食の材料を買いに。メモを残してたでしょ? 口でも伝えたんだけど、誰かさんは集中すると耳に蓋をしてしまうみたいだから、聞いてないと思って、紙に書いて机に置いたの」
「メモ? ……あ」
サクは肩にかけたカバンから、さっき借りたばかりの本『我こそは天頂の王』を取り出した。開くと、最初のページに白い紙切れが挟まっていた。
「これか。ごめん、しおりにしようと思って挟んでた」
「読まずにしおりにしちゃうなんて、ひどい!」
サクは紙切れを裏返して、文字を読み上げた。
「豆腐と鶏肉のハンバーグ、ズッキーニとパプリカのエチュベ? 何だこれ」
「あれ? スーパーに行ってくるって書いたつもりだったのに」
「先走って献立だけ書いたんだろ」
サクは呆れた目をアサヒに向けた。アサヒはふいっと視線を逸らした。
夜。ベッドに入ったサクは、そばにある卓上ランプをつけて本を開いた。
『気がつくと、見知らぬ土地に立っていた。ここはどこなのか。俺はどこから来たのか。俺は一体、誰なのか……。
名前も出自も、俺は自分のことを何一つ覚えていなかった。いや、もしかしたら覚えていないのではなく、元よりそんな記憶はないのではないかと思った。俺はたった今、この広大な大地に生み落とされたのだ。ひとまずそう、考えることにした。』
――どういう思考してるんだよ。
心の中で呟きながら、ページをめくった。
『歩き出した直後。俺は自分の影がやたらと角張っていることに気がついた。何かがおかしい。そう思って背中に手をやると、硬い箱のような物があった。それは、銀色の棺だった。
なぜ棺を背負っているのか、その理由は分からなかった。背負っていることに気がつかなかったほど軽い棺には、当然死体は入っていなかった。その代わりに「ゼニスへ」と記された手紙が入っていた。
ゼニスとは誰のことなのか。俺は最初、それが自分宛ての手紙とは気がつかなかった。しかし最後まで読んで、これは間違いなく俺に宛てた手紙だと確信した。
なぜなら、ゼニスという男がいかに強くたくましい男であるかが詳細に記されていたからだ。』
――なんでだよ。
読み続けていると、だんだん頭がおかしくなりそうだった。
三十ページほど進んだところで、パタンと本を閉じた。まぶたも閉じた。
翌日。サクはアサヒとともに再び図書館へ赴いた。
そこで一日中、手がかりを探した。しかし何時間探しても、あそこがどこなのか示す地図も文章も、結局何一つ見つからなかった。
「これだけ調べたのに、何も分からない。魔法も、あの場所も、完全に隠されている……」
あの門を通った者は、自分の名前も出自も何もかも忘れてしまう。それはつまり、あの場所のことを一切覚えておいてはいけないということだ。
ゼニスが自分自身に宛てた手紙にも、棺のことと、これから為すべきこと以外は書かれていなかったようだ。
為すべきことを為すため、自分自身を鼓舞するために、ゼニスという男がいかに強くたくましい男であるかということは詳細に書かれていたようだが――。
これ以上調べても無駄だ。サクはそう判断した。
「決めた! 今日の夜ご飯はオムライスにする!」
帰りに立ち寄ったスーパーで、アサヒが特売の卵を手にして言った。
「オムライス?」
「嫌なの? サク、オムライス好きでしょ?」
「嫌とかじゃなくて。俺が調べてるあいだ、ずっと料理の本ばかり読んでただろ。だから、もっとすごいものを作るのかと思っただけだよ」
言ってから、サクはしまったと思いアサヒの顔を見た。アサヒはカゴに入れた卵をじっと見つめながら、口を固く閉じ、わずかに頬を膨らませていた。
サクは慌てて言った。
「いや、今のは嫌味じゃなくて。というか、アサヒのオムライスは十分すごいし、ちょうどオムライスが食べたいと思ってたし……とにかくごめん。帰りの荷物全部持つから」
「いい。荷物はわたしが半分持つ。だってサク、まだ腕痛いんでしょ? ずっと包帯巻いたままだし」
「これは――」
サクは左の上腕に目をやった。巻かれた白い包帯。その下にはあざがあった。
棺の魔法を解いた時、偶然この場所に「代償」が現れた。そのことに気がついてから、包帯を取るに取れなくなっていた。
この際アサヒに「代償」について言うべきか。いや、余計な心配はかけたくない。バレずに済むのなら、そうしたい。
急いで言い訳を考えていると、アサヒが心配そうな顔で言った。
「やっぱり痛いの?」
「いや、全く痛くない。包帯巻いてる腕ってなんか格好いいだろ? つまりこれはファッション……」
アサヒは目をぱちくりさせた。サクは顔を赤らめた。ゴホッとわざと咳をする。
「とにかく、荷物は全部俺が持つよ。いつもご飯作ってもらって悪いし。それに俺の方が力あるし」
「そうかなぁ?」
アサヒは小首を傾げた。
「なんでだよ。どう考えてもそうだろ。だったら、あとで腕相撲して――」
言ってから、サクはまたしまったと思った。今度は別の意味で。
アサヒは楽しいことを見つけた子どものように、瞳を輝かせた。
「しよっ! 腕相撲! ご飯のあとで」
「いや、やっぱりやめとこう。つい本気になって、手加減するのを忘れるかもしれないし」
「手加減? そんなのいらない! 正々堂々真剣勝負して!」
アサヒはぴたりと足を止め、まばたきもせずにサクを見つめた。根が生えたように、じっとしている。
こうなると、承諾するまでアサヒは意地でも動かない。
サクは小さくため息をついて言った。
「分かったよ。……そんな細い腕じゃ、一瞬で方がつくと思うけど。ポキッと折れたって知らないからな」
と言った数時間後――。
サクはテーブルに両肘をついて、頭を抱えた。
「なんでだ……」
手加減は全くしなかった。それに力任せに倒そうとしたわけではない。肘の角度はほぼ直角。てこの原理を利用して、一息でパタンと倒す――はずだった。
ところが予想外なことに、アサヒの腕は全く倒れなかった。一分以上も手を握ったまま、膠着状態が続いた。そのうち、ずっと手を握っていることに意識が向いてしまい、体がもぞもぞとし始めて、気がつくと倒されていた。それを三回繰り返した。
なぜ勝てないのか。理由ははっきりしていた。集中力が切れたからだ。
一日中、調べものに集中していた。だから今日はもう、集中力という腕相撲で勝つために最も重要な力が残っていなかったのだ。
「負けました」
サクは頭を垂れたまま言った。
「やったー! わたしの勝ち! ……ということで、サクには罰ゲームを進呈します」
「は? なんだよ罰ゲームって」
勢いよく顔を上げたサクに、アサヒはにこっと微笑んだ。
「今考えたの。内容は明日になってのお楽しみっ」
ベッドに入ったサクは、昨夜と同じく卓上ランプをつけて、本を開いた。
話はアステールの王となったゼニスが、ある女性と出会うところからだった。
『ひと目見た瞬間、俺は彼女を運命の相手だと思った。
絹糸のような髪。血色のよい唇。彼女は無垢な少女のように笑いながら、時折色香を漂わせた。それはまるで花の蜜だった。高い断崖のてっぺんに咲く花が一滴の蜜を垂らして、俺を呼び寄せていた。
俺は崖を登った。立ちはだかる険しい崖を、ありったけの力を込めて登った。しかし、なかなか頂上にはたどり着けなかった。
彼女は微笑んでいた。頂上から、温かく包み込むような優しい笑みを俺に向けていた。しかしその黒々とした瞳からは、何色にも染まらぬ意思の強さを感じた。
この女を染め上げたい。つま先から、髪の毛一本一本に至るまで、俺の色に染めてやる。』
うっと胸焼けがして、ページを飛ばした。
ゼニス王には過去の記憶がない。おそらくこの本を読んだところで、手がかりとなるものは何も見つからないだろう。
しかし借りてきてしまった以上は、最後まで読みきらなくては。義務感でページを繰る。
『――何年もかかって、ようやく結婚を承諾してくれた。筋骨たくましく、地位も名声も権力も富もある男が、こんなにも苦労したのだ。やはり彼女は特別だ。早く欲しい。彼女の全てが欲しい。
はやる気持ちを抑え、俺はこの地アステールの伝統に従って、彼女の手を強く握った。肘をつき、手を互いに握りあったまま、力の均衡を保つ。簡単に倒しても倒されてもならない。これで夫婦の契りは結ばれた。』
パタンと本を閉じた。心拍数が急上昇する。血が全身を駆け巡り、ありとあらゆる場所に焼けるような熱を感じた。
――読むんじゃなかった。
目を閉じ、眠りにつこうとする。しかし眠気はやってくるどころか、どんどん遠ざかっていった。
このまま朝を迎えるのではないか。それならいっそのこと、今すぐ朝になってほしい。
そう思っているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだった。




