54話
エマは沈黙を続けていた。目にこもった殺気は、時間が経つにつれて小さくなっていった。
サクはアサヒに視線を移した。この非常時にも関わらず、アサヒはいつもと変わらない無防備な寝顔をしていた。
――今なら引き離せるかもしれない。
引き離して、抱きかかえてでも逃げなければ。
サクにとって今最も優先すべきは、アサヒを救出することだった。今夜上るはずだった階段のことも、棺のことも、今はどうでもよいことのように思えた。
フォークを突き刺した左腕がズキズキと痛む。血は止まっただろうか。この腕でちゃんと抱きかかえられるだろうか。
そう考えた直後だった。コンコンコンコンと、ドアを激しくノックする音がした。
サクは驚いて言った。
「ここには誰も来られないはずじゃ……」
エマも驚いた顔をしていた。大きく見開いた目を、近くの壁にかけられた時計に向けた。
「どうしてこんなに早く……それに鍵はまだ……」
その時、ガチャッとドアの開く音がした。足音が近づいてくる。その音から察するに、訪問者は二人――。
白い衣服に身を包んだ男は、この部屋へ入るなり、エマに向かって直進した。
「ご無礼をお許しください」
そう言って、背後からエマの腕を掴んで背中に回した。突然解放され、椅子から落ちかけたアサヒの肩を、サクは慌てて掴んだ。強く揺する。
「起きろ! アサヒ!」
すると、アサヒはゆっくりとまぶたを開けた。
「……あれ? わたし……」
そう呟いて、突然ハッとしたように立ち上がる。
「サク!」
危うく顔面と顔面がぶつかるところだった。サクは思わずごくりと唾を飲み込んだ。アサヒはほっとした様子で、顔を離した。
「よかった。生きてた……って、どうしたの? その腕! ケガしてる!」
サクは慌てて左腕を押さえた。
「もう血も止まってるし、なんともないから。それより今は――」
そう言って、神官に取り押さえられたエマに目を向けた。
エマは後ろをにらみつけるように、首を右に向けて言った。
「あなたたち……時間を間違っているわよ。約束したはずよね。今夜零時にって」
ハスキーな女性の声が、神官の斜め後ろから聞こえた。
「もし約束した時間の通りに来ていれば、あなたは既に死んでいて、私はあなたに一生会えなかったのでしょう?」
「えぇ。その予定だったわ。計画は狂ってしまったけれど、それでも結果は変わらないはずだった。
そして私を見つけたあなたは死ぬの。いえ、死んだことにしてどこかへ逃亡しても構わないわ。元々あなたと私は、何の関係もない赤の他人だものね」
「エマ……」
「気色悪い名前で呼ばないで! その名前は元々あなたのものでしょ! そういえばあなた、随分と老けたわね。昨年よりも五歳くらい年を取ったように見えたわ。一年で五歳も年を取るのかしら?
初めて会った時は双子のようにそっくりだったのに、みるみるかけ離れてしまって、今じゃ誰が見たって姉妹どころか従姉妹にすら見えないわよ。つまり、本当に本当に本当に、赤の他人なのよ。
あなたもよ、アラン。最近加齢臭が酷くなったわ。近づかれるだけで吐き気がする。その汚い手で気安く私に触れないで頂戴!」
「マリ様」
「はぁ? マリはそっちの人でしょ。私はマリじゃないわ。私はエマよ!」
エマはまるで子どものように喚き散らした。アランと呼ばれた神官は、興奮するエマを必死に落ち着かせようとしていた。
そこへ、アサヒがテーブルの上から紅茶の入ったカップを持っていった。
「一旦お茶でも飲んで、落ち着いてください」
よほど喉が渇いていたのか、エマはアサヒの手からひったくるようにカップを取って、一気に飲み干した。
直後、ハッとした顔をして言った。
「これ……」
アサヒはエマの手から落ちかけたカップを受け止めて言った。
「あなたはだんだん眠くなる。――少しだけ、仕返しさせてもらいました。おやすみなさい、エマさん」
エマは突然糸が切れたようにぐったりとした。倒れかかったエマを、神官が両腕で支えた。神官はそのままエマを抱き上げると、奥のベッドに運んだ。
戻ってきた神官に、サクは尋ねた。
「どうやってここへ来たんですか? あの人の話だと、ここへは誰も来られないはずじゃ……」
「礼拝堂に、私だけが入れる部屋があります。その部屋に、ここへ繋がる階段があるんです」
「階段……ってまさか」
サクは今朝上った階段を思い返した。マリが近づいてきて言った。
「私も彼と同じく、階段を通ってここへ来たのよ。ただし別の方向から。地下八階に私の居室があって、そこにある階段を上って下りれば、マップに載っていない秘密のこの場所にたどり着けるの」
上下に分岐した階段。上は礼拝堂へ、下は首長マリの部屋へと繋がっていた……。
驚くサクに、マリが言った。
「もしかして、鍵を開けたのはあなた? この場所へ入るには、エマに鍵を開けてもらわないといけない。約束の時間は日付が変わる、深夜零時だった。
エマがこんなに早く鍵を開けておくはずがないって不思議に思っていたのよ」
「……はい。エマさんは、もっと後に鍵を開けるつもりだったんだと思います。誰にも邪魔をされないように、きっとギリギリに開けるつもりだった」
神官が言った。
「とにかく無事でよかったです。今朝あの方に、話したいことがあるから今夜零時にここへ来るようにと言われた時、あなたの顔が浮かびました。それからずっと嫌な予感がしていて、約束の時間を待たずにここへ来たんです。
ドアを破壊するつもりでバールを持ってきていたのですが、その必要はありませんでしたね」
「私もよ。嫌な予感がして、鍵を壊すつもりでハンマーを持って階段を駆け上ったの。そうしたら、下りてきた彼と偶然鉢合わせたのよ」
マリの言葉に、神官は「いいえ」と首を振った。
「偶然ではありません。これは、ゼニス王のお導きによるものです。私たちはゼニス王に遣わされたのです。あの方とあなたをお守りするようにと」
神官の目は真っ直ぐサクを向いていた。
「もしかして、気づいていたんですか? あの人と俺が……」
その先の言葉をサクは口に出せなかった。神官は表情を変えず、真顔のまま答えた。
「当人よりも、他人の方が分かることもあります」
サクは静かにうつむいた。ドロッとした、液体とも固体とも呼べない白い物が、床に浮いている。そこから滲み出たように、真っ赤なベリーソースが広がっていた。白と赤が混ざりあい、そこには別の色が生まれていた。
母親という存在を、サクはこれまであまり考えてこなかった。というよりも、考えないようにしていた。
幼い頃、何度か母親について父に尋ねたことがあった。父はその都度、適当なことを言った。爪が箸よりも長いだとか、身長が三メートル近くあるだとか、金髪で青い瞳をした女神様だとか、今となっては明らかに嘘と分かる言葉を平然と言っていた。
しかしそんな父の言葉を疑いもせず、サクは頭に母親の姿を思い描いた。それが現実には存在し得ない姿であることに気づくと、泣いて父に詰め寄った。すると父は真顔で言った。
「母親のことを知って、どうしたいんだ?」
その瞬間、涙は止まっていた。どうしたいのかと問われて、分からなくなっていた。
なぜ自分は母親のことを知りたいのか。その気持ちがどこからやって来たものなのか。小さな頭で真面目に考えた。考えた結果、分からなかった。
それから年月が経ったある時。父が本当の父親ではないかもしれないと知った。その時にはむしろ、このまま一生母親のことなど知らなくていいと思った。
母親のことを知れば、父との関係が崩れる気がした。積み木が崩れるように、簡単に壊れてしまう気がした。
だから、考えないようにした。自分には母親なんていない。そう思い込んでいた。
サクはゆっくりと顔を上げて、奥のベッドで眠っているエマに目を向けた。
何の感情も湧いてこなかった。怒りも憎しみも恐れも、何も――。
そのままじっと立っていると、急に膝がぐらついた。糸がプツンと切れたかのように、全身の力が抜けて、視界は真っ暗になった。
目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。ざらざらとした砂のような黄色い天井。アステールに来た日から、毎日見た天井……。
サクはガバッと体を起こした。その瞬間、左の上腕がチクッと痛んだ。
見ると、フォークを突き刺した箇所に包帯が巻きつけられていた。
「誰が……」
そう呟いた直後。ベッドの縁についた左手の小指に、何かが触れた。
「うわっ」
思わず声を出す。その声で目が覚めたのか、床に座ったままベッドの縁に寄りかかるようにして寝ていたアサヒが、むくっと起き上がった。
「あれ……わたし、寝ちゃってた……」
「なんでこんなところで寝てたんだよ」
アサヒは目をこすりながら言った。
「眠れなくて……だから、サクのそばにいようと思って」
「……結局寝てただろ」
アサヒはさっきまで眠そうにしていたのが嘘のように、突然大きく目を開いた。
「腕は大丈夫? なんともないって言ってたけど、本当に? 本当になんともない?」
「本当になんともない。眠気を覚ますために、自分で自分の腕を突き刺しただけだから。むしろあの時……」
そう言いながら、サクはアサヒの首筋を見た。鎖骨に垂れた赤いベリーソースは拭きとったのか、跡形もなく消えていた。
――無事でよかった。
心の底からそう思った。
アサヒは小首を傾げてから、サクの左腕に視線を移した。
「本当は魔法で治してあげたかったんだけど、最初の時みたいに失敗するかもしれないと思ったら、怖くてできなかったの。
もしかしたらあの時、サクが記憶を失くしたのはわたしの魔法のせいかもしれない。もしそうなら、また記憶を失くしてしまうかもしれないでしょ? それ以上にもっと大変なことになったらどうしようって思って……。
それに、先生も言ってたから。魔法は、人が作ったモノにしかかけられないんだよって」
「人が作った物にしかかけられない……」
サクは自分の両手を見た。
そのことにはなんとなく気づいていた。
物に触れ、願う。すると、常識では考えられない不思議なことが起こる。
これは、映画や小説でよく見た魔法とは違う。杖も呪文もいらない。その代わりに、無からは何も生み出せない。
アサヒは神妙な声を発した。
「初めてサクに会った時、なんでか分からないけど、絶対に助けなきゃって思ったの。とにかくケガを治さないとって思って、ためらうことなく魔法を使ってしまった」
「だけど、完全じゃなかったにしても一応は魔法で治せたわけだろ? それなら、人にもかけられるってことなんじゃ……」
「うん……。それに先生と出会う前、わたしは何度か人に対して魔法を使ったことがあった。その時はちゃんと治せたはずなのに」
アサヒは眉間にしわを寄せて、小さくう〜んと唸った。しばらくして、
「あっ」
ベッドの上に両手をつき、サクに向かって身を乗り出した。
「わかった! 人は人が作って、人から生まれるでしょ? だから、人にも魔法はかけられるの!」
ゲホッ。ゴホッ。サクは勢いよくむせた。アサヒはパチパチとまばたきをした。
「大丈夫?」
サクは無言で頷くと、呼吸を整えてから言った。
「たとえ人にも魔法がかけられるとしても、それがいいことだとは思えない。人は物じゃない。……父さんの言葉には、そういう意味も込められていたのかもしれない」
アサヒはうつむき、小さく「うん」と答えた。
「人は物じゃない。人に魔法を使ってはいけない。……だけどもし、サクがまたケガをしたら、わたしは――」
「ケガを治すために記憶を消されたら適わない。今までの苦労が水の泡になる。だから俺に魔法を使うのは禁止」
顔を上げたアサヒは、不安そうな表情をしていた。
「心配するなって。俺は、目的を達成するまで絶対に死なない。危険は最大限回避するから」
「……うん。約束だよ」
アサヒはサクの目を真っ直ぐ見て、そう言った。
「そういえば、あれからどうやってここに……」
サクは、朝食の片づけをしながら呟くように言った。
「神官さんが運んでくれたんだよ。その腕の包帯も神官さんが」
「えっ」
まさか抱き上げられて――。五十歳前後の男に、自分がお姫様抱っこで運ばれているのを想像して恥ずかしさがこみ上げた時。コンコンコンコンとドアをノックする音がした。
おそるおそる近寄って、返事をする。ドアの向こうから、ゴホンという咳払いに続いて、低い声が聞こえた。
「少しお話をさせていただけませんか」




