53話
エマは一瞬、驚いたように黒い瞳を見開いた。サクは冷静な口調で言った。
「元女王は火事から逃げた際、喉に火傷を負い、掠れた声になった。けれどもそれは間違いで、あなたと入れ替わった女性は元々掠れた声だった。
王位を継承するには、棺を開けなくてはならない。――憶測ですけど、即位した直後に入れ替わったんじゃないですか? だから、あなたは女王だったけど、元女王よりも元“王女”と呼ぶ方がふさわしい。
つまりこの部屋は、マリ王女の部屋を復元した部屋で、その部屋に本人がいるというだけのことです」
エマはウフフと笑った。
「そうね。それだけのことね。……でも、まさか当てられるとは思わなかったわ」
「アサヒの言葉がなかったら、答えにたどり着けませんでした」
「そう。二人で導き出したというわけね。あなたたち、本当に仲がいいのね」
「いや、そういうわけじゃ……」
サクは慌てて言いながら、横目でアサヒを見た。アサヒはなぜか表情を変えずにじっとしていた。
「さぁ、ババロアを食べましょう。少しぬるくなってしまったと思うけど」
エマがトレーに載ったガラスの器に手を伸ばした。――その瞬間。
ガシャーンとけたたましい音が鳴った。硬いガラスの器がゴロゴロと床の上を転がった。
真っ赤なババロアは、トレーごと床の上に落ちていた。
サクは右を向いた。驚きのあまり声が出なかった。それは、エマも同じようだった。
アサヒが頭を下げる。
「……すみません。手が当たってしまいました。せっかくのデザートを台無しにしてしまってごめんなさい」
エマは口を閉ざしたまま、呆然とした表情で床を見つめた。
アサヒは何も言わないエマに向かって、再び口を開いた。
「エマさん、知ってましたか? サクは、本当は甘いものが苦手なんです。だからわたしが前に作ったババロアも、サクは食べてないんです」
エマは一瞬驚いた表情でサクを見た。
サクはアサヒがなぜ唐突にそんなことを言い出したのか分からず、混乱した。
「もしわたしが二人分しかババロアを持ってこなかったら、どうしましたか? 毒は、別のものに入れましたか?」
「毒……?」
サクは目を見開いて、エマを見た。
エマはうつむいたまま、黙りこくっていた。しばらくして、ウフフと低い笑い声が聞こえてきた。
「甘いもの、苦手だったのね。……そうとは思いもしなかったわ」
顔を上げたエマは、それまで見たことのない表情をしていた。
悲哀、恐怖、憎悪。色々な感情が入り交じった目は、まるで底のない深淵のようだった。
サクは驚きと恐怖で、金縛りにあったように体を硬直させた。
――毒ってなんだ。どういうことだ。
エマは隣の椅子の上から、そっと銀色の仮面を手に取った。
「ちゃんとこの仮面を被せてあげるつもりだったのよ。だから、即効性ではなくて遅効性の毒にしたの。すぐに効いてしまったら、被せてあげられないから……。
それにしてもよく分かったわね。ソースに毒が入っているって」
アサヒは冷静な口調で返答した。
「たくさんヒントをもらったので。確信を持ったのは、さっきの答えを聞いた時ですけど」
「……もしかして、最初から私のことを疑っていたの?」
「はい」
アサヒは静かに頷いた。
「ホテルのロビーで初めて会った時、エマさん、サクの腕時計を見てましたよね? その時エマさんは、何か恐ろしいものを見るような目をしていました。
どうしてそんな目をするのか気になって、だけど気のせいかもしれないと、ずっと思っていました」
――時計……恐ろしい……どういうことだ……?
サクはさらに混乱した。混乱したまま、ようやく動くようになった右手をズボンのポケットに入れた。
指先に硬い腕時計が当たる。そこからほのかな温もりが伝わってきた。
「……それに、ずっと疑問だったんです。エマさんはどうしてわたしたちに部屋を貸してくれたんだろう。どうしてわたしたちにここに滞在する目的を訊かないんだろう。って。
なんとなく、エマさんはわたしたちと関わることを恐れているような気がしました。
だから今日、サクから夕食の話を聞いた時、わたしは一瞬戸惑いました。今まで感じたことは、すべて思い違いだったのかと思いました」
エマはわずかに微笑んだ。
「どうやら思い違いではなかったようね」
「どうして……」
呟きながら、サクは目の前のカップに視線を落とした。何も分からなかった。頭が働かなかった。
輪郭のぼやけたカップが左右に揺れる。さっきまで硬直していた体は、真逆の状態になっていた。まるで深海に揺らめくクラゲにでもなったかのように、全身の力が抜けていた。
「サク……」と、アサヒの呼び声がした。
「二人とも、ようやく効いてきたみたいね。さっき言ったでしょう? ちゃんと仮面を被せてあげるつもりだったって。
紅茶に入れた睡眠薬であなたたちを眠らせて、ベリーソースに入れた毒が効くまでにこの仮面を被せるつもりだったのよ。
計画は変わってしまったけれど、結果は変わらないわ。眠ってくれさえすれば、なんとかなるもの」
視界がぼやける中、サクは襲い来る睡魔を振りほどくように、必死に右手をテーブルに伸ばした。
絶対に眠ってはいけない。今眠ったら、二度と目覚めることはできない。
フォークを握る。高く振りかざし、自分の左腕に突き刺した。
声は出なかった。代わりにこめかみが軋んだ。上腕から、ポタポタと赤い血が流れ落ちた。
「これで……眠気は、完全に無くなりました」
サクは手や顔に汗を滲ませながら、白い大理石のテーブルにフォークを置いた。
エマは大きく目を見開いて、血のついたフォークを見つめた。その目はだんだん殺意のこもったものに変わっていった。
「本当に憎いわね……」
サクは痛みに気を取られそうになりながら、エマに言った。
「何が憎いんですか? 俺たちが、あなたに何をしたって言うんですか?」
「あら、まだ気づいていないのね。……彼女は関係ないわ。関係あるのはあなただけよ、サク君」
エマはそう言うと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
トレーが落ちたあたりへ移動しながら、テーブルの上から別のフォークを手に取る。そして一瞬、腰を屈めた。
起き上がったエマは、目を閉じて背もたれに寄りかかっているアサヒを右腕で抱えこむと、首筋にフォークを当てた。
赤い液体が、フォークの先端からポタッと垂れた。
「そこから一歩も動いては駄目よ。動いたら、この子の首にフォークを突き刺すわ。致死量に達しているかは分からないけれど、毒を塗っているから、傷が浅くても無事ではいられないわよ」
「アサヒは関係ないんですよね。だったら、その手を離してください」
「あなただって、死ぬなら一緒がいいでしょう? この子も同じはずよ」
エマは憐憫の目をサクに向けて言った。
「今のうちに存分に恨みなさい。……私と、あなたに流れる血を」
「血……」
閉ざされた扉がふいに開いた。考えもしなかった真実が、正面から飛び込んできた。
絶句するサクに、エマは淡々と告げた。
「十五年前。私はここで誰にも知られず、ひっそりと子どもを産んだ。性別は男の子だった。父親は誰か分からないわ。思い当たる人間は何人かいたけど、今はもう名前も顔も忘れてしまった。
私は産まれたばかりのその子を、タオルに包んだまま袋に入れて『1』の部屋に置いたの。その部屋にはダスト・シュートがあって、ゴミを置いておくと、少しずつ排出されて無くなっていくのよ。
だから、数日経てばあなたは消えていなくなるはずだった」
サクは片手で口を押さえた。胃の中で、さっき食べた料理がぐるぐると渦を巻いているような感覚がした。
「……今も、どうやってあの男がここへやってきたのか、分からないの。あなたを捨てて部屋に戻った直後、外のホールから泣き声が聞こえた。驚いてドアを開けたら、知らない男があなたを腕に抱いていた。
関係を持ったことがないどころか、見たこともない男だったわ。赤毛で、背が高くて、眼鏡をかけていた……。赤ん坊を抱いた腕には、不思議に光り輝く時計があった。私はその時計に目が釘付けになった。
その男は私に向かって、のんきに赤ん坊の名前を尋ねてきた。もちろん、名前なんてつけていないわ。だから、そんなものはないって答えたの。
そうしたら、男は『そうですか』と呟いて、そのまま去っていった。追いかけようとしたけど、私には体力が残っていなかった」
サクは何も言い出せなかった。アサヒの首に当てられたフォークの先端を見つめたまま、じっと耐えた。
エマは微笑んで言った。
「今日はあの時計をしていないのね。血の繋がった息子と言えど、あの時計がなかったら気がつかなかったわ。サクという名前も、知らなかったもの」
サクは一つ息を吸った。だが、動悸は止まらない。
「……時計は、ズボンのポケットに入れています。この時計は父さんの形見で、絶対に手放してはいけない大事なものなんです。
時計の針が指す方へ行けば、父さんがいなくなった理由がきっと分かる。……だから、それを知るまでは絶対に死ねない。俺はここで死ぬつもりはない!」
サクは勢いよく立ち上がると、エマの手からフォークを奪い、床に投げ捨てた。
しかし、アサヒは依然としてエマの腕に抱えられたままだった。
「アサヒを離してください。俺たちがここへ来た理由は、俺の母親を探すためじゃない。血が繋がっていようがなかろうが、母親なんてどうでもいい」
「あら、そう。けれど、こちらも理由なんてどうでもいいのよ。出会ってしまったが運の尽き……いいえ。まだ最初の時点では、可能性は残されていた。
私は信じていたの。あなたを殺さなくて済む可能性を。それを確かめるため、あなたに“偽天”のローブを手渡し、私と通じている神官に、ローブを持った十五歳くらいの少年を“偽天”に当選させるよう命じた。
けれど残念ながら、あなたは棺を解錠してしまった。あなた自身はそのことに気づいていなかったようだけれど……。
だから、どうしても殺さなくてはいけなくなってしまったのよ」
アステール首長マリには、配偶者も子どももいない。もし棺を開けることができる者が存在すると世間に知られたら、どうなるか。
首長が本物のマリではないと知られるかもしれない。仮にそうならなくても、自ら断絶したはずの王家の血筋が実は存続していたということになる。
マリに対する信頼が、失墜する。
――だから、どうしても殺さなくてはいけない。
サクはエマをにらみつけた。
「それなら、どうしてエマさんも一緒に死のうとしたんですか?
さっき言ってましたよね。紅茶に入れた睡眠薬で俺たちを眠らせて、ソースに入れた毒が効くまでに仮面を被せるつもりだったって。単純に俺たちを殺すだけなら、殺したあとで仮面を被せればいいはず。それをわざわざ薬で眠らせて、仮面を被せようとした。毒が効くまでというのは、エマさん自身のことだった。
つまりあなたは元々、睡眠薬の入った紅茶は一滴も飲まず、毒の入ったババロアは俺たちと一緒に食べるつもりだった。
どうしてあなたも一緒に死のうとしたんですか? あなたが死のうとする理由が分かりません。あなたが死ねば、天頂の儀は行えない。アステール首長マリは存在できない」




