4話
あちこちに石ころが転がっている。気を抜いて歩けば、高確率で足を挫くだろう。
そんな地面を見下ろして、サクは再び顔を上げた。
――広い。
パッと浮かんだ感想は、それだけだった。
見渡す限り、草。短く刈り上げられたように見える雑多な草たちが、風に小さく揺れている。だが、よく見ると、ところどころ地面の土がむき出しになっている。草原というよりは、空き地だった。
「ん〜」
サクの隣でアサヒが伸びをした。背後を、さっきまで乗っていたバスが過ぎ去っていく。バスは“空き地”で方向転換したあと、来た道を戻っていったのだった。
サクは地面にカバンをどさりと置いて、腕時計の針が指す方角に体を向けた。
バスで来た道は、今立っている場所から数歩先のところで途切れていた。その先にはいくつもの広い畑があり、さらに奥には山脈が見える。
右に目を向けると、岩の断崖がその山脈の方へと、うねりながら伸びていた。それに沿うように、道が続いている。
「まだ先なのか……」
サクは小さく呟いた。
「まだ先みたいだね」
小鳥のさえずりみたいな声で、アサヒが言った。
そんなに近くじゃないという彼女の予想は当たっていた。また予想を聞いてみるか。
サクは遠くに見える山脈を指差した。
「あの山よりも向こうだと思う?」
「う〜ん。わからないけど、そうだと思う。けど、わからない」
「どっちだよ」
サクはため息をつくと、一拍置いてから、再び口を開いた。
「……あのさ、この時計の針が指す方に何がある?」
言いながら、鼓動が徐々に速くなっていくのを感じた。
体が、心が、勝手に緊張する。
「知らない」
アサヒはあっさりと答えた。
「え?」
予想外の返答に、サクの緊張は一気に解けた。
てっきり知っていると思っていた。驚きで呆けていると、
「会いたい人がいるの」
アサヒが遠くを見つめながら言った。
「時計の針が指す方に何があるのかは、わたしも知らない。でも、そこに行けば、その人に会えるかもしれない。……先生が約束してくれたから」
そう言って、口をつぐんだ。青く澄んだ瞳は微動だにせず、前を見つめていた。
会いたい人? 約束? あまりにも漠然としている。
詳しいことを言いたくなくて、わざとぼかしているのか。それとも単にそういう喋り方なのか。出会って一日では分からない。
サクは詳細を尋ねようか迷った末にやめた。父と彼女の関係に、今はまだ、踏み込む勇気が持てなかった。それに……。
――喉が渇いた。腹が減った。目的地はまだまだ先だ?
ここまで無計画で来た。先へ先へと進んで、目的地にたどり着きさえすればいいと思っていた。甘かった。このまま歩いて突き進めば、途中で野垂れ死ぬだろう……。
最悪の場面を想像して、サクは顔を青くした。空腹と喉の渇きで、さらに血の気が引いていく。
カバンの中に食べ物や飲み物がないことは分かっている。
あたりを見回す。前方に建物らしき物はない。人影もない。後方には、
「何かある」
サクはすぐにカバンを持ち上げ、目に入った茶色い建物に近寄った。バスを降りた時とは反対側の道路脇に、小さな小屋が佇んでいた。
サクのすぐ後ろでアサヒが呟いた。
「これってバス停? こんなにちゃんとしたバス停があるなんて、降りた時には気づかなかった」
「うん……」
それはバスの待合小屋だった。入り口は広く、分厚い板の壁が三方を囲っている。古びてはいるが、頑丈な造りであることは見て取れた。
その小屋で、サクは食料を見つけた。
「キャベツが座っている……」
塗料がところどころ剥がれたベンチの上に、キャベツが三つ並んでいた。
サクはベンチの後ろの壁に目を向けた。何やら貼り紙がしてある。近づいて、書かれている文字を読む。
『←お代はあちらの自動販売機に』
お代ということは、このキャベツは売り物なのか。
矢印の方向を見ると、ゴミ箱の横に年季の入った赤い自動販売機があった。歩いてそちらへ寄る。ちょうど目線の高さに、見本の瓶と缶が二段に分かれて並んでいた。
重いカバンを肩から下ろし、左から右へと視線を動かす。
瓶瓶瓶瓶缶缶缶
瓶缶瓶缶瓶瓶瓶
この順で並んでいることだけはわかった。
どの商品もラベルの文字が薄くなっていて、読み取ることができない。そもそも稼働しているかどうかすら怪しい。
単に料金箱代わりなのか? いや、それならそう書いてあるはずだ。本当に稼働しているとして、キャベツが欲しかったら飲み物を買えということだろうか。
サクは首をひねった。もっと注意深く観察しようと思ったが、
「ぐぅぅ」
腹から唸るような音が鳴った。限界だ。空腹で頭がまともに働かない。
「お腹空いたなら、このキャベツ食べちゃえば?」
アサヒはそう言うと、ベンチの上からキャベツをひょいと持ち上げた。片手で抱えるように持ち直し、もう一方の手で葉をめきっとはがす。その葉は流れるように彼女の口の中に入っていった。
「ちょっ。何勝手に食べて――」
「ん? サクも食べるでしょ?」
「代金払ってないんだけど」
「後払いじゃだめ?」
アサヒは小さく首を傾けた。
「おいしいよっ」
そう言ってすぐに、パリッと音を立てる。葉は一定の速度で、途切れることなく彼女の口に吸い込まれていった。
サクはごくりと唾を飲み込んだ。今までこんなにも生のキャベツをおいしそうだと思ったことはない。
気がつくと、まるでうさぎか何かのように、むしゃむしゃとキャベツを頬張っていた。
確かにおいしかった。芯は噛むほどに甘く、葉は先端までみずみずしかった。とはいえ、もし空腹でなかったなら、キャベツを一玉まるごと食べたりはしなかっただろう。
そんな感想を心中で述べながら、サクは例の自動販売機と対峙していた。
「硬貨、持ってないんだよな」
「紙幣じゃだめなの?」
「駄目ではないだろうけど……」
紙幣投入口はある。問題は、ちゃんとおつりが出てくるかどうかだった。
サクは目の前に立つ、赤い物体を観察した。背面を覗き込む。電源コードは後ろの壁のコンセントにつながっていた。
一応は稼働しているようだ。とはいえ、紙幣を入れるのは気が引けた。
この先どう進むか、これから考えなくてはならない。資産は少しでも多く残しておきたい。
このまま立ち去ってしまおうかとも考えた。たかがキャベツ二つ。たかが二百エルン。しかし、それは駄目だと良心が咎める。
サクはとりあえず財布を手に持とうと、地面に置いたカバンを開けた。
途端、「あっ」と声が口から飛び出しそうになった。目線は財布の下にある、黒い箱に向いていた。
――いざという時にはこれで……。
サクは財布から千エルン札を取り出すと、自動販売機の紙幣投入口に入れた。紙幣はそのまますいすいと吸い込まれていった。
「ボタン、押すんだよな?」
稼働しているということは、ボタンを押せば商品が出てくるはず。だが、この古びた機械では、そんな当たり前のことすら疑わしく思える。
サクは人差し指をボタンの上で滑らせた。どうせなら、ちゃんと飲める物が欲しい。キャベツで少しは喉の渇きが癒えたものの、体はまだ水分を欲していた。
「瓶か缶ってことしか分からないってどういうことだよ。売る気あるのか?」
人差し指がふらふらふらふらと彷徨う。
「えいっ」
サクが「え?」と言ったのと、ゴトンと音がしたのは同時だった。
「悩みすぎだよ」
アサヒはボタンから指を離すと、出てきた瓶を拾い上げた。
「はいっ」
手渡されたのは、冷たいジンジャーエールだった。
サクは手に持った瓶の蓋を、自動販売機に備えつけられた栓抜きにひっかけて開けた。その瓶を傾け、一気に飲み干す。
予想外に炭酸が抜けていて、ぱっとしない味だった。けれどそのおかげで、喉につっかえることなく流し込めた。
何はともあれ、喉の渇きは解消した。
サクはおつりを出そうと、意気込んで返却レバーを下げた。
……が、何も出てこない。数回試してみたものの……。
「嘘だろ」
何度やってもおつりは出てこなかった。ちゃんと飲み物が出てきて、注意書きも何もないあたり、杞憂だと思っていたのに。
「どうしたの?」
アサヒが不思議そうに首を傾げて言った。
「いや、別に」
ごまかすサクに、
「おつりは?」
アサヒは間髪を入れずに言った。その口ぶりは、まるで自分のお金の心配をしているかのようだった。
――財布に入れた覚えがないとはいえ、一応俺の金なんだけど。
苛立つ気持ちを隠し、サクはアサヒに向き直って真顔で答えた。
「変わった自販機みたいでさ、これ。どうやら、おつりは十五分くらい経たないと落ちてこないらしい」
すると、アサヒは一瞬驚いたように自販機を見てから、
「へぇ~。十五分も待たないといけないのかぁ。そのあいだ、何してよっか?」
疑う様子もなく言った。
まさかこんな見え透いた嘘を真に受けるとは。だが、好都合だ。
サクは腕時計をちらりと見てから、切り出した。
「この先、どう進むべきか考えよう」
「どう進むべきか? 針の指す方向に向かって一直線に行けばいいんじゃない?」
「どれだけかかる? 食料は? 寝床は? 地図もないし、何の準備もせず山に入るのは無謀だろ。それに一直線に山へ入るより、ちゃんとした道を進んだ方が安全だし、早いと思う」
「そっか。言われてみれば、たしかにそうだね」
アサヒは納得したように頷いた。
「う〜ん。だけど誰もいないよ? お店も何もないし、ちゃんとした道って言っても、その道がどこかもわからないし」
言いながら、アサヒは小屋の外へ出てあたりを見回した。
サクはその隣に進み出ると、同じように顔を動かした。
「畑があるから、近くに人が住んでるとは思うんだけど。大体なんでこんな場所にバス停があるんだか」
後ろを一瞥してから、サクはアサヒに言った。
「とにかく人を探そう。それか、標識でも建物でも何でもいい。十五分間、手分けして周辺を探索しよう」
「わかった。だけど時計を持っていないから、時間は適当でいい?」
「……そういやそうだった」
十五分と言ったものの、時間を計る術がないことを忘れていた。腕時計をしているというのに。
アサヒが「じゃ、わたしはあっちを見てくるね」と言って歩き出した。その背中が十メートルほど先まで離れたのを見届けた後、サクは小屋の中へ戻った。
初めから探索するつもりなどなかった。彼女一人に任せておけばいい。目下の問題は、この自動販売機なのだから。
サクは再び自動販売機の前に立つと、腰を落として鍵穴を覗き込んだ。
――いけるか?
そばに置いてあったカバンの中に腕を入れ、取っ手を掴む。引き上げた腕にぐっと力が入った。
黒い箱が姿を現す。この工具箱が、カバンの重さの正体だった。
サクは箱の中から針金を取り出すと、適当な長さに切り、先端をペンチで曲げた。それを片手に持ち、さらに箱から精密ドライバーを取り出すと、鍵穴に差し込んだ。
指先に神経を集中させて、カチャカチャと針金を動かす。カチャカチャ、カチャカチャ。
額から汗が流れ落ちた。
三分ほど経って、カチャリと鍵の開く音がした。
「……まぁ、古い自販機だし」
苦笑いを浮かべながら、ぼそっと呟いた。
予想以上にあっさり開いた。サクは自動販売機の中から、素早く硬貨八枚と適当に選んだ飲み物を取り出すと、開けた時と同じ要領で施錠した。
おつりが出てこない原因まで確認する余裕はなかった。単純に考えれば故障だろうが、意図的におつりを出さないようにしているのではとも思う。胡散臭い自販機だ。二度と札は入れないと誓いながら、額の汗をぬぐった。
「何してるの?」
ふいに後ろから声がして、サクはビクッと跳ね上がりそうになった。
振り返ると、アサヒが目をぱちくりさせて立っていた。
サクは慌てて両手を背中に回し、手に持ったままの針金とドライバーをズボンの後ろポケットにすっと入れた。
こんなに早く戻ってくるとは思わなかった。まだ十分も経っていないような気がする。鍵穴をいじっているところを見られただろうか。
焦りが顔に出ないよう、平静を装って言う。
「荷物置きっぱなしにしてたのが気になって、早めに戻ったんだけど。思ったより早くおつりが出てきたから、財布に収めてた。……はい、これ」
サクは地面に置いた缶ジュースを拾い上げ、アサヒに渡した。
「ありがとう。ところで、それは何?」
アサヒは受け取った缶ジュースには目もくれず、工具箱に視線を向けて言った。開いたままの箱の中身を食い入るように見つめている。
「これは、その……」
サクはしゃがみこんで、箱の中をいじりながら言った。
「工具だよ。工作とか修理に使う道具。なんでカバンに入ってるのかは知らないけど、使えそうなものがあるかもしれないと思って、開けて確認してた」
「修理? サクも修理できるの?」
「えっ。あぁ」
「サクも」という言い方に、そういえば……と、サクはアサヒの右手のことを思い出して、言った。
「何でも直せるわけじゃないけど、一応。子どもの頃、あれやこれや分解しまくって、組み立ててるうちに自然と覚えた。教えてもらったりもしたけど」
「先生に?」
「先生……父さんは、指示は出すけど手は出さなかったな。あの人、不器用だったし」
「不器用」
アサヒはぼそりと呟くと、何かを思い出したようにクスクス笑った。
「たしかに不器用だった。よくシャツのボタンかけ間違えてたし」
――シャツのボタン?
父と彼女はどれほど親密な関係なのか。まさか父は彼女と……。変な想像が頭に浮かんだ。
サクは必死に邪念を振り払い、工具箱の蓋を閉めながらアサヒに言った。
「それより随分早かったけど、何か見つけた?」
「そうだった。すごい場所を見つけたの。これを飲んだら出発しよっ!」
そう言って、アサヒは手に持った缶ジュースをごくごく飲んだ。