43話
サクはベッドの上で目を覚ました。茅葺きの小屋で目覚めた時とは違い、体はどこも痛くなかった。ベッドで眠るということはこんなにも幸せなことだったのかと、しみじみ思った。
部屋を出て食事室へ行き、昨日と同じ席に座る。少ししてやってきたアサヒも、昨日と同じ椅子に座った。
白いドレスに白いエプロンをつけた女性がやってきて言った。
「朝食は白米、じゃがいもと玉ねぎのポタージュ、それからひよこ豆と白ナスの炒め物ですわ。お飲み物は何にいたしましょう? おすすめは、やはり朝と言ったら牛乳ですわ!」
白の比率が高いなとサクは思った。昨夜は冗談だと言っていたが、本当は本気だったのではないか?
「牛乳で」
サクは戸惑いながら、そう答えた。
朝食を食べ終えると、サクとアサヒは女性とともに中庭に出た。
ドレスの裾を持ち上げながら、女性が池の中へ入る。昨日と同じく、小さく水しぶきをあげながら舞う。
雲一つない、晴天だった。水面には青い空と白い建物がくっきりと映っていた。
女性は踊りを終えると、池から出てきて言った。
「水面は鏡です。わたくしは日々、水面に自分自身の姿を見ています。
幼少の頃、わたくしは病気により髪が真っ白になりました。変わってしまった自分の姿を、なかなか受け入れることができませんでした。
ある時、母がふさぎ込むわたくしをここへ連れてきてくれました。一目見て、なんて美しいのでしょうと思いました。荘厳でも華美でもありません。ただ真っ白なこの寺院と、それを映す水面を、わたくしは心の底から美しいと感じたのです」
女性は水面を見下ろすように、池の縁に立った。サクは女性と同じように水面を見下ろした。
「わたくしはここへ来て、自然と今の自分を受け入れようという気持ちになりました。それどころか、こう言っては気恥ずかしいのですが、だんだんと自分のこの姿を好きだと思うようになりました。
……お二人はいかがですか? ご自分のことはお好きですか?」
サクは戸惑い、アサヒを見た。意外にも、アサヒも同じように困惑した顔をしていた。
女性は微笑を浮かべた。
「いずれ、そのように思えるとよいですわね。……それでは今この時、命があることに感謝の祈りを捧げ、そして未来に願いましょう」
女性はサクとアサヒの背中を優しく押した。
強制的に池の中に入れられたサクは、アサヒとともにくるくると円を描くように歩いた。
――なんだこれ……。
一度目の時よりも恥ずかしさが増していた。サクは仕方なく、昨夜と同じ願いを心の中で呟いた。
アサヒは何を願っているのだろうか。ふと考えたが、尋ねようとは思わなかった。
人の領域に、安易な気持ちで立ち入ってはいけない。一定の距離は保たなければならない。
たとえこの先まだまだ、一緒だとしても。
サクは着ていた白い服から私服に着替えると、エントランスの門をくぐって寺院の外へ出た。それからアサヒとともに坂を上って、白亜の塔に向かった。
塔の内部には照明がない代わりに、ところどころに開いた小さな窓から光が差し込んでいた。
石造りの螺旋階段を一段ずつ上っていく。膝や太ももに疲労を感じ始めた頃、ようやく頂上に到着した。
緑色と土色のまだら模様の先に、地平線がはっきりと見えた。
その地平線に沿うように、ガラスでできた模造石のような、巨大な楕円の塊が横たわっていた。
サクは左腕につけた時計を見た。針は前方、西を指していた。
「あのドームみたいなところは……」
と、呟いたその時。背後でゴーンゴーンと鐘が鳴った。
「うわっ」
サクは驚いて耳を塞いだ。鐘が鳴り終わると、隣に立っていたアサヒがクスクス笑った。
「やっぱり親子だ。鐘を見てれば鳴るってわかったのに。あさっての方向を見てた誰かさんは、びっくりしちゃったみたいだね!」
「あさっての方向じゃない。西の方を見てたんだよ。時計の針がそっちを指してるから」
サクは西側に向かって移動した。その隣にアサヒが立つ。
「あれって……」
「あのドームみたいなのはたぶん、アステールだと思う。南部にあった大陸最後の王国、アステール王国。二十年前に王制は解体されて、今は特区アステールと呼ばれてる」
「特区アステール……」
アサヒはそう呟くと、まばたきもせず、ただ一直線に西のドームのようなものを見つめていた。
サクはアサヒに尋ねた。
「そういえばさっき、やっぱり親子だって言ってたけど、どういう意味?」
「先生も鐘には見向きもしないでどこかを見てたから。それで、突然鐘の音がして驚いてたの」
「へぇ……」
「でも、先生がどこを見ていたのか今わかったよ。その時先生、サクと全く同じで、西の方を見てた。きっと、あのドームを見ていたんだと思う」
サクは再びゆっくりと、西に鎮座するドームを見つめた。父と同じように。
しかし、どんなに目を凝らしても、父があのドームを見つめていた理由は分からない。
「なんで父さんは……」
アサヒは小さく首を横に振った。
「わからない。わたしは先生と、ここで別れてしまったから」
「えっ?」
サクは驚き、アサヒを見た。アサヒは寂しさの滲んだ微笑みを浮かべながら、呟くように言った。
「先生はここでわたしに“希望”をくれた。だからわたしは、別々の道を歩くことにしたの……」
アサヒはじっとサクの腕時計を見つめ、それから再び西のドームに目を向けた。
「行こう、サク。先生はきっとあの場所に向かったと思うから」
サクは深く頷くと、射るような目で西のドームを見つめた。
「行こう。アステールに」
寺院に戻ったサクは、宿泊代を払おうとカバンから財布を取り出した。
女性は笑顔で言った。
「お二人合わせて、二千エルンですわ」
「え……安すぎませんか?」
「そうでしょうか。ですが、先ほどお告げがございましたので。お宿代はお一人千エルン頂戴するようにと」
「なるほど、お告げですか」
「それはそれは」とアサヒが同調するように言った。
サクとアサヒはそれぞれ千エルンずつ支払った。
――ありがとう、お告げの人。
サクは心の中で、感謝の祈りを捧げた。
寺院を出たサクとアサヒは、女性に案内されて、バスの停留所にやってきた。
そこには定員三十名程度の中型バスが停まっていた。
運転手がわざわざ降りてきて、女性にお辞儀した。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます。今日は、大変喜ばしいことにお客様がいらっしゃいますのよ」
「さようでございますか! では、本日は正規のルートで――」
「はい?」
「本日も清く正しく、決して道を誤ることなく、安全運転を心がける所存でございます」
「はい。今日もいつも通り、よろしくお願いしますね」
運転手は一礼すると、くるりと背を向けてバスに乗り込んでいった。
女性はサクとアサヒに言った。
「お二人は、これからどちらへ向かわれるご予定なのですか?」
「アステールです」
と、二人は同時に答えた。
「まぁ! でしたら、本当によかったですわ。このバスはまっすぐ南へ向かいます。到着した駅から高架鉄道に乗り換えていただければ、アステールまですぐですわ」
サクはほっと息をついた。ここへ来た時のように、野宿をする心配はなさそうだ。
女性は両手を合わせて笑顔で言った。
「わたくしの母はアステール首長、マリ様と親交がありまして、わたくしも何度か行ったことがあります。お二人は、アステールに行かれるのは初めてですか?」
「はい」と、サクとアサヒはまたも同時に答えた。
「そうですか。とても素敵な場所ですから、お二人もきっとお気に召すと思いますわ! それでは、よい旅を」
「はい。ありがとうございます」
サクは女性に礼を言うと、バスに乗り込んだ。乗客のいない車内を見回してから、適当に選んだ席に座る。隣にアサヒが座った。
バスはブザーを鳴らしてドアを閉じると、すぐに発車した。
サクはぼそりとアサヒに言った。
「誰もいないんだから、わざわざ隣に座らなくてもよかったのに」
「どうして? いつも隣に座ってるのに」
「それは、そうだけど……」
変なことを言ってしまったと、サクは一瞬後悔した。
南部へ入ってから、アサヒとの距離を縮めすぎてしまったと思っていた。
近づきすぎては駄目だ。一定の距離は保たなければならない。そう意識するあまり、突然突き放すような言葉を口にしてしまった。
アサヒが困惑した顔で言った。
「嫌なの?」
サクは焦りつつも、頭に浮かんだ言い訳を口にした。
「嫌ってわけじゃない。少し寝ようと思って、そっちに倒れかかるかもしれないから、離れた席に座った方がいいんじゃないかって思っただけだよ」
「大丈夫! 倒れかかってきたら受け止めるから」
「いや、大丈夫って……」
本当は寝るつもりなどなかった。さらに言えば、アサヒの方こそ倒れかかってくるのではないかと思っていた。
アサヒはじっとサクを見つめて、真剣な表情で言った。
「わたしは、出来る限りサクのそばにいたい。……たとえサクが嫌でも」
その言葉に、サクは無意識に息を止めた。
慌てて窓の外に顔を向け、息継ぎするように呼吸する。
背後でアサヒが言った。
「まだ発車したばかりなのに、もう乗り物酔いしたの?」
「……してない」
サクは外の景色をじっと眺めながら、熱くなった頭でぐるぐると考えた。
近づきすぎては駄目だ。一定の距離は保たなければならない。
そもそも、なぜアサヒは自分のそばにいたがるのか。寂しがり屋なのか。一人だと不安なのか。
父とあの塔で別れたあと、アサヒはどうしたんだろうか。家に帰ったのか。あんな辺鄙な場所から一人で……?
アサヒは自分のことをあまり話さない。
自宅がどこにあるのかも、家族構成も、サクはアサヒのことをほとんど何も知らなかった。
しかし自分のことを積極的に話さないのは、サクも同じだった。
知られて困ることがそれほどあるわけでもない。ただ話さないことで、知られないことで、アサヒとの距離を保てると考えていた。
だから、こちらからも尋ねない。知ろうとすることは、近づくということなのだから。
近づきすぎては駄目だ。一定の距離は保たなければならない。
近づかれたら、逃げるしかない。逃げるしか。
その時、サクの肩にコツンと何かが当たった。
ゆっくりと顔を向ける。アサヒがすぅすぅと寝息を立てながら、寄りかかっていた。
いつもの三つ編み。いつもの無防備な寝顔。
――逃げられない……。
サクは「はぁ」と大きくため息をついて、左腕の時計を見た。
父からもらったこの時計が唯一、自分と彼女を繋ぐものである。それぞれが、それぞれの目的のため、この時計に従っている。
結果的に一緒にいるだけ。それだけの関係だ。
サクはまた、窓の外を見た。
『この時計を絶対に手放すな』
失踪から一年後。突然戻ってきた父は病床で、苦しそうに息をしながら、それでも力のこもった声でそう言った。
『たとえ壊れても絶対に手放すな。手放したら……お前の負けだ』
父は念を押すようにそう言うと、微かに笑った。
負けたらなんだ。勝ち負けになんの意味がある。
怒りが湧き、父の枕元に時計を投げつけた。
当てつけだった。勝負なんてどうせいつもの冗談だ。
こんな時でも冗談ばかり言う父に、全身の血が逆流したかと思うほど、腹が立った。何もかも反抗したい気持ちだった。
約束を交わしたつもりはない。勝負を受けたつもりもない。だが結局、父の言葉を守っている。
腕時計は今もここにある。だから、
「まだ負けてないよな」
窓の外から、むわっとした草いきれが忍び込んできた。
バスは南に向かって、静かに走り続けた。




