42話
日が暮れる少し前。サクたちは無事、『ハルモニア寺院』に到着した。
サクは一応確認した。
「ここで合ってる?」
「うん……」
アサヒは感慨深げな表情で塔を見上げていた。
その白亜の塔は、草原の中にぽつんとあった。そこから少し離れた坂の下に、寺院本体らしき、大きな建造物があった。
サクは塔の入口から中を覗いた。そこに明かりと呼べる物はなく、小さな窓から夕陽がわずかに差し込むだけだった。
今から登っても、途中で陽が沈んでしまうだろう。そうなれば、上まで登るのは不可能だ。夜が明けるまで中で待つしかない。
――二日連続硬い床の上で寝るのか……。
心の中で呟いた直後、アサヒが言った。
「そういえば、前に来た時は先生とあっちの建物に泊まったよ」
「え……泊まれるの?」
「うんっ」
「そういうことは早く言ってくれ」
サクはくるりと塔に背を向け、歩き出した。
その建物は、塔と同じく白かった。ただし完全に陽が沈んだ今では、それがどれほどの白さなのか正確には分からなかった。
建物の周りを、人工的で直線的な池が囲んでいる。その中央に架かっている橋を渡り、エントランスの門をくぐる。靴を脱いでから、サクはおそるおそる中へ入った。
「質素だな……」
もっと荘厳な感じかと思っていたが、そうではなかった。外観と同じく、白い床。白い壁。白い柱。並んでいるベンチまでもが、白だった。
照明はほとんどなく、代わりに、高い天井に開いた大きな窓からわずかな星明かりが差し込んでいた。
さらに奥に向かって数歩歩く。突然、隣を歩いていたアサヒが立ち止まった。あたりを見回すように首を左右に振る。
「どうかした?」とサクは尋ねた。
「誰かに見られてるような気がして……」
「そうか? 人がいるなら出てくると思うけど」
「そうだよね。入っちゃいけない場所ではないはずだし」
アサヒはそう言うと、誰かに呼びかけるように声を張り上げた。
「こんばんは!」
声は高い天井に反響した。が、応答はなかった。
「誰もいないんじゃないか?」
「そんなはずないと思うけど……。こんばんは! 誰かいませんか?」
二度目の呼びかけに、今度は応答があった。
「はい」
奥から出てきたのは、若い女性だった。肌は白く、髪も長くて白く、そして白のロングドレスのような服装をしていた。
――何から何まで白い……。
サクは内心不気味に思った。アサヒが一歩進み出て言った。
「突然すみません。今晩、こちらに泊まらせてくれませんか?」
「まぁ! もちろんですとも。嬉しいですわ! 宿泊のお客様なんていつ以来かしら」
女性は微笑を浮かべると、サクとアサヒにベンチに座って少し待っているように言った。
そのあいだ、アサヒは何か気がかりな様子であたりを見回すように首を動かした。
「……やっぱり、誰かに見られてる気がしない?」
「さっきの人じゃなくて?」
「ううん。違う人だと思う」
その時、ガタッと物音がした。女性が歩いて行った方向とは別の方向からだった。
誰かいる。そう認識した途端、サクは背筋にゾワッと寒気が走るのを感じた。立ち上がって周囲を見回す。しかし、人影は見つからなかった。
しばらくして、女性が手に白い布を持って戻ってきた。
「まずは身を清めていただきますわ。そのあとこちらに着替えていただいて、それからお部屋にご案内いたしますわね」
「はい」
サクとアサヒは女性のあとをついて、白いタイルの廊下を歩いた。
その途中、女性が「そうですわ!」と言って立ち止まった。
「お食事はなさいますか? 大層なものはご用意できませんが……」
「はいっ」
「ぜひ、お願いします」
と、二人は答えた。女性は嬉しそうに微笑んで、「かしこまりました」と言った。
案内されたシャワールームで、サクは汗を流した。
ぬるい水のような湯を全身に浴びる。火照った体にはちょうどいい温度だった。
蛇口を閉め、ほっと安堵のため息をつく。これで自分の汗の臭いを気にする必要はなくなった。
線路を歩いていた時、とにかく早く汗を流したいと思っていた。Tシャツが張りつく不快感よりも、自分の汗の臭いの方が気になっていた。
サクはタオルで頭を拭きながら、手洗い場の鏡の前に立った。
「トイレに行きたい時の顔ってどんな顔だよ……」
呟くと、父の顔が浮かんだ。
ここには以前、父が泊まっていた。さっきのシャワールームも、この手洗い場も使っていたかもしれない。
そんな風に考えると、なんとも言えない気持ちになった。
カントの喫茶店やトーハの屋台では、そんなことは気にしなかった。父が座っていた席に座っても、父に対して何かを思うことはなかった。それも本当は、抑え込んでいただけかもしれない。
この建物のエントランスに続く橋を渡る直前、腕時計を確認した。針は「9」――前方ではなく左を指した。
つまりここには、父の過去を知る「何か」は存在しない。
そのこともあって、急に緊張の糸が切れてしまったのだろう。
――感傷的になるな。
サクはそう自分に言い聞かせ、脱衣所を出た。
星空の下に、プールのような池が広がっていた。建物を囲んでいるものとは別の、浅い池だった。
この建物はロの字型の構造をしていて、今いる中庭とエントランスを直線で結んだところに、休憩所が併設されたシャワールームがあった。その休憩所から直接、この中庭に出ることができた。
広い池の中を、アサヒが白いワンピースの裾を持ち上げながら、ちゃぷちゃぷと音を鳴らして歩いていた。
「何してるの?」
「お願いごとだよ。前に来た時に、礼拝のやり方を教わったの。水の中を円を描くように歩くんだって。本当は踊るのが正式なやり方らしいんだけど……」
サクは池の縁に立って、歩き続けるアサヒをぼんやりと見ていた。
すると、アサヒが近づいてきて言った。
「わたしに何かついてる?」
「見てません」
サクは咄嗟に目を逸らした。
「あ! 見てたってことだ! 頭のてっぺんから足のつま先までジロジロ見てたんだ!」
「わざわざ変態っぽく言うな。いつも青っぽい服着てるから、珍しいと思っただけだよ」
アサヒは自分の服装を見下ろして言った。
「変かな?」
「別に変じゃない」
「よかった! サクも珍しいね、全身真っ白で」
「あぁ……」
真っ白な半袖Tシャツと七分丈のズボン。それが似合っているかどうかは訊かなかった。興味もなかった。が、なんとなく不気味だと思った。
――なんで全身真っ白なんだ。
「サク!」
突然、サクはアサヒに腕を掴まれた。そしてそのまま池の中へ引きずり込まれた。
「何するんだよ! こけてびしょ濡れになるところだっただろ。さっきシャワー浴びたばっかりなのに」
「だって、お願いごとしてないでしょ? 先生もやってたよ」
サクは口を閉ざした。
父は一体、ここで何を願っていたのか。考えたところで分かるはずがなかった。
ゆっくりと足を踏み出しながら、心の中で呟く。
――父さん、教えてくれ。なんでいなくなったんだ……。
それを知ることが、サクにとって唯一の願いだった。
池から上がったところで、先ほどの女性がやってきた。
「今この時、命があることに感謝の祈りを捧げ、そして未来に願いましたか?」
サクは若干身を引きながら「……はい」と答えた。
「あら、そんなに身構えなくても大丈夫ですわ。見たところあまり信仰心をお持ちではないようですね。
ですが、何の問題もありませんわ。ここは寺院でありながら、特定の宗教に属さない、ただ祈り、願うだけの場所ですから」
女性はそう言うと、ドレスの裾を両手で持ち上げて池の中へ入った。そして小さく水しぶきをあげながら、くるくると踊るように回った。優雅で美しく、その姿はまるで白鳥のようだった。
サクは思わず見とれてしまった。隣でアサヒが「きれい」と呟いた。
女性は池から上がってくると、膝を曲げ、丁寧に礼をした。
「それでは、お部屋にご案内いたしますわ。すぐにお食事の用意をいたしますから、お荷物を置かれましたら、ぜひ食事室へお越しください」
サクは机とベッドがあるだけの狭い部屋にカバンを置くと、言われた通りに食事室へ向かった。
そこは二十畳ほどの空間だった。またもや壁も床も、テーブルも椅子も、何もかもが白かった。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
サクは案内されるまま、背もたれの高い椅子に座った。隣にアサヒが座った。
女性は微笑を浮かべて言った。
「それではお食事をお持ちしますね。献立はマカロニサラダ、白身魚のムニエル、カルボナーラ、それからココナッツミルクですわ」
サクは何も言わずに固まった。
「嘘ですわ」
「なんだ、嘘か……」
「申し訳ありません。久々のお客様に浮かれて冗談を言ってしまいました。本日のメニューはトマトとバジルの冷製パスタですわ。お飲み物は何にいたしましょうか? おすすめはココナッツミルクですわ」
「美味しそう! それでお願いします!」とアサヒが言った。
「すみません、水でお願いします」とサクは言った。
すかさずアサヒが言った。
「サクは甘いものが苦手なので」
「かしこまりました。ではココナッツミルクとお水をお持ちいたしますわ。牛乳もございますが、よろしければお持ちしましょうか?」
「……はい」
何がなんでも白い物を摂取しなければならないようだと、サクは悟った。
手の込んだ料理ではなかったが、とても美味しかった。
皿を下げに来た女性に、サクとアサヒは「ごちそうさまでした」と言った。
「喜んでいただけて何よりですわ。出来ることならもっとたくさん料理をお出ししたかったのですが、準備に時間がかかってしまうため断念いたしました。申し訳ありません」
謝る女性に、アサヒが言った。
「そんな、十分美味しかったです! 満足です! 満腹です!」
サクも付け加えるように言った。
「夜に突然やってきて、無茶なお願いをしたのは俺たちなので……」
「無茶だなんて、そんなことはありませんわ。……ところで、お二人はなぜここへ?」
しどろもどろになりながら、サクは答えた。
「えっと、その……鐘の鳴る塔に登りたくて。近くまでは行ったんですけど、登っているあいだに陽が沈みそうだったので、明日にしました」
「坂を上って、塔まで行かれたのですか?」
「いえ、塔の向こうの線路を歩いて来て……」
「まぁ!」
女性は驚いたように目を見開き、両手で口元を押さえた。
「驚きましたわ。まさかあの廃線跡を歩いていらっしゃったなんて……。
もう何年も前のことですが、以前はあの塔まで列車が走っていました。この近くには小さな集落があって、そこに住んでいらした方々が利用していたそうです。
ですが、その集落は森林火災によって無くなってしまいました。残されたのは塔とこの建物のみ。元より滅多に人の来ない場所ですから、すぐに廃線になることが決まってしまったのです」
「そう、だったんですか……」
サクが呟くと、女性は微笑を浮かべて言った。
「取り残されたこの白くて美しい寺院を、母がわたくしのために買ってくれました。調和を重んじる母は、この寺院をとても気に入っていたのです。わたくしは、母と日々感謝の祈りを捧げ、未来に願うことを約束しました」
サクは口をあんぐりと開けた。アサヒが驚いた声で言った。
「つまり、ここはお姉さんの家ってことですか?」
「はい」
「他に誰か住んでるんですか?」
「いいえ、わたくしだけですわ。身の回りのことはすべて自分でやると決めているのです。ですから、執事も家政婦もここにはおりませんわ。
先ほどお出しした料理もわたくしが作りました。本当はカルボナーラを作りたかったのですが、トマトとバジルの冷製パスタを作るようにと、お告げがあったものですから」
「お告げ……」
サクとアサヒは声を揃えて呟いた。
「はい。材料とレシピを頂きました」
誰にとは、あえて尋ねなかった。ベンチに座っていた時に感じた視線の正体が分かった気がした。
サクは女性に謝った。
「すみません、人の家だとは思わなくて」
「とんでもありませんわ。ここは元々、調和の寺院。誰をも拒むことなく、全ての人が祈りを捧げ、未来に願うことの出来る場所。それは今も変わりませんわ。
ですから、大歓迎なのです。ただ残念なことに、あまり人がいらっしゃいません。やはり宣伝が必要なのでしょうか……」
それは場所が場所だからではとサクは思った。アサヒが言った。
「たくさんの人に来て欲しいんですか?」
「もちろんですとも。この白く美しい場所を、一人でも多くの方に知っていただきたいのですわ! 手始めに、主要駅からバスを運行させてみたのですが、利用状況は芳しくありません。一体どうしたらよいのでしょう……」
「バス……バス……バス……」
サクは「バス」と連呼した。女性は微笑んで言った。
「帰りはぜひバスをお使いくださいね」
「……はい」
その時、アサヒが何かを閃いたように「あっ」と声を出した。
「お姉さんの踊りを見せるのはどうですか? さっきの踊り、本当にきれいでした」
「踊りで人を呼び込む……ということでしょうか? わたくし一人の踊りだけでは、地味ではないでしょうか?」
サクはそうだよなと思いながら、ひとりごとを言うように呟いた。
「せめて音楽があればな……。それに一人じゃなくて、もっと大勢で踊った方が……」
「それですわ!」
女性は両手を胸の前で握りしめ、目を輝かせた。
「わたくし、どこかで聞いたことがあります。人々が熱狂する音楽の祭典――フェスですわ!」
アサヒが声をあげた。
「楽しそう! みんなで水の中をちゃぷちゃぷしながら演奏を聞いたり、踊ったりするんですか?」
「そうですわ……まさしく、ちゃぷちゃぷフェスですわ!」
いいのかそれで? とサクは心の中で呟いた。
遠くで「お嬢様」と言いながらすすり泣く声が聞こえた――ような気がした。




