41話
陽が沈みかけていた。
サクは駅前のロータリー近くにあるベンチに座って、頭を抱えた。
――もう一度思い出せ。
昼に食堂で支払った時には、たしかに財布はあった。カドをテーブルに残し、アサヒとともに食券を買いに行った。
そのあと財布をズボンの後ろポケットに入れた。いつもはすぐにカバンに収めるが、その時はたまたま忘れていて、ポケットに入れっぱなしにしていた。
もし落としたなら食堂か、もしくは駅までの道のどこかだ。だが、捜しても捜しても、財布は見つからなかった。
落とした財布を誰かに盗まれたか。あるいは最初から、ポケットにあったのをすられたか。
魔法を使って捜すことも考えた。しかし、そこまでの大金が入っていたわけでもない。なくした財布のために、代償を払うのはためらわれた。
隣に座っていたアサヒが呟いた。
「どうしよう……。このまま進んでも、わたしの所持金だけじゃ厳しいよね」
「この度はご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません」
サクは頭を抱えたまま、「はぁー」と長いため息をついた。
砂埃に覆われた地面を見つめながら、ひとりごとを呟く。
「本当にどうするか……」
すると突然、視界に影が差し込んだ。サクはゆっくりと顔を上げた。
目の前に、銀髪で眼鏡の男が立っていた。
「カドさん……」
「腑抜けた面しやがって。ほら」
手渡されたのは、黒い革製の財布だった。サクはすぐにそれが自分の財布であることを認識した。
「どこでこれを?」
「ん? 食堂を出た時だが」
「え?」
「……お前。そんなんじゃ、ころっと騙されるぞ」
サクはハッと気がついて、立ち上がった。
「他人の財布盗んで何やってたんですか!」
カドはニヤリと笑った。今まで見た中で、最上級の笑顔だった。
「カジノへ行ってたんだよ。けっこう稼げたぞ。ちょっと前まで昼飯代すら持ってなかったのにな。どうやらお天道様が俺の門出を祝福してくれたみたいだ」
サクは開いた口が塞がらなかった。
「ついでにお前の所持金も増やしてやったぞ。感謝するんだな」
「どこの世界に泥棒に感謝する人間がいるんだよ!」
そう言いながら、サクは財布を開いた。札がびっしりと並んでいた。どうやら、この財布の持つ摩訶不思議な収納力はバレていないようだった。
アサヒが財布を覗き込んで、「おぉ!」と感嘆の声をあげた。
「お金持ちだ!」
「喜ぶなよ」
カドはサクの肩をぽんと叩いた。
「じゃあな。お前の父親に……ダンによろしくな」
サクは声を発しようとしたが、言葉にならなかった。
カドはそのままどこかへ消えていった。
父がもうこの世にいないことは、伝えられなかった。
駅に入ったサクは、今度こそ切符を買った。ちょうど最終列車の発車時刻まで、あと十分というところだった。
列車に乗り込みながら、アサヒが言った。
「わたしたち、ついてるねっ」
「ついてる? どこが。財布が戻ってきたのはよかったけど、はらわたは煮えくり返ったままだよ。リサはなんであんな奴のことが好きなんだか」
「う~ん。わたしにはそういう経験がないから、リサさんの気持ちはやっぱりよくわからない。サクは?」
「え……」
それはつまり、恋したことがあるか? という意味だろうかとサクは考えた。
「ノーコメントで」
「なんで?」
「そういった質問は受け付けない主義なので」
実際のところ、サクは誰かを好きになったことがまだ一度もなかった。アサヒも同じなんだなと、なんとなく安心するような気持ちがした。
列車はガタンゴトンと揺れながら走った。
丸二日かかって、とある街に到着した。そこで水や食料を買い、また列車に乗った。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
やがてとうとう、終点に到着した。列車を降りると、あたりは真っ暗闇だった。
サクはアサヒに言った。
「今夜、どこに泊まろうか」
「外じゃだめなの?」
「野宿はノー。いい加減、危ないって学んでくれない?」
「そっか……でも先生と一緒の時は野宿したよ?」
「嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。だって、あまりお金持ってなかったし、節約しないといけなかったから」
「……テントを持ってたとか?」
「ううん。買おうと思ったけど、高いからやめたって言ってた。だから、人が来そうになくて、屋根があるところを見つけたら、そこを寝床にしてたの」
父と少女が二人きり、外で寝泊まり。サクには全く想像がつかなかった。
アサヒが一歩踏み出して言った。
「とりあえず歩こ? 人が来そうになくて、屋根があるところを探そうよ」
「野宿する気満々かよ」
サクは仕方なく歩き出した。
そこは人気のない田舎町だった。
降りた駅は屋根すらない小さな無人駅で、周辺には見事に何もなかった。
駅前の舗装されていない道の脇には、だだっ広い草原があるのみだった。
ここならたしかに危険は無いかもしれない。が、そもそも寝る場所も無いかもしれない。
暗い夜道をひたすら歩く。最初は何もないと思ったが、周囲をよく見てみると、ぽつりぽつりと民家があった。
突然、アサヒが何かを見つけたように左前方を指差した。
「あ! ちょうど良さそうな建物があるよっ」
道から少し離れたところに、古びた茅葺きの小屋があった。まさしく「人が来そうになくて、屋根があるところ」だった。
中を覗いたアサヒは、「ここじゃだめ?」と遠慮がちな声で言った。
今さら遠慮されても……と思いながら、サクはため息をついて言った。
「……分かった」
「やったー!」
「そんなことで喜ぶな」
サクは小屋の中へ入った。全く使われていないのか、物は何一つ置かれていなかった。
少し埃を被った床板からは、古びた木の匂いがした。
アサヒはその床に、リュックから取り出したタオルを敷いた。
サクは驚いて言った。
「さっそく寝る気?」
「うん。だって、もう眠いから」
そう言いながら、アサヒは髪を三つ編みにして、タオルの上に寝そべった。
「おやすみ、サク。……ちゃんとわたしのそばにいてね」
暗い小屋の中。アサヒの顔はよく見えなかったが、無防備な寝顔をしていることは想像できた。
ちゃんとそばにいてというのは、一応守れということなのか? 自ら野宿を希望したくせに、どこぞのお姫様気取りか? と、サクは若干不満に思った。
仕方なくアサヒの隣にタオルを敷き、横になる。
「いてっ」
硬い床板に背骨が当たった。タオル一枚だけでは、心もとなかった。
――そもそもこの小屋って、誰かの所有物なんじゃ……。
低い天井を見上げながら、心の中で呟く。
――そうだとしたら、これって不法侵入だよな……。
まぁ、バレなければいいか。と思った。
横から、すぅすぅと静かな寝息が聞こえた。視線をそちらに向ける。
三つ編みの先についた青い花の髪飾りが、アサヒの胸の上で、湖に浮かぶ小舟のように揺らいでいた。
――父さんも、こうやって寝泊まりしてたんだよな……。
その時父は、何を考えていたのだろうか。アサヒに対して、何を思っていたのだろうか。
このままこうやって、悶々と何かを考えながら朝を迎えてしまうのではないか。
そう思ったが、サクは自分でも気づかないうちに眠ってしまっていた。
「いって……」
目を覚ました瞬間、サクは肩と背中にジンジンと鈍い痛みを感じた。肘をついて上体を起こす。
その直後、アサヒが目をこすりながら起き上がった。
「……どうしたの?」
「どうしたの? って、こんな硬い床の上で何時間も寝てたら、体が痛くなるだろ?」
アサヒはまだ眠いのか、座ったままぼーっとした表情で首を傾げた。
「あぁそうですか。なりませんか。さすが野宿のプロは違いますね」
サクは首を左右に倒したり、肩を回したりした。痛みが和らいだところで、膝に手をついて立ち上がった。
「暑くなる前に出発しよう」
道を歩いて進む。すると、しばらくして線路に出た。そこは昨日降りた駅の先にあった、廃線跡だった。
線路の上を歩きながら、サクは言った。
「この先にあるハルモニア寺院ってところに、白い塔がある。たぶんそれが、アサヒの言ってた鐘の鳴る塔だと思う」
「ハルモニア寺院……。たしかに、そんな名前だった気がする」
「ハルモニアっていうのは地名で、そこは昔、戦場だったんだよ。南部には大陸最大の王国があって、その王国が領土を広げようと侵攻し、ハルモニアは激しい戦いの場所になった……って、カントで読んだ本に書いてあった」
「そんな本読んでたの?」
「あぁ。まさか、たまたま読んだ本に書いてあったことが役に立つとは……。その戦場となったハルモニアにはのちに、寺院が建てられた。戦いで命を落とした者たちを弔うために」
「そうだったんだ……。知らなかった」
「父さんに聞かなかった? 父さんだったら、絶対に知ってると思うけど」
「う~ん。きっと、聞いたけど忘れたんだと思う」
「そうか。けど、なんで廃線になってるんだろうな。あまり有名な場所じゃないのか?」
「よく覚えてないけど、わたしが前に行った時もそんなに人はいなかったと思う。たぶんわたしと先生以外に、五人くらい?」
「そんなにマニアックなところだったのか……」
一体そこで何をしていたのか。疑問に思ったが、到着してから尋ねればいいかと思った。
蒸し暑さの中、サクは時々水を飲んで歩き続けた。
じわじわと汗が湧く。Tシャツが体の前後にぴったりと張りついた。首元をつまんで引っ張り、空気を入れようとする。しかし風が無いため、涼しさは微塵も感じられなかった。
疲れた。休みたい。涼みたい。トイレに行きたい。
心の中で、子どものようにごねた。が、口には出さなかった。
アサヒはここでも涼しげな顔をしていた。
サクはもう少し我慢しようと思った。せめてアサヒが疲れた顔を見せるまでは――。
「休憩しよっ」
突然、アサヒが立ち止まって言った。
サクは驚いてまばたきをした。アサヒはサクの顔をまじまじと見ながら言った。
「さっきからずっと休みたいって思ってたでしょ? 顔に書いてある」
「そういうアサヒは全然平気そうだけど」
「わたしもちょっと……疲れたかも」
「嘘つけ」
「サクが疲れてるなら休めばいいでしょ。ついでに、トイレにも行きたいんでしょ?」
「え……」
「顔に書いてある」
自分は一体どんな顔をしているのか。サクはすぐに鏡で自分の顔を確認したい気分だった。
「けど、ここらにはトイレなんて無いだろ……」
アサヒは顔を右に向けた。
「うん。だから、そこの茂みでどうぞ」
「どうぞじゃない!」
野宿に抵抗がなければ、外で用を足すことにも抵抗がない。一体この少女は今までどういう生活をしてきたんだろうか。
そう思いながらも、サクはカバンを地面に置いて、背の高い雑草の茂みに赴いた。
アサヒの元へ戻ったサクは、日陰を探してしばし休憩をとった。
しゃがみ込んでカバンを開ける。中から二つ缶詰を取り出した。
それは桃の缶詰だった。暑い中でも腐らせずに持ち歩ける物にしようということで、購入した物だった。
サクはアサヒに訊いた。
「白桃か黄桃、どっちがいい?」
「どう違うの?」
「さぁ? 言われてみれば、どう違うんだろう……」
「じゃあ、半分こしよっ」
フォークで半分に分けて食べることにした。
アサヒは口をもぐもぐさせて言った。
「白い方が甘いかも。サクはどっちが好き?」
「別にどっちでも」
「ふぅん。どうしてこれにしたの? 甘いもの、あまり好きじゃなかったよね?」
「そうだけど、これは別。昔、風邪をひいたときにばあちゃんがよく買ってくれた。
あと、父さんが入院してた時にも持って行ってた。父さんも甘いものは食べなかったけど、これだけは好きだったから」
ぬるくて甘いシロップが、喉に染みわたった。体にこもった熱がゆっくりと消えていく感じがした。
「そうなんだ……知らなかった。先生とサク、最初はあまり似てないって思ってたけど、やっぱり似てるね」
「そりゃあ家族なんだから、食べ物の好みくらいはある程度似るだろ」
「食べ物の好みもそうなんだけど、他のところも。カドさんもやっぱり似てるって言ってたでしょ?」
「……たとえばどういうところが?」
「たとえば……あっ。トイレに行きたい時の顔!」
ゲホッ。ゴホッ。サクは思いきりむせた。シロップが喉の奥でツンとした。
「大丈夫? 先生もよくむせてたけど、サクもよくむせるよね。やっぱり親子だから?」
「もうその話は終わり」
サクは水を飲んで立ち上がった。
「行こう。きっと、もうすぐたどり着ける」
西の方角に何かが見えた。それは白く細長く、空に向かってそびえていた。




