40話
ホテルをチェックアウトしたサクとアサヒは、川沿いを歩き、眺望用デッキの上に立った。
太陽に照らされて煌めく川を、船がスイスイと進んでいくのが見える。
サクは左肘を曲げ、時計を見た。
「たぶん、西の方を指してる」
「つまり進めってことだよね?」
「そう、だな……」
故郷のロクからここまで、時計回りに移動してきた。どうやらまだまだ先へ進めということらしい。
サクはアサヒに尋ねた。
「父さんとここへ来たことがあるって言ってたよな? ここに来たあと、どこへ行った?」
「どこ……う~ん。地名は覚えてないけど、高い塔に登ったことは覚えてるよ」
「塔?」
「うん。真っ白で、たしか鐘が鳴ってた」
「鐘の鳴る白い塔か……」
サクには一つ、心当たりがあった。方角は西。
「ひとまずそこを目指そう。……とりあえず駅に行って、そこから行けるところまで列車に乗って行こう」
「うんっ」
何度も歩いた道を歩く。
やがて、いつもの屋台街に出た。ちらりと赤いテントを見ると、椅子に「準備中」の札がぶら下がっていた。
アサヒもそれを見ていたのか、サクの隣で呟いた。
「カドさん、どこで何してるんだろう……」
「さぁな。俺達には関係ない。あの人は赤の他人なんだから」
「赤の他人じゃないよ。毎日挨拶してたし、先生の知り合いだし、リサさんの本当に好きな人なんだよ?」
「そんなことは忘れろよ。リサが忘れるって言ってるんだから。第一、リサを騙して金をせしめてた人間を、俺はいい奴扱いしないからな」
「うん……」
アサヒはうつむきがちに呟いた。
あの男のことなど、どうだっていい。そう思いながらも、サクは頭にカドの姿を浮かべた。
父を挑発し、殴ろうとし、酒を飲ませて酔わした、高慢な男の姿。
何度話しかけても「あぁ」としか答えない、気力の失せた男の姿。
カドは真面目な人間ではない。いい奴ではない。だが、悪い奴かと問われれば、そうだと即答はできない。
リサの声に振り返ることなく、眼鏡を踏みつぶした時。カドはあの時一体、何を思っていたのだろうか……。
マーケットを抜け、服屋の立ち並ぶ通りを抜けたところで、アサヒが突然「あっ!」と声を出した。
「なんだよ」
アサヒは前方を指差した。
「あの人、カドさんじゃない?」
「は? どこに……」
サクは前方を見回した。行き交う人々の中に、銀色の頭髪を見つけた。
「あんな遠くの後ろ姿じゃ分からない」
「近づいてみたらわかるかも」
サクはため息をついて言った。
「分かったよ。近くに寄ってみよう。どうせ進む方向は同じなんだし」
早歩きですぐ後ろまで近づいて、サクは確信した。その人物は、間違いなくカドだった。
よれたTシャツと半ズボン。薄汚れたサンダル。どれも見覚えのあるものだった。
カドはあの店で眼鏡を使ってイカサマをしていたが、大した金を得ていたわけじゃない。生活はずっとギリギリだったようだ。
カドはゆっくりと歩いていた。その足取りからは、全く気力が感じられなかった。
サクは小声でアサヒに言った。
「声かけるつもり?」
「だって屋台の店主さんがちゃんと食べてるか心配してたよ? わたしもちょっと心配」
はぁー。とサクは長いため息をついた。こんな男に時間を割くのはもったいないと思った。
アサヒは意を決したように、前を歩く背中に向かって声をかけた。
「カドさん」
カドは一瞬足を止めかけたが、聞こえていなかったかのように歩き続けた。
「無視された……」
「今までも散々無視されてきたようなもんだろ。挨拶しても、『あぁ』としか返さない人なんだから」
「そっか……そうだね! それじゃ、めげずに声をかければいいだけだよね!」
「いや、なんでだよ」
アサヒは何度も「カドさん」と声をかけた。仕方なく、サクも時々呼びかけた。
だがカドは立ち止まらず、振り返ることもなかった。
それどころか、歩くスピードが少しずつ上がっているような気がした。
「完全に疎まれてるよ。もうやめよう」
そう告げたサクの隣で、アサヒが急に何かを思いついたように、ぴたりと立ち止まった。
アサヒは口元に手をやると、大きな声で言った。
「イケメン風お兄さーん!」
「……違う。イケメン風じゃなくて、インテリ風」
「あ。間違えた」
カドは突然足を止めた。勢いよく振り返ると、ズカズカと歩いてきて言った。
「いい加減にしろよ、お前ら。一体何なんだ」
アサヒが言った。
「インテリ風お兄さん」
「言い直すな。というか、店で何度も見かけたと思ったら、お前らリサの知り合いだったんだな。屋台ではしつこく話しかけてくるし。……ったく、何の用だよ」
アサヒは「用?」と小首を傾げた。
「……あっ! ちゃんと食べてますか?」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
と答えた直後、カドの腹からぐぅぅと音が鳴った。
「なるほど。お腹が空いて、イライラしてたんですね」
あまりにも堂々としたアサヒの態度に、サクは顔を引きつらせた。
アサヒは昨日買ったばかりの中古のリュックサック(魔法で修繕済み)の中から、バナナを一本取り出した。
「どうぞ。食べ頃ですよ」
一瞬の間を置いて、カドは奪い取るようにアサヒの手からバナナを取った。そしてすぐに皮をむいて食べた。
――食べるのかよ。
バナナを食べ終えたカドは、少しだけ顔に余裕をのぞかせて言った。
「で? なんでずっと俺に付きまとってたのか、理由を訊こうか」
サクは決心して、カバンから銀縁の眼鏡を取り出した。
その瞬間、カドの表情が凍りついた。
「俺たち、この眼鏡に用があったんです。だけどもう済んだので、返します」
「……どうしてここに……壊したはずじゃ……」
「直しました」とアサヒが言った。
「直した? お前が?」
「はい」
カドは硬い表情のまま、眼鏡に手を伸ばした。その眼鏡がカドの手に渡った瞬間、サクはわざとらしい口調で言った。
「その眼鏡、すごく高そうですよね。十五万くらいはするんじゃないですか?」
「バカ言え。眼鏡がそんなに高いわけがないだろ」
「でもそれ、既製品じゃないですよね? 腕のいい職人さんが丁寧に作った物ですよね? 価値の分かる人とちゃんと取引をしたなら、元々そのくらいの値がついたんじゃないですか?」
「お前……」
「一つ聞きたいことがあるんですけど――『ダン』という名前に覚えはありますか?」
その瞬間、カドは目を大きく見開いた。
この男は父のことを覚えている。サクはそう確信した。
その時、ヒューと強い風が吹いた。上空を灰色の雲がものすごい速さで航行していた。
カドは一度空を見上げて言った。
「どうやらお天道様もお怒りみたいだな。……場所を移すぞ。ついて来い」
サクたちは、言われた通りにカドについて行った。
通りに面した、すぐ近く。広い屋根の下に丸いテーブルがいくつも並んでいた。
アサヒが見回して言った。
「ここって、食堂ですか?」
「そうだ。どうせお前らも大して金持ってないんだろ? だから安い飯で我慢してやるよ」
「我慢って……」とサクは呟いた。
「なんだ。不満でもあるのか? 俺に訊きたいことがあるんだろ?」
「さっきバナナあげたじゃないですか」
「子ザルじゃないんだ。あれで足りるわけがないだろ」
サクはまぁいいかと思った。自分もちょうど腹が空いてきた頃だった。
白米と肉団子と野菜炒めがテーブルの上に並ぶ。
カドはそれらをガツガツと口に入れ、あっという間にたいらげた。
――本当に腹が減ってたんだな。
サクは半ば呆れた目でカドを見た。
紙コップに入った水を飲んでから、カドはようやく口を開いた。
「たしか、サクとアサヒって言ったな。屋台で話してるのを聞いたから、お前らの名前は知ってる」
アサヒが笑顔で言った。
「つまり、盗み聞きしてたってことですね」
「喧嘩売ってんのか?」
カドはアサヒを睨みつけてから、サクに目を向けた。
「お前とリサの様子を見て、昔馴染みなんだろうと見当がついた。だからてっきり、リサのことで用があるんだと思ってたが……。さっき『ダン』って言ったよな? お前はアイツのなんだ?」
「息子です。ダンは、俺の父親です」
「父親!? 待て。お前歳いくつだ?」
サクは十六と言いかけたが、ここで嘘をつく意味はないと思い、正直に答えた。
カドは口元に手を置いて、眉間にしわを寄せた。
サクは小さくため息をつくと、さらに正直に言った。
「親子と言っても、血の繋がりは無いです」
「……どうりで。全く似てないと思ったよ。それにあの童貞君が、あの歳で子どもなんて」
ゴホッ。サクはわざと大きな音で咳をした。
カドはニヤリと笑った。
「にしても、女の好みはまるっきり一緒なんだな」
ゲホッ。ゴホッ。サクはさらに大きな音で咳をした。
「大丈夫?」
アサヒがそう言いながら、サクに水の入ったコップを差し出した。
サクは一気にそれを飲んで言った。
「カドさんは、父さんと親しかったんですか?」
「親しい? なわけないだろ。俺が知り合った中で最も馬の合わない奴がお前の父親だ」
サクは口元をひきつらせながら、そうだよなと思った。
カドは手元の眼鏡に目を向けた。
「アイツはなぜか俺の親父と眼鏡のことばかり訊いてきた。しつこいから最終的には話してやったよ、存分にな。代わりに少し酒を飲ませて遊んでやった。見たことあるか? お前の父親が酔っぱらうところ」
「一度だけなら」
つい昨日見たとは、もちろん言わなかった。
「面白いよな。気取ったインテリ野郎が、ちょろっと酒を飲ませただけであのザマだからな」
「そうですね」
別に面白いとは思わなかったが、同意しておいた。
「……アイツは五日連続で屋台にやって来た。明日出発するって言うから、俺はそんなに欲しいならやるよと言って、この眼鏡を渡した。だがその場ですぐに返された。
多少酔ってたから、頭が回ってなかったんだろ。ついでに説教じみたことを言いやがったから、本気で殴り飛ばしかけたな」
「説教じみたこと?」と、アサヒが尋ねた。
「あぁ。『ほんの少しでも先のことを考えてみたらどうですか』とさ」
――間違いない。父さんは眼鏡を渡されたその瞬間に、魔法をかけた。
でもなぜそんな魔法をかけたのだろうか。サクは首をひねった。
屋根を打つ雨音は、一定のリズムを刻み続けていた。
カドは店の外に顔を向けた。
「なかなか止まないな」
「そうですね」
「このままずっと、止まないかもしれないな……」
そんなわけないだろ。とサクは心の中で返した。
カドは再び手元の眼鏡に視線を落とした。
「もっと先のことを考えろってのが、親父の口癖だったんだよ。親父は俺に跡を継いで眼鏡職人になるか、それが嫌なら勉強して進学しろと口酸っぱく言った。けど俺は、とにかく勉強が嫌いだった。職人にもなりたくなかった。だからと言って、やりたいことがあるわけでもなかった。
漠然と毎日遊んで暮らせたらいいと考えていた。そのための努力は何もしなかった。最初はよかったが、すぐに苦境に陥った。金が尽きて、借金もした。それでもなんとかなるだろうと思っていた。先のことなんて、これっぽっちも考えなかった」
ゴロゴロと遠くで雷が鳴った。
「去年、親父が死んだと人づてに聞いた。親父は死ぬ直前、ずっと貯めてた金を全額どこかへ寄付したらしい。そんなに貯蓄があったことを、俺は全く知らなかった。ずっと貧乏だと思ってたからな」
サクは思った。父は眼鏡に魔法をかけることで、カドの父親の思いを代わりに伝えようとしたのではないかと。しかし残念なことに、その思いは届かず、眼鏡は悪用されてしまった。
カドは話を続けた。
「その頃になって、俺はようやく先のことを考えるようになった。まずはこの生活を終わらせないといけない。そう思ったが、心が決まらなかった。今さら真面目に働くなんて無理だと思った。
ちょうどそのタイミングで、リサが俺を食事に誘ってきた。せめて罰を受けなければならないと思って、その誘いを断り、リサとは一切関わらないことにした」
「それは――」
サクの言葉を遮って、カドは言った。
「言われなくても分かってる。結局逃げただけだ。おまけに俺のせいで、リサは……」
「うぬぼれです」
サクとカドは同時にアサヒを見た。
「それはうぬぼれです。リサさんが自分で決めてとった行動は、全てリサさんに責任があります。
それに……リサはどんなこともあなたのせいにしたりしない。絶対に」
アサヒは青く透き通った瞳をカドに向けていた。揺れることなく、真っ直ぐに。
「リサさん。わたしたちと別れる前に、後悔してることが一つだけあると言っていました。――それは、あなたに思いを伝えなかったことです」
カドは時間が止まったかのように、表情を硬直させた。
長い沈黙の中、サクは耐えきれず「カドさん」と呼びかけた。
カドは呟くように言った。
「どうして俺なんかを……」
アサヒが言った。
「カドさんも、リサさんのことが好きなんですよね?」
「それは……」
「違うんですか? 特別な好きって気持ち、わたしにはよくわからなくて……。だから間違ってたらごめんなさい」
カドはゆっくりと息を吐いた。
「あー好きだよ。けど俺は貧乏だし、働いてないし、学もないし、見た目の割に歳いってるし」
サクは言った。
「コンプレックスだらけですね」
「お前……やっぱ父親に似てるな。無性に殴り飛ばしたくなる」
「ついでに短気なところもコンプレックスに追加してください」
「お前なぁ」
「それがなんだっていうんですか? コンプレックスなら俺にもリサにもありますよ。第一、リサは全部分かったうえでカドさんのことが好きなんじゃないんですか? それなら、カドさんのコンプレックスなんてどうでもいいことなんじゃないですか?」
カドは何か言いたそうに口を動かして、つぐんだ。
サクは静かに畳みかけた。
「結局逃げてるだけですよね。いつからそんな腑抜けになったんですか? なんで何の希望も持とうとしないんですか?
先のことを考えろという言葉の意味は、未来に希望を持てということなんだと俺は思います」
なぜ自分の口からこんな言葉が出てきたのか、分からなかった。
まるで別の人物が話しているかのような不思議な感覚がした。
ただ父の顔と、父が伝えたかったであろう言葉が浮かび、気がついたら口からこぼれ出ていた。
カドは右手をゆっくりと動かした。
「未来に希望を持て……」
「大丈夫ですよ。その眼鏡をかけても、もう何も起こりませんから」
サクの言葉に、眼鏡に触れかかった手が一瞬ピクリとした。
カドは静かに眼鏡をかけると、店の外に顔を向けて呟いた。
「眩しいな。サングラスならよかったのにな」
いつの間にか雨は上がり、明るい日差しが降り注いでいた。
外へ出たサクたちは、駅前でカドと別れた。
その直前、カドにリサの居場所を知っているかと訊かれ、アサヒが紙にミヨさんの家の住所を書いて渡した。
「これでようやく出発できる」
駅へ入ったサクは、切符を買おうとカバンを開けた。ごそごそと中を探る。
硬直するサクに、アサヒが首を傾げた。
「どうしたの?」
サクはカバンから手を離し、ズボンのポケットをまさぐった。しかし何も入っていなかった。
額からこめかみを通って、汗が一滴流れ落ちた。
「財布を……なくした」




