39話
肩を揺すられる。名前を呼ばれる。正面で、アサヒが心配そうな顔で言う。
――目が覚めたなら、返事して。
「サク……サク……目が覚めたなら、返事して」
サクはびくっと肩を跳ね上げた。まばたきをしながら、右手を顔に持っていき、眼鏡に触れる。
「大丈夫?」
アサヒはサクの肩からそっと両手を離した。
「水でも飲んで、少し休んだ方がいいよ。すごく混乱してるみたいだから」
「……うん」
サクは眼鏡を外した。カバンの中に入れていたボトルの蓋を開け、水をゴクゴク飲む。
ひと息ついたところで、口を開いた。
「途中でこっちの世界に引き戻された。だから結局、父さんが眼鏡に魔法をかける瞬間は見られなかった」
「えっ。なんで?」
「なんでかは……分からない」
きっと、あまりに動揺しすぎたからだと思った。
父が挙げた女性の特徴は、今自分の前に立っている少女にぴたりと当てはまる。そのことで、感情を大きく乱されてしまった。
だが冷静になって考えてみると、あれは今から十五年前の出来事だ。当時父が好きだった女性が、アサヒであるわけがない。
サクは頭を切り替えて言った。
「父さんがこの眼鏡に何の魔法をかけたのか。幻影の中では分からなかったけど、ついさっき分かった。
この眼鏡には、一瞬だけ、数秒先の未来を見せる魔法がかかっている」
「……なるほど。透視じゃなかったんだね」
「えっ、あぁ、うん」
サクは気まずい思いでアサヒから目を逸らした。予想と異なっていたこと、よからぬ想像をしていたことを恥ずかしく思った。
「また向こうの世界に行くことはできないの?」
サクは手に持った眼鏡を、再びかけてみた。
レンズを通して川を見る。まばたきをすると、直後に一瞬だけ数秒先の未来が見えた。――魚が、同じ場所で二回跳ねた。
眼鏡を外す。
「無理だな。絵の時もそうだったけど、父さんの過去を覗けるのは一回きりらしい」
「そう……」
「だけど、かかっている魔法を解くことはできる。魔法を解いたら、次へ進もう」
「その前に、何を見たのか教えて?」
どこまで伝えるべきか。サクは悩んだ結果、父が好きだったらしい女性のことは伝えないことにした。
余計なことは言わない方がいい。そう思った。
結果的に、話は父の晒した醜態で終わった。
アサヒはクスクス笑って言った。
「見てみたかったなぁ。先生が酔っぱらうとこ」
「幻滅するだけだよ」
「幻滅? 幻滅なんてしないよ」
「実際に見てないからそんなこと言えるんだよ。あれを見たら、ショックを受けるに決まってる」
「そんなことは絶対にない。先生のことは尊敬してるけど、不器用でちょっと残念なところがあるのも知ってる。だから、そんなことでショックは受けないよ。サクは幻滅しちゃったの? お父さんなのに?」
「なわけないだろ。一緒だよ。不器用でダサいところも知ってる。だから驚きはしたけど、幻滅なんてしない」
「ほらね? わたしと一緒」
アサヒはにこりと微笑んだ。
「それにしても……カドさん、今どうしてるんだろう? あれからお店には一度も来てないみたいだし」
「あぁ。このイカサマ眼鏡を使って生計立ててたみたいだからな。どっかで真面目に働いてる……気はしないな。誰かから金巻き上げてるんじゃない?」
「そんな悪いことするような人には見えなかったけど」
「いや、するだろ。店でも殴ってたし。喧嘩強いみたいだし。というか、無理に話しかけなくてよかったよ。あんな危ない人だとは知らなかった」
「そうかなぁ? リサさんの好きな人だから、やっぱり優しい人だと思うんだけどなぁ」
――リサの好きな人……。
サクは突然思い立って言った。
「夕飯、カレーワンタン麺にしない? 屋台に行けるのも最後だと思うし」
「うん! わたしもカレーワンタン麺が食べたい!」
「じゃあそれまで、荷物の整理とか、必要な買い物をしよう。……眼鏡の魔法は、あとで解いておくよ」
この場で魔法を解くつもりだったが、どこにあざが現れるか分からないと思い、やめた。
そして、アサヒにはそういった「代償」が無いのかもしれないと思った。
椅子の回転盤を直した時も、それ以前も、一度もためらうような様子は無かった。
――そもそも直すことしかできないんだよな……。
自分と彼女とでは、使える魔法が違う。だからきっと、「代償」も違うのだろう。
道を歩きながら、サクは無意識にアサヒを見ていた。
「わたしに何かついてる?」
「え?」
「だって、ずっと見てくるから」
「見てません」
「本当に? 頭のてっぺんから足のつま先まで、ずっとジロジロ見られてる気がしたんだけど……」
「俺はそんな変態じゃない」
その時、ヒューと風が吹いた。
サクは空を見上げた。あんなに眩しかった太陽が、いつの間にか灰色の雲に覆われかけていた。
「サク」
「分かってる。雨宿りし――」
「こっち」
サクは腕を掴まれた。そのままアサヒに引っ張られ、近くの店へ入った。
割れるような雷鳴が轟き、バケツをひっくり返したような雨が降った。
アサヒが外を見ながら言った。
「うん。間に合ってよかった!」
「よくない」
「いらっしゃいませ~」
背後から、甲高い声がした。
「あら。いつぞやの」
そこはいつぞやの下着屋だった。
「ごゆっくりご覧くださいね」
女性店員は笑顔でそう言うと、店の奥へと去っていった。
サクは小声でアサヒに抗議した。
「なんでこの店にしたんだよ」
「必要な買い物をしようって、サクが言ったんでしょ?」
「……恥ずかしいとか思わないの?」
アサヒはきょとんとした顔で、首を傾げた。
「恥ずかしい?」
もしや、自分は異性として認識されていないのでは。とサクは思った。
自分だけでなく、おそらく父も。
父は、アサヒに対してどんな感情を抱いていたのだろうか……。
「俺はあっちに行ってるから。買い物が済んだら呼んで」
サクは以前来た時と同じく、花柄のワンピースがかけられている場所に移動した。
幸い、他に客はいなかった。
一瞬、アサヒが何を買おうとしているのか、のぞき見する考えがよぎったが、それでは本当に変態になってしまうと思ってやめた。
それからすぐ、アサヒは買い物袋を提げてサクの元へやってきた。
「早っ」
「もう買い物終わっちゃった。どうしよう? 雨、まだ止まないね」
「そうだな。別の店にしておけば、時間も潰せたのにな」
アサヒの目が冷たく光った。
「怒るなよ」
「怒ってません。サクがまた熱中症になってないかと思って、じーっと見ただけです」
「嘘つくな。口調がいつもと違う」
「それを言うなら、さっきわたしが訊いた時、『見てません』って答えたよね? 口調がいつもと違うけど、それならやっぱり見てたってことだよね?」
「……見てません」
「あーっ! 嘘ついた!」
「ガキかよ。本当に十六歳?」
「サクに言われたくない」
「俺はまだ、じゅう――」
「ん? じゅう何?」
「……なんでもない」
アサヒは二ッと笑って言った。
「わたしの勝ち」
「何の勝負だよ」
そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか雨は止んでいた。
サクとアサヒは店を出た。
雨上がりの匂いがゆったりと漂っていた。濡れた地面は、沈みかけた太陽の光を反射して、スパンコールのようにきらめいていた。
あれこれ買い物を済ませたあと、屋台街に到着したサクとアサヒは、赤いテントに入った。
「らっしゃい! あれ? まだ近くにいたんだ。てっきり遠くへ行ってしまったんだと思ってたよ」
サクはいつも座っていた椅子に腰掛けた。左側にカドの姿はなかった。
「すみません。だけど明日にはここを離れる予定なので、今日が本当に最後です」
「そうかい。それじゃ、うんとサービスしなくちゃねー! 飲み物はおかわり自由! 酒でもティーでも、どっちでもいいよ!」
「ティーで」とサクは即答した。アサヒも「ティーで」と言った。
店主はアハハと口を開けて笑った。
「なんか、急に昔を思い出したよ。お兄さんみたいに、絶対に酒と言わないお客さんがいてねー。カドがその人にちょっかいかけて、やられてはやり返して……。
あの頃のカドは、今と変わらずちょっとおバカだったけど、ちゃんと生きてるって感じだったのよ。要は、活力があったってことだね。
それが、どうしてあんな腑抜けになっちまったのかねー。おまけに急に来なくなってしまって」
「ここにも来てないんですか?」と、サクは驚いて言った。
「ここにもって?」
「あ、いえ。なんでもないです……」
「まったく。ちゃんと食べてるのかねー」
そう言いながら、店主はサクとアサヒのコップに茶色い液体を注いだ。
出されたカレーワンタン麺を、サクは味わって食べた。この味は一生忘れないだろうなと思った。
アサヒが二杯目のティーを飲みながら、店主に尋ねた。
「カドさんが行きそうな場所に、心当たりはないんですか? たとえば、カジノとか」
「カジノはないねー。昔ボロ負けして、借金背負って、食べる金すら失くしたんだから。
店の前でぶっ倒れてるところを、あたしが拾って食わせてやったのよ。まるで野良猫だよ。だけどタダじゃないよ? 閉店後の片づけはしっかりやってもらったからね」
「ここで働いてたんですか?」
「働いてたって言っても、お給金は払っちゃいないよ。毎日の夕飯代分、仕事してもらってたってだけで」
「そんなんで、どうやって生活してたんだよ……」
サクは無意識に呟いた。聞こえていたのか、店主が笑って言った。
「ジゴロだったのよ」
「じごろ?」
「色んな女の子に養ってもらってたってことよー」
――げっ。
喉が渇いたサクは、二杯目のティーを飲み干した。
そんな男のどこがいいのかと、リサに対して少し思った。
「でもねー」と、店主は言葉を続けた。
「さっき言った、絶対に酒と言わないお客さん。名前は忘れたけど、その人と出会ってから、カドは少し変わったのよ。たぶんあれは、対抗心だったんだろうねー。
たくさんいた女の子が一人だけになって、別れたのかいなくなって……ちょっとずつ変化が起きてるように感じたんだけどね。人に対してもそうだけど、自分に対しても真剣に向き合おうとしてるように見えたのよ。……本当に、どこに行っちまったんだかねー」
その時ふと、サクの頭に「ドブ」という言葉が浮かんだ。
南部では、自ら進んでそこに行く者はほぼいない。だが東部では、そこは「零域」と呼ばれ、吸い込まれるように行ってしまう人が後を絶たない。
何かを察知するように、嫌な予感がした。ずっとその場所の近くで暮らしていたからこそ分かる、異様な空気がふいに襲ってきたような気がした。
サクはそんな考えを振り払うかのように、三杯目のティーを飲み干した。おかげで胃の中が深いプールのようになった。
「ごちそうさまでした」
立ち上がったサクとアサヒに、店主が笑顔で言った。
「元気でねー! 近くに来ることがあれば、絶対に寄るんだよ。いいね?」
「はい」と、サクは答えた。
ホテルに戻ったサクは、部屋で一人、眼鏡を手に持った。
「なんでこんな魔法をかけたんだよ。こんな魔法をかけて、誰のためになるんだよ。リサは騙され続けて、あの人は行方知れずになった。それが父さんのせいとは思わないけど……こんな魔法はいらないんだよ」
パリンッ。何かが割れるような音がした。
サクは深く息を吐いた。眼鏡を洗面台の上に置き、Tシャツとズボンを脱ぐ。
鏡の前で全身をくまなく探したが、新しいあざは見当たらない。まさかと思い、パンツを脱いだ。
すると、尻に拳と同じ大きさのあざがあった。
――こんな場所に……。
思わず顔をしかめた。しかし、見えるところに現れなくてよかったとも思った。
これでまだ、アサヒに「代償」のことを知られずに済む。そう思った。




