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魔法使ひは時計回りに旅をする  作者: 箱いりこ
第二章 南の風が吹き荒れる
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38話

 辛味と酸味の混ざった、スパイシーな香りがした。一瞬漂ってきたその匂いだけで、口の中にカレーワンタン麺の味が広がった。

 目の前に赤いテントがあった。あたりは薄暗く、空を見ると、陽が沈みかけていた。


 ――ここは、父さんの過去の世界だ。


 そう認識した瞬間。背の高い男が真横を通って、テントに入っていった。

 赤く、癖のある髪。急いでその男――父のあとを追った。


「らっしゃい! 何飲むかい? 酒かい? ティーかい?」


 今よりも若く、今よりも痩せている女店主が言った。


「ティーで」と父は即答した。


「ティー? ……いや、ごめんよ。お兄さんみたいな若い男のお客さんはみんな酒って言うから、つい酒の入った方を持っちゃってたよ。せっかちはよくないねー。お兄さんは、酒は飲めないのかい?」


「全く飲めないというわけでは無いのですが、体質的に弱くて。すすんで飲もうとは思わないですね」


 その時、父の左隣に座っていた客がフッと鼻で笑った。


「酒が飲めないとは、腑抜けだな」


「ちょっと、カド! 他のお客さんに絡むのはよしな!」


 ――カド……?


 その客を見て、驚き、目を見張った。

 カドは今とは随分と雰囲気が異なっていた。髪型も髪色も今と同じ。服装も変わらず安っぽいTシャツ、半ズボン、サンダル。

 だが、まるで別人のようだと思った。挑戦的。高慢。怖いもの知らず。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 それに、三年前にしては若すぎるような気がした。店主も、よく見ると父も、あまりにも若い。以前カントで見た父の姿と重ね合わせても、やはり若かった。


 ――三年前じゃないのか……?


 父はカドに顔を向けると、真面目な口調で言った。


「酒に溺れて腑抜けになることはあっても、酒を飲まなくて腑抜けになることは無いと思いますよ。もし酒を飲まない腑抜けな人がいたとしても、その人が腑抜けである原因は酒を飲まないことでは無いと、断言できます」


 何言ってるんだ。挑発に乗るなよ。そう父に向かって毒づきながら、戦々恐々とカドの反応を待つ。


「ん? よく分からないな。何の話をしてるんだ?」


 そう言ったきり、カドは父と話をすることなくコップを傾けていた。傍らに置かれたどんぶり鉢は空っぽになっていた。


 カドが眼鏡をかけて屋台を出ていき、しばらくして、父も出ていった。

 慌てて父のあとを追うと、なぜか目の前に赤いテントがあった。あたりは薄暗く、空を見ると、陽が沈みかけていた。


 さっき屋台を出た時、空は一面紺色だった。陽はたしかに沈んでいた。……ということは、別の日なのか。

 そう認識した瞬間。父がテントに入っていった。慌ててあとを追った。


「らっしゃい! また来てくれたんだね! ティーでいいかい?」


「はい」


 父の左隣に座っていたカドが、フッと鼻で笑った。


「そんなんじゃ、女にモテないぞ」


「酒が飲めないと、女性に好かれないのですか?」


「そりゃそうだろ。な? そうだろ?」


 カドは店主に訊いた。


「そりゃー、あたしは飲めない男よりは飲める男がいいけどねー」


「ほらな?」


「一人の意見だけでは判断できませんよ」


「なんか腹立つな、お前。歳いくつだよ?」


「十六です」


「じゅうろく!?」


 カドと店主が驚愕した顔で言った。そして自分も、同じように驚いた。


 ――十六歳ということは、これは今から十五年前の出来事なのか。


 カドがぼそりと呟いた。


「老けてんな」


「老けてるっていうか、随分と大人びてるね……。十六歳なら、まだ酒に慣れてなくても全然おかしくないわ」


「たしかに、大人びていると言われることはよくありますね。ですが、もうれっきとした大人なので、そのように驚かれるとは思いませんでした」


 店主が苦笑いして言った。


「一応十六歳から大人ってことになっているけど、実際はねぇ。お兄さんみたいな人もいれば、カドみたいにもうすぐ二十歳になるというのに、いつまでもガキっぽい人もいるんだよ。

 このくらいの年代は一番扱いが難しいのさ。あたしは大人として見ているけどね、人によっては子どもと同じ扱いをしたりするだろう? あたし自身、昔はそれでよく困惑したよ。自分が大人なのか子どもなのか分からなくなってしまって」


「なるほど……」


「お兄さんはあまりそういう経験、なさそうだね」


 カドが口を挟んだ。


「そんなんじゃ、将来子どもが生まれた時に苦労するぞ。子どもの心がこれっぽっちも分からない親なんてな、親としては最悪なんだよ」


「それは……ものすごく困りますね」


 店主が笑った。


「お兄さん、父親になりたいんだ。今付き合ってる子とかいるのかい?」


「いえ、いません」


「なんだよ。妄想ばっかしてんじゃねぇよ。そんな暇あったら、彼女の一人や二人作っとけ」


「こら、カド。あんた今何股かけてんのよ」


「ん? いちにーさんしーごーろく……」


「バカだねー。そんなことしてたら、そのうち誰にも相手にされなくなるよ!」


「別にいいだろ? 結婚してるわけじゃないんだから。それに相手だって本気じゃない。俺、毎日こんなとこでやっすい飯食ってる貧乏人だぞ?」


「今なんて言った?」


「安くて美味しいカレーワンタン麺と言いました」


 カドは父に向かって言った。


「好みのタイプは? いたら紹介してやるよ」


「好みのタイプ?」


「なんかあるだろ? 例えば、胸がデカい子がいいとか」


「それはあんたの好みでしょ」と店主が口を挟んだ。


「胸? 僕は女性を胸の大きさで好きかどうか判断したことがないので、分かりませんね。それに、必要ありませんので紹介いただかなくて結構です」


「……ホント腹立つな、お前。なんて名前だ?」


「ダンと言います」


「ダン。覚えといてやるよ」


「……そろそろ行かないと。それじゃ、また」


 先に父が屋台から出ていった。追いかけようかと思ったが、また屋台の前に戻されるだけだろうと思い、やめた。

 銀縁の眼鏡はカドの手元にあった。カドはその眼鏡をかけると、吐き捨てるように言った。


「気取りやがって。いちいち苛つくな、アイツ」


 店主が不思議そうに眉を寄せた。


「二人ともメガネなのに、何でこんなにも印象が違うのかねー。インテリとインテリ風って感じだねー」


「……バカにしてんのか?」


「何言ってるんだい。当たり前だろう?」


 カドはマムシ酒の入ったコップを勢いよく傾けると、席を立った。


「ごちそうさん」


 屋台を出たカドは、廃墟の方角に向かって歩き出した。が、すぐに足を止めた。

 まさか自分の存在に気づいて……と一瞬身構えたが、それはありえないと思い直した。

 何かあったのだろうか。前方に回りこんでみる。

 カドは眼鏡を外すと、はぁー。と長いため息をついた。そして小声で呟いた。


「頭がよければ、カジノでもどこでもパーッと稼いで、さっさと借金も返して、気ままに遊んで暮らせるだろうになぁ」


 なわけないだろ。と思わず言ってしまった。だが、その声が届くことはなかった。


 カドは再び足を踏み出した。反射的に横へ避ける。

 すると、目の前に赤いテントがあった。あたりは薄暗く、空を見ると、陽が沈みかかっていた。


 ――はぁ……。


 少しは休ませてくれ。そう思った瞬間、父が真横を通ってテントに入っていった。

 仕方なく、あとを追った。


「らっしゃい! 三日連続で来てくれるとは、よほど気に入ってくれたんだねー。お礼にサービスしちゃうよ!」


 店主は父のコップに茶色い液体をなみなみと注いだ。

 カドが父の肩に手をかけて言った。


「茶ばっか飲んでないで、酒も飲めよ」


「いえ、結構です」


「ホント腹立つな、お前。殴っていいか? 言っとくが、俺は強いぞ。なんせ目がいいからな」


 店主が眉をひそめた。


「カド。あんた酔ってんのかい? いつもは全く酔わないのに」


 父はカドのコップの前に置かれた眼鏡に、目を向けて言った。


「目がいい……。なるほど。たしかにその眼鏡のレンズには度が入っていませんね」


「あぁ。そいつは親父が作ったんだよ。親父は眼鏡職人で、頑固なクソ野郎でな。

 そのクソ野郎が最高傑作だって自賛していたそいつを、俺はこっそり盗んで家を出た。ちなみに俺のことは最低駄作だと言っていた」


 カドは肩をひくりと上げると、言葉を続けた。


「さぞ高く売れるだろうと思いきや、全くだ。ふざけんな。どうりでうちはずっと貧乏だったわけだ。手間をかけて作っても、相応の値で売れないんじゃ意味がない。

 捨ててやろうと思ったが……眼鏡をかけた方がモテることが分かった。だから、ちょっとは役に立ったな」


 父はティーをひと口飲んで言った。


「その眼鏡、どこで売ろうとしたんですか?」


「すぐ近くのリサイクルショップだよ」


「そこだけ?」


「あぁ、そこだけだ。何箇所も回るなんて面倒くさいこと、やるわけないだろ」


「……相応の値で取引するには、相応の相手でないと駄目ですよ。もし本当に価値の分かる相手と取引したなら、だいたい十五万くらいの値がついたでしょう」


「じゅ、十五万!?」


「眼鏡にしては高いでしょうね。ましてヴィンテージという付加価値がついているわけでもない物にしては。ただし、それは職人本人が取引した場合です。あなたでは無理です」


 カドはフッと鼻で笑った。


「危うく騙されるとこだったな。そんなに高く買ってくれる客がいたなら、うちは貧乏じゃない」


「それもそうですね……。貧乏だったのには何か別の理由があるか、もしくはあなたが貧乏だと思い込んでいただけかもしれませんね」


「思い込みだと? ふざけんな。やっぱ喧嘩売ってんだろ。表出ろよ。それが嫌なら金を出せ。一万」


「……たったの一万ですか?」


 ――何言ってんだよ、父さん。


 おそるおそるカドを見た。獲物を狙う猛獣のような目が、父を見据えていた。

 その迫力に恐れをなしたのか、父は珍しく慌てた口調で言った。


「すみません。今の言葉は撤回します」


「……あ? 貧乏なめんなよ?」


「あ、いえ。僕も金持ちでは無いですよ。倹約しながら生活してますから。ただここに来て、カジノで結構稼ぐことができたので、さっきはつい『たったの一万』と言ってしまいました」


 ――あ。


 プツンと糸が切れる音がした……ような気がした。

 カドはギイッと椅子を鳴らして、立ち上がった。

 まずい。殴られる。思わず目を逸らす。父親が殴られる場面を見たくはなかった。


 その時、ゴーンと低い音が響いた。


「いってぇ」


 そう言って、カドは後頭部を両手で押さえながら椅子に座り込んだ。

 店主が大きな金属製のボウルを持って言った。


「ちょっとは酔いがさめたかい?」


「あぁ、さめたよ。完全にさめたよ。だから酒くれよ。代金はコイツに払わせるからよ」


 カドは再び父の肩に手をかけた。父は一瞬面倒くさそうな顔をしたが、構わず麺をすすっていた。

 父がどんぶり鉢を持ってスープを飲んでいるあいだに、カドはなぜか父のコップを手に取った。


「さっきは殴りかかろうとして悪かったな。ま、茶でも飲んで、男同士語り合おうじゃないか」


「語り合う……。例えばどんなことを?」


「何でもいい。女の口説き方だろうが何でも。俺に聞きたいことがあれば、質問してくれてもいいぞ。ま、とにかく茶でも飲め」


 父は勧められた通り、コップを持ってゴクゴク飲んだ。


「僕はあなたよりも、あなたのお父上に興味がありますね。これほど素晴らしい腕を持った職人なら、それなりに名を知られているんじゃないでしょうか。もしそうなら、きちんとした取引があるはずです。

 やはり貧乏は別の要因か、あなたの思い込みか……」


「ホント腹立つな、お前。俺はな、親父とは縁を切ったんだ。だから親父に関する質問は受け付けない。

 代わりに俺がお前に質問してやろう。そのフラフラした頭で答えられるかな? さて、と。あー、何の質問にしようか……」


 店主が異変に気づいた様子で言った。


「カド。あんた、まさか」


「そんな声出すなって。茶に酒をちょーっと混ぜただけなんだから。にしても、ホント弱いな」


 父は顔を真っ赤にして、右に左に体を揺らしていた。時々、あーとかうーとか声を発しながら。


 ――嘘だろ。酔ったらこんな姿になるのか。


 初めて見た父の姿に、驚き、開いた口が塞がらなかった。

 カドは父の肩を片手で押さえながら、言った。


「そうだ。昨日聞きそびれたから、この質問にしよう。――好みのタイプは? 正直に答えるんだぞ、童貞君」


 ごくりと唾を飲んだ。父から女性の話を聞いたことは一度も無かった。

 まさか、こんなところで聞くことになろうとは。

 父はカウンターに肘をついて、両手を額に当てながらぼそりぼそりと言葉を発した。


「……肌が雪のように白くて、華奢で……金髪のウェーブで、瞳は青く透き通っていて……いつも明るく笑って……」


 カドと店主は顔を見合わせた。


「なんか、やけに具体的だね……」


「あ、あぁ。好みのタイプじゃなくて、好きな女そのまんまみたいだな。ま、頑張れよ」


 そう言って、カドは父の肩を揺すった。

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