37話
サクが仕事を辞めた日と、偶然同じ日。バナナ屋の主人がバカンスから帰ってきた。
「ありがとー。本当に助かったよ。ついでに羽も伸ばせたしね! 礼にこのバナナ、持っておいき!」
サクとアサヒは、バナナをひと房ずつ受け取った。
――ラストバナナ。
これを食べきったら、もう一生バナナは食べないとサクは心に誓った。
昇ったばかりの眩しい朝陽に目を細めながら、サクは昨日もらったバナナを一本、腹におさめた。
残った皮をカバンにしまい、白く光り輝く道を歩き出す。向かう先は、『レメディ』だ。
「お邪魔します」
ゆっくりとドアを開ける。窓の無い店内は、朝であってもいつもと変わらず薄暗かった。
営業時間外のため、当然他の客はいない。静かな空間に、どこから流れているのか分からないいつものジャズの音楽だけが、ゆったりと響き渡っていた。
カウンターの内側から出てきたケイが、軽い口調で言った。
「いらっしゃーい。リサ、まだ支度中みたいだから、いつもの席に座って待ってて。あ、寝坊はしてないから大丈夫よ。さっき見てきたから」
「はい」
サクはそう答えて、いつも座っていた席に座ろうとした。その瞬間――。
ガタッ。椅子が大きく傾いた。咄嗟にカウンターに手をつかなければ、危うく落ちるところだった。
「大丈夫?」
アサヒとケイが声を揃えて言った。
サクはため息をつきながら、屈んで椅子の裏側を確認した。ついこのあいだ締めたばかりのネジが外れかかっている。それどころか、取り付けてある回転盤自体が歪んで浮き上がっていた。
あの時……カドがコトラを殴り飛ばした時。コトラと一緒に勢いよく床に打ちつけられ、歪んでしまったのだろう。
――とりあえずまたネジを締めておくか。気休めにしかならないけど。
サクはドライバーを手に持った。
「手伝おっか?」
アサヒが正面で屈んで言った。
サクは少し間を置いてから、ネジの外れた回転盤を指差した。アサヒはこくりと頷くと、右手で回転盤に触れた。
すべてのネジを締め終えたサクは、立ち上がって座面を叩いた。
「これでよし。次に壊れた時は知らないからな」
その時、店のドアが開いた。
「ゴメン。思ったより支度に時間かかっちゃった」
振り返ったサクは、しばらくぽかんと口を開けた。
「……リサ?」
「なんだー? その数年ぶりに会った時みたいな反応は」
「いや、だって。一昨日会った時と違いすぎるから」
リサはふふっと笑うと、頭に被っているキャップを脱いだ。
「髪を黒に戻して、ついでにバッサリ切っちゃいましたー! どう?」
「……うん。いいと思うよ。なんかリサって感じ」
「なにそれ、雑」
「リサさんらしくて素敵です!」
「ありがとー、アサヒちゃん! 言ってることサクちゃんとほぼ一緒だけど」
リサはアサヒの隣の席に腰掛けた。
「ケイちゃん、お水ちょーだい。のど渇いちゃった」
「はいはい」
リサは出された水を勢いよく飲み干すと、サクに顔を向けた。
「そういや、サクちゃん。なんで立ってるの?」
サクは「あっ」と思い、椅子に座った。
「椅子が壊れたから、直してたんだよ」
「えっ。またその椅子壊れたの? もうダメなのかな……」
「いや。完全復活したから当分大丈夫だよ」
「ホント? よかったー! ここで長生きするんだぞー!」
と、リサはサクの座っている椅子に向かって声をかけた。
ケイがトランプを切りながら言った。
「リサ、ちゃんとルール覚えてる? 昨日教えたやつ」
「バッチリ! カンペ見ながらやるから大丈夫!」
「つまり覚えてないってことね。……ふたりとも、ちょっとゲームに付き合ってくれない? 賭けは無しでいいから。リサに一回くらいはまともなゲームさせてあげたいんだよね」
「お願い! サクちゃん、アサヒちゃん。ここでの最後の思い出に。絶対に忘れないから」
「いいよ」
「もちろんです!」
店内を流れる音楽がいつの間にかノリのいいポップスに変わっていた。
そんなことに気づかないほど、サクたちはゲームに夢中になっていた。
ケイが近くにかけられている柱時計を見て言った。
「リサ、そろそろ」
「ホントだ! もうこんな時間」
「駅まで送らなくて本当に大丈夫?」
「うん! あたし、今までケイちゃんに頼ってばっかだったけど、これからはちゃんとしないとって思うから。だから大丈夫。……とゆうか、タクシー拾って乗るだけだし!」
リサは椅子を少しだけ回転させて、アサヒに体を向けた。
「アサヒちゃん……ありがとう。ホントに本当にありがとう……。
ゴメンね、アサヒちゃんはきっと気づいてたよね。あたしが時々アサヒちゃんと自分を比べてたこと。かわいくて、守りたくて、好きなのに。時々なんだか眩しくて、目を逸らしちゃってた。そんなことしなければ、もっとちゃんと仲良くなれたのに……」
「リサさん……」
「最後にワガママ言ってもいいかな? あたしのこと、リサって呼んでくれない? 一度だけでいいから」
アサヒはパチパチと二回まばたきをしたあと、笑顔で言った。
「リサ! わたしも好き!」
リサは椅子を下りると、力強くアサヒを抱きしめた。
「わっ」
「ふふっ。かわいいなー、もぅ」
アサヒから離れたリサは、サクに向かってニッと笑った。
サクは咄嗟に身構えた。だがそうしたところで、結果は変わらなかった。
「やめろって。抱きつくな!」
「まーまー、せっかくなんだから存分に味わいなー」
温かく、柔らかいものに包み込まれている感覚。日向に咲く花のような、優しい香りがした。
「サクちゃん」
耳元で囁かれ、ドキッとする。
「……落っこちちゃ、ダメだからね」
リサはゆっくりとサクから体を離した。近くの椅子に置いていたバッグを持ち上げる。
ケイがカウンターの内側から出てきた。サクとアサヒも椅子を下りた。
ビルの外へ出たところで、ケイが言った。
「体に気をつけてね。手紙でも電話でも何でもいいから、ちゃんと連絡してよ?」
「わかってるって」
リサはニッと笑った。その顔に、薄い影が差し込んだ。
「……あのね、ケイちゃん。あたし、一つだけ後悔してることがあるの。ちゃんとあの人に……インテリ風お兄さんに、伝えておけばよかった。――好きって」
「リサ……」
「ホント、今さらって感じなんだけどね。やっぱりストレートに言わなきゃダメだなーって実感した。こんな後悔するくらいなら、当たって砕けた方が良かった。
もうどうすることもできないけど、でも大丈夫。あたしは忘れっぽいから、きっとすぐに忘れられるよね。……それじゃ、行くね!」
リサはそう言うと、眩しい太陽に照らされた道を振り返ることなく歩いて行った。
リサを見送ったあと、サクとアサヒはそばにあった商店に寄った。
そこで買ったおにぎりを頬張りながら、サクは人通りの少ないホテル街を歩いた。
立ち並ぶホテルのうちの一軒は、昨日まで働いていた場所だった。もう二度と入ることはないであろう建物を横目に見て、少しだけ物寂しさを感じた。
最後の一口を飲み込んで、アサヒに尋ねる。
「眼鏡、直った?」
「もちろん! 今も持ってるよっ」
アサヒはそう言うと、肩にかけたポシェットを両手で持ち上げてみせた。
サクは左腕にはめた時計をちらと見て、
「じゃあ、部屋に戻って……」
そう言って口をつぐんだ。視線の先には、眺望用デッキがあった。
「ちょうどいい場所があった。あそこにしよう」
前に張り出したデッキの、真下の日陰に移動する。
サクは壁に背中を預けて、正面に立つアサヒを見た。アサヒはポシェットを開けると、中から銀色の眼鏡を取り出した。
どこにも傷は無く、その輝きからは真新しささえ感じた。
サクは肘を曲げて、腕につけた時計を見た。針は「12」を指した。
アサヒの手の上から眼鏡をつまみ上げ、しばらくじっとする。しかし、何も起こらなかった。
「……何も起こらないけど」
「眼鏡なんだから、かけなくちゃ意味ないんじゃない?」
確かにそうだ。と思ったサクは、眼鏡をかけようとした寸前で手を止めた。
透視できる眼鏡。今ここで眼鏡をかけたら――。
一瞬よからぬ想像をしてしまい、サクは頬を赤らめた。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
サクはゆっくりと深呼吸をすると、覚悟を決めて眼鏡をかけた。




