36話
アサヒは周囲にいる店のスタッフたちを差し置いて、壊れた眼鏡の破片を拾い集めた。
その行動が怪しまれないように、サクも倒れて転がっていた回転椅子を起こし、緩んだネジを締めた。
「これでよし」
立ち上がって座面を叩く。そこへ、眼鏡の破片を集め終えたアサヒが戻ってきた。
目のまわりを赤くしたまま、リサが微笑んで言った。
「ありがと……。サクちゃん、アサヒちゃん」
「ありがとね、ふたりとも。これはド変態エロメガネお姉様からのお礼」
そう言って、ケイがサクとアサヒの前にグラスを置いた。
爽やかな黄色の液体。縁にはくるりと皮の巻かれたレモンが添えられていた。
「すごいっ!」
アサヒが目を輝かせて言った。
「大げさだなぁ。ただのレモネードよ?」
「ケイちゃんは何でも出来すぎなの! あたしがいつも出してたのがしょぼいってバレちゃったじゃん」
「え? そんなにしょぼいの出してたの?」
「ひっど!」
「リサが自分で言ったんでしょ。しょぼいって」
「しょぼいわけないじゃないですか!」
ドンッとカウンターに両手をついて、アサヒが真剣な表情で言った。
「リサさんの作ったあの青いドリンクが絶対に一番です!」
ケイはふっと笑った。
「なぁんだ。じゃ、私はリサに負けたってことね。……リサ、ゴメンね」
「え? なんでケイちゃんが謝るの? さっきだって、あたしのこと助けてくれて……あ。さっきのお金、返さないと」
ケイは首を横に振った。
「返さなくていいから。お詫びのつもりでもあったし……。私、リサの気持ち、全く考えてなかった。それ以前に、何度もリサのこと馬鹿にしたような態度取ってたし」
「それはあたしが本当にバカだからで、ケイちゃんは何も悪くないよ? こうなったのも、やっぱりあたしがバカだからで……」
「バカバカって馬鹿じゃないの?」
バンッと、ケイがカウンターを叩いた。
「違う、そうじゃないの。リサは物覚えが悪いし、忘れっぽいし、それがつまり馬鹿ってことならたしかに馬鹿かもしれない。だけど、欠点なんて誰にでもあるものでしょ? リサはその欠点が自分のすべてだと思い込んでる。
リサはさ、スタイルがよくて、顔もよくて、面倒見がよくて、誰にでも優しくて、いつも明るくて。人からむしろ羨ましがられるようなところ、いっぱいあるんだよ? そこに気づいてないから、私は時々苛立ってしまうことがあった……」
リサは黙ってケイの言葉に耳を傾けていた。
「何で長所を短所で覆いつくしてしまうんだろう。何でわざわざ自分の欠点を強調するんだろうって思ってた。
口癖のことで時々怒ったりしたけど、何でかって理由を私言わなかったでしょ? 自分で気づかないと意味がないと思って、わざと言わなかったの。賭けで客に騙されてるのも知ってて言わなかった。……だから、本当にゴメン」
「……謝られたって困るよ。だって、どうすればいいの? あたし、ケイちゃんのこと嫌いになれないし、怒る気持ちすら湧いてこないし。それにやっぱり、全部あたしのせいじゃん」
リサは目に涙を浮かべていた。
「あれ、また……。ヤだなー、まだお店営業中なのに……。それにさっきので店中の人にドン引きされて、気を遣われてるのに……泣いたら余計に……」
ケイはリサを抱き寄せると、そっと頭をさすった。
リサはしばらくのあいだ、肩を震わせていた。
「はぁー。泣いたらスッキリした! サクちゃん、ゴメンね。数年ぶりに再会した幼馴染のお姉さんが、大人げなく泣いたりして。幻滅しちゃったよね……」
「いや、全然?」
「何それ。フツーにショックなんだけど。ちょっとはあたしに憧れとかなかったの?」
「え……」
サクは眉間にしわを寄せながら、幼い頃の出来事を回顧した。
ある日のこと。リサを含めた近所の子どもたちにかくれんぼしようと言われ、無理矢理家から連れ出された。
隠れるつもりで家に帰ったら、しばらく経って、リサが大泣きしながら家にやってきた。そしてなぜか父に、それまで見たことのない剣幕で怒られた。
その時はなぜ自分が怒られたのか、よく分からなかった。とにかくリサのせいで怒られたのだと思っていた。
だから昔、リサは少々苦手な存在だった。
けれどあの時、リサがなぜ大泣きしていたのか今になって分かった。
捜しても捜しても見つからない自分のことを、ただただ心配してくれていたのだと――。
「リサは、いいお母さんになるよ」
「え? それってつまり、サクちゃんにとってあたしは近所に住む憧れのお姉さんじゃなくて、お母さんだったってこと?」
「拡大解釈するなって」
「でもリサ」とケイが口を挟んだ。
「本当に産むつもりなら、ここを離れた方がいいよ。というか、離れるしかないよ」
リサは下を向いた。
「あたし、頼れる人いないんだよね……。だから諦めろってことなのかなって思って。だけどそれは本当にイヤ……」
「何とかしてあげたいけど、私も家族とは縁を切ったようなものだし。信頼できる知り合いいないんだよね、変態ばっかで」
アサヒが口を開いた。
「リサさん。わたし、頼りになりそうな人に心当たりがあります」
サクはアサヒの顔を見た。アサヒはサクを見返して、小さく頷いた。
「いたずら好きで、珍しいこととか、新しいことに目がなくて……それに若い人とお話するのが大好きな、優しいおばあさんです。
その人早起きだから、わたしも明日早起きして電話で相談してみます」
「でも……いいのかな。赤の他人なのに」
「赤の他人って、縁もゆかりもない人のことですよね? それなら、誰かと繋がって出会ってしまったら、それはもう赤の他人じゃないんじゃないですか? 縁があったってことなんじゃないですか?」
ケイがふふっと笑った。
「そんな顔で屁理屈言うなんて、なんか意外」
「屁理屈……?」
アサヒはハッとした顔でサクを見た。
「サクの屁理屈がうつった!」
「は? なんでだよ!」
リサがプッと吹き出して言った。
「まったく、アサヒちゃんには敵わないなー。……お願いしてもいいかな? そのおばあさんに相談。もちろん、無理だったら無理でいいからね? 無理強いはしないでね?」
「はいっ」
リサは不安げな表情のまま、赤い唇の端をわずかに上げた。
サクはひとまず眼鏡のことは後回しにしようと思った。
次の日。サクはドアレバーにぶら下がったバナナをひょいと持ち上げると、部屋で朝食を済ませた。
バナナ地獄は今度こそ本当に終わりを告げようとしていた。
アサヒが働いている店の主人のギックリ腰は、実はとっくに治っていて、滅多にない機会だからと夫妻でバカンスに出かけているらしい。
そろそろバナナが恋しくなって帰ってくる頃だと、仕入れを担当している主人の長男に言われた。……ということを、サクは昨日ホテルへ帰る途中でアサヒから聞かされた。
でもバナナってどこにでも売ってるよな。というか、そろそろっていつだよ。と心の中で突っ込みながら、サクは自分も仕事を辞めなくてはと考えた。
職場に着いてすぐ、もうすぐ辞めなくてはならない旨を上司に告げた。
元々短期でもよいということで雇ってもらった仕事だったため、文句を言われることもなく平穏に済んだ。のだが、こちらから具体的な日にちを言わなかったため、「じゃ、あと三日ね」と告げられた。
夕方、アサヒと合流したサクは、いつものようにカレーワンタン麺の屋台に向かって歩き出した。直後、足を止めた。
「……あ。もうカレーワンタン麺食べなくていいんだった」
「あっ」
と、アサヒもたった今気がついたというような声を出した。
「どうする? 違うお店にする?」
「そうだな……。おばさんには申し訳ないけど」
サクは少しの罪悪感を感じながら、いつもと違う屋台に入った。
そこで五目あんかけご飯と、玉子スープと、餃子を食べた。久々にバナナとカレーワンタン麺以外の食べ物を口にしたサクは、その美味しさに驚いた。
祖母が入院してからしばらくのあいだ、毎日適当な食事をしていた。その頃は同じメニューが続いても全く気にならなかった。それどころか、何を食べても何とも感じなかった。
数ヶ月のあいだに、自分の味覚は変わってしまったのだろうか。いや、違う。むしろ元に戻ったのだ。
ふと料理好きだった祖母の言葉を思い出した。
『せっかく人間に生まれたんだもの。色んなものを食べなくちゃ、もったいないわよね』
屋台を出たサクは、歩きながら呟いた。
「やっと人間に戻った気がする」
「どういうこと?」
「ずっと同じものばかり食べてたから、動物にでもなった気がしてたんだよ」
「それなら朝昼はバナナしか食べてないから、まだ猿じゃない?」
「そうでした。まだ猿でした。……ところでミヨさんは」
訊かなくても答えは分かっていたが、一応訊いた。
アサヒはにこりと微笑んだ。
アサヒはリサに、ミヨさんの家の住所と連絡先を書いた紙を差し出した。
「本当にありがとう」
リサはそう言いながら、震える手でその紙を受け取った。しばらくじっと見つめたあと、右手で頬をつねった。
「いたっ」
「何してんだよ」
「だって、夢かと思って……。どうしよう。あたし、その人に何を返せばいいんだろう」
「とりあえずは元気に過ごして、たくさんお話すればいいんじゃないですか?」
「……それだけ?」
「いいんじゃないの? 年寄り同士の話に飽き飽きしてたみたいだし。それにすぐには返せなくても、後から倍にして返せばいいだろ?」
と言いつつ、サクはミヨさんに宿泊費すら払っていないことを後ろめたく思った。目的を遂げたら、働いて返そう。
「サクちゃん……意外といいこと言うんだね。なんか、昔の印象と違うなー。昔はもうちょっと無口で暗い感じじゃなかった?
お父さんみたいに冗談でも言ってれば、スマートだけど明るくておもしろいインテリ男子って感じだったのにね。あ、でもサクちゃんはメガネじゃないから、インテリには見えないか」
サクは表情を硬直させた。
「どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
リサの知っている昔の自分と、今の自分のあいだには、深い淵がある。サクはそれをわざわざ言おうとは思わなかった。
「リサさん」とアサヒが言った。
「そのクロセという町に行くには、大きな山脈を越えなければいけないんです。通行止めになっていた道路は最近復旧したらしいんですけど、時間もかかるし、カーブの多い道で揺れるから、バスで来るのはオススメしないわって、ミヨさんが言ってました」
「山脈を越える……。あ、待って。ちゃんとメモ取るから」
リサはそう言うと、カウンターの下からメモ帳を取り出した。
「それで、バスがダメなら何で行ったらいいの?」
「飛行船です!」
「ひこうせん?」
「空を飛ぶ船のこと。白くて、エイみたいな形をしてる」
サクがそう答えると、アサヒは眉を寄せながら小首を傾げた。
「えー? クジラじゃない?」
「クジラに見せかけたエイだろ」
「なるほど。空飛ぶクジラみたいな白いエイに乗る……と」
「いや、普通に飛行船でいいから。そんな暗号みたいな文章残しても、あとで見返した時に困るだろ」
リサは手に持ったペンで頭をかきながら「んー?」と唸った。
「サクが余計なこと言うから、リサさん混乱しちゃったじゃん」
「クジラじゃない? とか、余計なこと言ったのはアサヒだろ」
「そのあと、クジラに見せかけたエイって言ったのは誰だっけ?」
「はい俺ですけど。誰かの口からクジラという単語が出てこなければ、その発言は無かったでしょうね」
「そういうの、屁理屈って言うの知ってる?」
「ねー」と、リサが頬杖をつきながら口を挟んだ。
「サクちゃんとアサヒちゃんてさ……」
「ん?」
「なんですか?」
「やっぱやめとこー。余計なこと言って混乱させちゃうといけないから!」
「余計なことってなんだよ」
「なんでもなーい」
リサはそう言うと、楽しげにニコニコ笑った。




