35話
朝から昼すぎまで働いて、夕方に屋台、夜にリサの店へ通う日々が続いた。
サクはアサヒと協力して、密かにカドの行動を観察した。そうして分かったのは、カドが眼鏡を外すのは屋台でカレーワンタン麺を食べる時だけということだった。
どうにかカドの目を盗んで眼鏡に触れられないか。と考えたが、店主がもはや当たり前のように「メガネ忘れるんじゃないよー!」と言っていたため、チャンスは巡ってこなかった。
「ごちそうさん」
カドは屋台を出ると、いつもと同じく廃墟の方角へ消えていった。
直後に店を出たサクは、薄暗い通りの先を見つめながら苛立って言った。
「このままじゃ本当に埒が明かない。いっそ尾行して奪い取るか」
アサヒがサクの前に立ちはだかった。
「それは絶対にだめ。奪い取るのはいいけど、尾行するのはだめ」
「……冗談だよ。というか、普通逆だろ」
「あっちには危ない人がいっぱいいるかもしれないんだよ? だからだめって言ったの。奪い取るなら、別の場所にしようよ」
「いや、だから冗談だって」
サクはリサの店に向かう道中、けれど本当に奪い取るしかないのかもしれないと思った。
と言っても、力ずくではない。抜けている感じはするが、相手は大の大人だ。体格的にも差があるし、そもそも殴り合いの喧嘩すらしたことのない自分に、強奪などできるはずがない。
ならば、これならどうか。
リサの店で、カドがトイレに立ったタイミングを狙って応対していた店員を呼び出す。その隙に飲み物に睡眠薬を入れる。カドが眠ったのを見計らって、もう一度店員を呼び出す。その隙に眼鏡を盗む。
――犯罪だな……。
それ以前に、この計画にはいくつも問題があった。
まず、アサヒの協力が絶対不可欠であること。計画に反対されれば実行は不可能。だが、その点はさっきの会話を考えるとクリアできる見込みがある。
他の問題はどうか。リサの目はどうやってごまかすのか。リサだけではない。近くには他の店員も客もいる。怪しい行動をすれば、すぐに気づかれる恐れがある。
まだまだ問題はある。
睡眠薬はどこで手に入れるのか。店員は何と言って呼び出すのか。眼鏡は魔法を解いたあとで戻せばいいが、それまでの時間をどうやって確保するのか……。
「おーい、起きてるー? それとも目を開けたまま寝てるのかなー?」
人差し指で頬をぐいぐい押されて、サクは「ん?」と間抜けな返事をした。
リサが心配そうな顔で言った。
「来た時からずっとぼーっとしてるけど、大丈夫? あたしが紹介した仕事、やっぱりキツかった?」
「仕事? あぁ、別にそこまでじゃないよ。そこそこ忙しいけど、暇するよりいい。仕事に集中してる時は余計なこと考えなくて済むし」
「まー、そうだね。余計なことは考えない方がいいかもねっ。サクちゃんには刺激が強すぎるだろうから」
「……刺激?」
ひたすら別のことを考えていた頭では、何のことか瞬時に理解できなかった。少し遅れてリサの言葉の意味に気がついたサクは、首から上を真っ赤にした。
「からかうなよ」
「ゴメンゴメン。ピュアなサクちゃんがかわいくって、つい」
アサヒがきょとんとした顔で言った。
「刺激って何のこと? なんで顔真っ赤なの?」
サクはアサヒの顔を一瞥してから、リサに言った。
「ここにもっとピュアな人がいますけど?」
「うーん、仕方ないなー。お姉さんがイチから教えてあげる。あのね、アサヒちゃん――」
サクは慌てて口を挟んだ。
「刺激っていうのは臭いのことだよ。清掃の仕事で一番キツいのがゴミの臭いでさ。とにかく魚臭くって、息を止めないとやってられないんだよ。
息を止めると顔が赤くなるだろ? その臭いを思い出して、無意識に息を止めてしまったせいで顔が赤くなったんだよ」
またスラスラと嘘が出てきた。サクは自分で自分のことが信じられないという思いを一瞬抱いた。
リサが笑いをこらえた顔で言った。
「そうそう。刺激臭がね、とっても強いってこと」
「へぇ……。大変なんだね、清掃の仕事って。それに比べたらわたしの仕事は楽だなぁ。外でバナナ売ってるだけだし」
「そんなことないって。この暑さの中、外で働けるなんてすごいよっ。あたしけっこう長いことココにいるけど、暑さには全然慣れないんだよねー」
「俺も。やっぱり出身地に関係してるんじゃないか? あそこは東部の中でも一番寒い地域だから」
「そっか……。故郷なんて捨てたつもりだったんだけどなー。そういえば、アサヒちゃんはどこの出身なの?」
「わたしは――」
その時、サクの背後から「リサ!」と呼ぶ声が聞こえた。
ケイは早足で向かってくると、サクとアサヒのあいだからカウンター越しにリサに言った。
「裏口の鍵、閉め忘れたでしょ!」
「えっ、ゴメン」
「ゴメンで済まされると思ってるの? って、そんなこと言ってる場合じゃなかった。裏口からヤバい客が来てるから、この子たちどうにかした方がいいよ」
「ヤバい客?」
リサはそう言うと、目線を店の奥へ向けた。その目は何かを捉えたようだった。
リサは赤い唇をわずかに震わせてから、サクとアサヒに言った。
「こっちに来てっ。早く!」
サクは何がなんだか分からないまま、言われた通りに椅子を下りた。そしてケイに背中を押されて、アサヒとともにカウンターの内側に入った。
リサは二人に、そこで屈んで隠れているよう指示した。
「ゴメンね、ふたりとも。ちょっと我慢しててね」
そう言ったリサの顔は、どこか寂しげだった。親しい人と別れる時のような、そんな寂しさが滲んでいた。
さっきまでサクが座っていた椅子が、ギィッと短い悲鳴をあげた。
「よぉ。元気そうじゃねぇか、返品女」
聞き覚えのあるその声に、サクはビクッとした。脳裏に浮かんだのは、タンクトップから覗く派手な刺青。そして蔑むような笑みだった。
間違いない。廃墟の路地裏で遭遇した、金属バットの男だ。
リサはカウンターに両肘をついて上体を前へ傾けながら、冷たい声で言った。
「その呼び方やめてくれない? コトラさん」
「あぁ。ちょいと久しぶりだったから、つい昔の呼び名で呼んじまったぁ。今は返品女じゃなくて、オレの女だったなぁ、リサ」
「気色悪っ。鳥肌が立つからやめて」
「ったく、文句が多いねぇ。そんなんだから返品され……ってちげーなぁ。あれはお前がバカすぎて、まったく使い物にならなかったせいで返されたんだったなぁ」
コトラはゲラゲラ笑った。
「せっかく望み通りのところに売ってやったのに、三日で返されるわ、客に返金しろって迫られるわ怒られるわで、散々な目に遭っちまったぁ。挙句、お前は逃げて行方をくらませただろう?
こんなことなら、初めから顔と体にしか用がない奴に売っちまえばよかったって、あの時はめちゃくちゃ後悔したんだぜ? 相当高く売れただろうからなぁ」
「ふ~ん。残念だったね。ずっと近くにいたのに。捜せばあっという間に見つかったかもよ?」
「まさかまだ近くにいるとは思わねぇさ。泣いて田舎に帰っちまったって、普通は思うだろう? それに毎日生きてくためにはなぁ、女一人にかまっちゃいられねぇんだよ。……けど、いいさ」
コトラはリサの肩を撫で、その曲線に沿うように流れる髪を手ですくった。
「あの時の貸しは返してもらったから許してやるよ」
「それで、何の用? もう会わないって言ったはずでしょ」
「あぁ。……やっぱ子ども産んでくれねぇ?」
サクはその言葉に驚いて、思わずリサの顔を見上げた。その表情は固く凍ったままだった。
「……なんで?」
「仲間がわけのわからない野郎にやられちまってなぁ、全然稼げねぇんだ。赤ん坊なら前金で出してくれるっていう、超超優しい客がいるんだよ。だから、なぁ?」
サクのすぐそばで、リサの膝が震えていた。それが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのか、あるいはその両方か、判然としなかった。
「ねぇ、コトラ……。誰かを好きになったことってある? 愛したことある?
……別に女の子じゃなくてもいいよ。誰かを守りたいって思ったことないの? 仲間のことは大事じゃないの?」
「はぁ? 何言ってんだぁ? 愛とかそんな気持ち悪ぃもんに興味はねぇよ」
「……そっか。……やっぱり……やっぱりあたしはアンタとは違う。この子は絶対にアンタなんかに渡さない。二度とあたしの前に現れないで!!」
その声は店の天井を突き破った。
静まり返った店内で、ビリヤードの玉がゴロゴロ転がる音と、いつものジャズの音楽だけが鳴っていた。
ケイが「リサ」と言った。が、その声かけは無意味だった。
コトラはカウンターに勢いよく拳を振り下ろすと、激高した口調で言った。
「あぁ? ふざけんなよ。オレがぁ、オレの子をどうしようと、オレの勝手だろう?」
サクはもう何が起こっているのか分からなかった。ただリサの怒りと悲しみが全身から伝わってきて、喉の奥がやけどしたように熱くなった。
「リサさん……」
アサヒが小さく呟いた。青い瞳が一直線にリサを見つめていた。
リサはうつむき、肩を震わしていた。溢れ出た涙が、カウンターの上にぽたりと落ちた。
その瞬間、アサヒは床に手をついた。腰を浮かし、今にも立ち上がろうとする。
サクは咄嗟にアサヒの両肩を掴んだ。
「駄目だ。動くな」
小声でそう言ったつもりだったが、全く声にならなかった。代わりに、首を横に振った。
「でも」
その時だった。
「歯、食いしばっとけ」
聞き覚えのある声。直後、ボコッ、ガッシャーンと凄まじい音がした。
驚いたサクは、カウンターの上からおそるおそる顔を出した。
コトラと丸い回転椅子が、床に転がっていた。
「……クッソ。何しやが」
肘をついて上半身を起こしたコトラは、目の前に立つ男を見て青ざめた顔をした。
「カドさん……」
サクもその時、コトラを殴り飛ばしたのがカドであることに気がついた。
「いや、悪かったな。殴るつもりはなかったんだが、つい殴っちまった。俺にお前を殴る筋合いはないんだがな……つい殴っちまった」
カドはコトラの前で腰を落とした。
「俺がお前にこんなことを言う筋合いはないんだがな……頼むから二度とリサの前に現れないでくれ。リサのお腹の子の前にもな」
ケイがコトラに近づいて、胸の谷間から折った札を出した。
「はい餞別。お金が欲しいだけなんでしょ? だったら、もっと確実に稼げる方法探しな。だいたい赤ん坊なら前金って怪しすぎ。絶対裏があるに決まってる。
――あ。そういや私のお客さんで、前金で売った商品にイチャモンつけられて、返金しろって脅された人がいたなぁ。そのあとのことは……ちょっと私の口からは言えないけどね。その人の名誉に関わることだから」
コトラは札を掴み取ると、無言で立ち去っていった。
「おっ。ちゃんと表から出ていった」
と、ケイが言った拍子。他の店員や客たちが、何も見ていなかったかのように、中断していたゲームや会話をそれぞれ再開した。
カドはリサに背中を向けたまま、ドアに向かって歩き出した。
「待って。インテリ風お兄さん!」
リサの声に、カドは一瞬立ち止まった。
だが振り返ることなく、カドは足元でガシャッと何かを踏みつぶしたような音をさせたあと、ドアを開けて店を出ていった。
「ん? ……あーっ!!」
カドが踏みつぶしたものに駆け寄って、アサヒが大きな声を上げた。一瞬また、店内が静かになった。が、今度はすぐに元に戻った。
サクはすぐにアサヒの元へ駆け寄った。
レンズが割れ、フレームの折れた銀色の眼鏡が、そこにあった。




