32話
次の日。サクはアサヒと川べりに下りて朝食(お粥と揚げパン)を食べ、屋台街で昼食(鶏肉がのったご飯とサラダ)を食べ、服屋の立ち並ぶ通りを抜け、マーケットを抜け、あれこれしたのち、また屋台街に戻って夕食(炒飯と餃子とスープ)を食べた。帰りにリサの店に寄ると、タイミング悪く接客中だったためそのままホテルに戻った。
その次の日。サクはアサヒと川べりに下りて朝食(お粥)を食べ、屋台街で昼食(よくわからない芋のコロッケ)を食べ、服屋の立ち並ぶ通りを抜け、マーケットを抜け、あれこれしたのち、マーケットに戻ってバナナを買い、屋台街に戻って夕食(野菜炒めと白米)を食べた。帰りにリサの店に寄ると、休みなのか姿が見当たらなかったためそのままホテルに戻った。
その次の日。サクはアサヒと川べりに下りて朝食(昨日買ったバナナ)を食べ、水上市場でさらにバナナを買い、バナナで腹を膨らませてから屋台街を抜け、服屋の立ち並ぶ通りを抜け、マーケットを抜け、あれこれしたのち、屋台街に戻った。
サクはアサヒに言った。
「夕飯どっかで食べない? これ以上バナナは食えない。胃が受け付けない以前に口が受け付けない」
「う〜ん。……朝昼晩バナナ計画は無理があったかぁ」
「そんな計画賛同した覚えないんだけど」
「だって仕方ないでしょ? 節約しないと、お金は減っていくばかりなんだから」
「それはそうなんだけど……」
サクは行き詰まっていた。これだけ多くの人が行き交うなか、時計の針が指す「何か」を見つけ出すのは非常に困難だった。
それがとても近いことは分かっている。近くにあるのに手が届かないもどかしさを、連日感じていた。
今日もまた駄目だった。陽はまだ沈んでいないが、夜の気配はすぐそこまで来ていた。
「とりあえず何か食べよう。別に豪勢なものじゃなくていいから、とにかくバナナの味を忘れられそうなやつがいい」
「バナナの味を忘れる……」
アサヒが首をひねる。
サクはその時無性に、カレーワンタン麺が食べたくなった。
辛すぎず、ほどよい酸味があって、食べれば食べるほど食欲が湧いてくるあの味。食べるとたちまち全身に力がみなぎってくる、不思議な食べ物――。
一瞬浮かんだマムシの効果かもしれないという考えは、黙殺した。
アサヒがにこりと笑って言った。
「やっぱり、カレーワンタン麺でしょっ」
「……心読んでないよな?」
「え?」
「なんでもない。いいよ、カレーワンタン麺で」
サクは赤いテントに向かって歩いた。店へ入ると、いつもの女店主が「らっしゃい!」と威勢のいい声で言った。
「また来てくれたんだ! お礼にワンタン一つおまけしてあげるよ!」
「ありがとうございます」
サクはそう言って、アサヒの隣に腰掛けた。左側、三席あいだを空けた席に男が座っていた。
――また同じ人だ。
常連なのだろうか。にしても、よく会うなと思った。
「ふたりとも、ティーでいいかい?」
「はい」と、サクはアサヒと声を揃えて答えた。
店主は空のコップを二人の前に置くと、茶色い液体をドボドボ注いだ。
「三回来てくれたお礼に、三杯までおかわり無料にしてあげるよ。遠慮なく言ってくれていいからね!」
「いや、いいです。ワンタンだけで十分です」
「もったいない。せっかくタダで飲めるのに」
アサヒはそう言って、マムシ粉末入りティーをがぶがぶ飲んでいた。
少し経って、サクの前に熱々のカレーワンタン麺が置かれた。
いただきます。と言って箸を取り、どんぶり鉢に左手を添える。ふと、時計を外していないことに気がついた。
しまった。箸を置き、慌てて時計を外そうとする。
――ん?
手が止まる。妙な違和感があった。肘を曲げて、まっすぐ時計を見る。針が指しているのは「9」……。
屋台街に戻ってきた時は「11」と「12」のあいだだった。それは、廃墟の方角と一致していた。
連日、夕飯を食べたあとに再び時計をはめて見た時。針が指す数字はまちまちだったが、それは、廃墟の方角と一致していた。
廃墟の方角はここから右方向。今、針は左を指している……。
「どうしたんだい? そんなにじっと時計を見て」
店主が訝しげな顔で言った。
「えっ? あ、いえ。何でもないです」
「そうかい? 早く食べないと、麺が伸びちまうよ」
「はい」
サクは急いで時計を外すと、ズボンのポケットに入れた。ふやけた熱々のワンタンを口に入れる。やけどしそうになって、マムシ粉末入りティーをがぶがぶ飲んだ。
「ごちそうさん」
先客の男がテーブルにコインを置いて立ち上がった。サクは気づかれない程度に顔を左に向けた。
「いつもありがとねー! ってカド! またメガネ忘れてるよ!」
「あぁ……どうして……」
男は生気の抜けた声で呟きながら、眼鏡をつまみ上げた。
「まったく、どんくさいねー。そんなんじゃ男前の顔が台無しだよ。昔はもっとハツラツとしてたのに」
「三十過ぎたらこんなもんさ」
「年のせいにするんじゃないよ。あたしなんか五十過ぎなのに毎日こんなに元気だよ!」
「それはマムシのおかげだろ?」
「カドだって毎日飲んでるじゃないか」
「あぁ。……実は効果ないんじゃないか? マムシ」
「さっきマムシのおかげって言ったのはあんただよ、カド……。頭は相変わらずだね」
「うるせっ。またな」
男は店を出ていった。サクは麺をすすりながら、やや驚いた目でその姿を見送った。
知的で、落ち着いた大人の男という印象が覆された。
眼鏡イコール賢いという偏見があったのか。それとも、眼鏡をかけた父の印象が強すぎるためか。
サクは店を出ると、ズボンのポケットから時計を取り出した。針は廃墟の方角を指していた。
自分たちが夕飯を食べている時。目的の物は自分の左側にあった。夕飯を食べ終えて店を出た時。それはすでに廃墟の方向へ移動していた。
サクは来た道を戻りながら、アサヒにそのことを告げた。
アサヒは「そう……」と呟いてから言った。
「左側って言ったら、あの常連のお兄さんが座ってたよね」
「あぁ、あの眼鏡をよく忘れる人。……なんで忘れるんだろうな」
「う〜ん。なんでなんだろう?」
「父さんと前に来たときも、あの人いた?」
「そんなこと覚えてないよ。でも……たぶんいなかったと思う。前に行った時はお昼だったから。
屋台街を通りかかった時に、先生が『あの店、昼も開いてるんだ……』って呟いて、わたしが『何のお店なんですか?』って尋ねて、それで入ったの。お店の人も、女の人じゃなくて男の人だったよ」
「ということは、父さんは夜にも行ってたってことか……。アサヒはその時何してたんだよ」
「わたし? たぶん寝てた」
「だと思った」
父は夜、一人であの店に行っていたのか。もしかすると、よく眼鏡を忘れるあの男と知り合いだったのではないか。もしそうなのだとしたら、あの男は父が魔法をかけた物を持っているのではないか。
疑惑の念が渦を巻いた。
「ねぇ。今日もリサさんのお店、寄るよね?」
「え、あぁ。寄ってもいいけど会えるかどうか……。昨日は休みだったみたいだし、一昨日は接客中で話しかけられなかったし」
「とりあえず行ってみようよっ。今日こそ真剣勝負。そして勝つ!」
「ほどほどにしとけよ。じゃないと、朝昼バナナで耐えた意味がなくなる」
「わかってるよっ」
そう言って、アサヒは顎をくいっと上げた。
ビルの階段を上る前、サクはまた時計を外してズボンのポケットに入れた。
店の中はいつものように賑わっていた。ダーツ台もビリヤード台も人で埋まっている。どこからか流れるジャズの音楽は、客たちの騒がしい声にかき消されていた。
サクはリサの元へ向かった。すると運よく、リサの前に座っていた男性客が椅子を下りて別の場所へ移動した。
リサはサクたちを見ると、邪険にするような目をしてわざとらしく言った。
「また来たなー!」
「リサが来いって言ったんだろ。昨日と一昨日も来たけど会えなかったし」
「えっ。ゴメン! 昨日は休みだったの。一昨日は……たぶん接客中だったよね? あのお客さん、スゴく長いからさ。あ、でもいい人なんだよっ。たくさんドリンク頼んでくれるし。
サクちゃんたちも一杯と言わず、三杯くらい頼んでくれたらいいんだけどねー」
「一杯も頼まないのは?」
「ダメに決まってるでしょ。はい、着席」
アサヒがすんなりと椅子に座ったので、サクも仕方なく腰掛けた。
「座ったからには注文してもらわないとねー。席料もあるし、頼まないとむしろソンだよ?」
「それなら、椅子の横で立ってればよかった」
「サクちゃん……」
「サク……」
サクは二方向から冷たい視線を浴びた。
「なんでアサヒまでそんな目で見るんだよ」
リサがふぅと息を吐いて言った。
「まったく仕方ないなー。特別にドリンクはサービスしてあげる。……あ、あとコレいる?」
カウンターの上に紙の束が置かれた。それはホテルの割引券だった。
アサヒが目を輝かせながら、両手で掴んだ。
「ありがとうございます! ちょうど無くなったところだったんです」
「ふたりとも、なかなか貧乏だよねー。ま、ここらじゃ貧乏人なんて珍しくないけどね」
リサはそう言うと、グラスを二つ出してドリンクを作り始めた。
しばらく経って、「はいっ」とサクの前にグラスが置かれた。
波の音が聞こえてきそうな、青く透き通った液体、黄色いレモン、赤いチェリー。毎度おなじみの飲み物だった。
二度も飲んだのだから、今度は別のものがいいと思ったが、隣を見るとアサヒがさっきよりも目を輝かせていたので、サクはまぁいいかという気持ちになった。
リサが頬杖をついて言った。
「アサヒちゃんのその顔が見たくて、つい同じもの作っちゃった」
アサヒははにかむように微笑んで、「ありがとうございます」と言った。
「アサヒちゃんは青とか水色が好きなの? ほら、着てる服とか髪飾りがいつも青っぽい色だから」
「はいっ。一番好きな色です」
「やっぱそうなんだ。いーなー。水色のワンピースに、青い目に、青い花。で、ふわっふわの金髪。……まるで、青空に輝く太陽みたい。ね? サクちゃん」
「えっ」
急に話を振られて、サクはたじろいだ。口元を引きつらせながら小声で「まぁ……」と答える。
「はぁ。ダメダメだなー、サクちゃんは。ウチに来るお客さんはもーっとクサい台詞、平気で言うよ? 例えば、君のその目元のほくろに僕の…………なんだっけ?」
「覚えてないのかよ。まぁ、そんなくっさい台詞忘れて正解だと思うけど。鼻が腐る」
「そんなに? まー、サクちゃんには似合わないかなー。やっぱりストレートに伝えるのが一番だよねっ。ね? アサヒちゃん」
アサヒはグラスを持ったまま、パチパチとまばたきをした。
リサは呆れ顔で言った。
「全然ピンと来てないな。これは」
「……あっ。わかりました! ストレートというのは、つまり真剣勝負ってことですね!」
「え? いや、たしかにそう……かな?」
「リサさん! 今日こそわたしと真剣勝負してくださいっ」
リサはふふっと不敵に笑った。
「受けて立とうじゃないか」
二つのサイコロがカウンターの上に置かれた。赤いマドラーが十本、サクのそばに並べられた。
リサは高さのある空のグラスを自分とアサヒの近くにそれぞれ置くと、ステンレス製のコップを持って言った。
「いざ、真剣勝負!」




