31話
明くる日。
サクは川べりに下りると、アサヒとともにホテルの売店で買った朝食を食べた。お粥と揚げパンという、不思議な組み合わせだった。
それから、時計の針の指す方角に向かって歩き出した。
針は昨日の昼とはまるで違う方向を指していた。
その方向とは、ホテルの裏側だった。
人通りはほとんどなく、夜中のきらびやかな雰囲気とは打って変わって、がらんとしている。
奥に進んでいくにつれて、周囲の建物は古くなっていく。
開いているのか閉まっているのか分からない店。外れかかった看板。錆びたシャッター。
サクは足を止めた。左腕につけた時計を見る。針は「10」を指していた。
「これ以上進むのはよそう」
「うん……」
まだ明るい午前中とはいえ、どんな危険に晒されるか分からない。アサヒも昨日のリサの忠告を忘れてはいないようだった。
二人は引き返して、元いた川沿いの大きな水車の前で立ち止まった。
サクは地図を広げた。時計の針が指す方角を照らし合わせると、あの廃墟のエリアからは少し外れているのかと思った。
どうにか迂回して行くか。顎に手を置いて考える。ふと隣を見ると、アサヒが自分と同じように口元に手を当てて何やら考えごとをしていた。
「何かいい案でも思いついた?」
「え? あぁ! 魚を釣るのはどうかなって」
「……は?」
「昨日、賭けに負けたらその分ご飯抜きでいいってわたしが言ったら、駄目ってサク言ったでしょ? だったら、タダで食材を調達すれば――!」
サクはため息をついた。
「釣りと博打はいったん忘れてくれない? 今はとにかく針の指すほう……こう……」
「どうしたの?」
時計の針が動いていた。ゆっくりと、少しずつ、少しずつ――。
サクは瞬時に後ろを振り返った。もう一度時計を見る。
「もしかして、昨日と同じ方向へ向かっているのか……?」
「もしそうなら、ラッキーだねっ。危険な場所に行かなくて済むんだし」
「うん……。行こう」
昨日と同じ道を歩き出す。
途中、立ち寄った屋台でシーフード入りの焼きそばを食べた。
屋台街を抜けて、服屋の立ち並ぶ通りを歩く。道をそれて、今度はマーケットへ。
「そこのお嬢さんたち、バナナはいかがかね? 今日は出血大サービスだよ!」
アサヒが立ち止まって右を向いた。
「安い……すごく安い……。今日の夕食はバナナ――」
「却下」
サクたちはマーケットを抜け、さらに歩いた。どこへ向かっているのか分からないまま、人の多い通りを歩き続けた。
途中、暑さに頭がクラクラして近くの書店で涼んだり、スコールに見舞われて場違いな宝飾店に入ったりした。
そうして歩いていると、なぜか屋台街に戻っていた。
近くにある多くの屋台が店を開け始めた。夜の営業は六時からのところが多いらしい。
つまり現在、時刻は午後六時だった。陽はまだ沈んでいない。
サクはぼそりと呟いた。
「腹減ってきたな……」
「うん。どこかで食べよっか」
「そうだな……どこにしようか?」
「カレーワンタン麺は?」
「一昨日食べただろ」
「一昨日食べたものが食べられないなんて、なんという贅沢」
「食べられないとは言ってないだろ」
「じゃ、カレーワンタン麺で決まり!」
サクはまぁいいかと思い、アサヒと一昨日も入った赤いテントに向かって歩いた。
「ちょっと待って」
テントより数メートル手前。サクは思い出して立ち止まり、腕から時計を外した。その時計をズボンのポケットに入れてから、店に向かった。
「らっしゃい! ……あれ。お客さんたち、もしかして一昨日も来てくれた?」
「はい」とサクは女店主に答えた。
「うちの店、気に入ってくれたんだ! ありがとねー」
サクは椅子を引いて腰掛けた。三席あいだを空けた左側の席に、先客の男が座っていた。
「ふたりとも、ティーでいいかい? それとも、今日は酒にするかい?」
「いえ、ティーでお願いします」
「わたしもティーで」
「はいよっ」
女店主は引き締まった腕で重そうなステンレス製のジャグを持ち上げると、サクとアサヒのコップに茶色い液体を注いだ。
「ぐいっと飲みな!」
――いや、酒じゃないんだから。
そう思いながらも、サクは言われた通りにぐいっと飲んだ。
「どうよ? 特製マムシ粉末入りティーの味は」
ゲホッ。もし飲み込む前に聞いていたら、吐いていた。
「……マムシ?」
サクはコップの中を覗き込んだ。薬草のような独特の匂いがするものの、見た目はただの茶だ。この中にマムシが入っているとは、にわかには信じられなかった。
「よく分からないって顔してるね。ま、いいさ! 滋養強壮・精力増強。新婚さんにはぴったりだろう?」
「え……」
サクはコップを持ったまま固まった。
「ん? 新婚さんじゃないのかい?」
「違います!」
サクは両手をカウンターについて言った。全身を熱い血液が駆け巡った。
「そうかい、そうかい。勘違いしてすまなかったね。けど、うちにあるのはマムシ酒かマムシ粉末入りのティーだけだから、どっちを選んだってマムシさ!」
――なんとヘビーな。
「おかわりが欲しかったら遠慮なく言ってくれていいからね! 二度も来てくれたお礼にサービスするからさ!」
「はいっ」とアサヒが答えた。
「……まさかそれ、気に入ったの?」
「え? 普通に美味しいけど」
そう言って、アサヒはコップの中身をぐいっと飲んだ。サクはちびちび飲んだ。
出てきたカレーワンタン麺をすすっていると、左の先客が立ち上がった。
そういえば、一昨日来た時もいたな……。と、サクは男を見上げて思った。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
銀色の短髪。切れ長の目に、鼻筋の通った顔。スーツでも着ていればどこかの御曹司に見えただろうが、男の身なりは安っぽいTシャツとズボンに、薄汚れたサンダルだった。
女店主が男に「いつもありがとねー!」と言った。
「あぁ」
男は銀縁の眼鏡をかけると、店を出ていった。
カレーワンタン麺を食べ終えたサクは、店を出ると再び腕に時計をはめた。
「また同じ方角だ……」
針は、廃墟の方向を指していた。一昨日屋台で夕飯を食べた後と同じだった。
その方向につま先を向ける。途端に、腕をがしっと掴まれた。
「だめだよ。行っちゃ」
そう言ったアサヒは、不安そうな目をしていた。
「分かってるよ」
一昨日の余裕げな顔と態度は強がりだったんだなと、サクはアサヒを見て思った。
「今日のところは諦めて、ホテルに戻ろう」
屋台街を出て、来た道を戻った。
川沿いを歩く途中、アサヒが言った。
「ねぇ。今からリサさんのお店に行かない?」
「なんで?」
「だって、まだ陽が沈んだばかりなんだよ?」
「いつも早く寝る癖に何言ってんだよ。前にセッカで一泊した時なんて、陽が沈んですぐ寝てただろ」
「今日はあまり眠くないの」
「……行って何するつもり?」
「何って、真剣勝負に決まってるでしょ?」
周囲の街灯の光が反射して、アサヒの瞳は青く輝いていた。
「そう上手くいくとは思えないけど……」
クロセで修理屋をやってコツコツ稼いだ。カントでは住み込みで働いてコツコツ稼いだ。
それが水の泡になりやしないか。一瞬心配しかけたが、日頃あれだけ倹約しているのだから、それはないかと思い直した。
サクはリサの店に行くことに同意した。
ビルの中へ入る前に、サクは再び時計を腕から外してポケットに入れた。
階段を上がって下りて、店のドアを開ける。
中は大勢の人で賑わっていた。
ダーツ台もビリヤード台も人で埋まっており、奥にある四角いテーブルでは、男女数人が何やらトランプを使ったゲームをしていた。
サクは昨日と同じく、ビリヤード台の横を通ってカウンターへ向かった。
リサは昨日と同じ場所で、年配の男性客の相手をしていた。その客はちょうど帰るところだったらしく、椅子から下りると赤ら顔で隣を通り抜けていった。
男性客が座っていた席に近寄ると、リサが驚いたように目をぱちくりさせた。
「サクちゃん、アサヒちゃん! 今日も来てくれたの?」
アサヒがカウンターに身を乗り出して言った。
「リサさん。わたしと真剣勝負してください!」
「……だってさ」と、サクはため息まじりに言った。
「ふぅ〜ん。このあたしに勝負を挑みに来たわけねっ。受けて立とうじゃないか。じゃ、とりあえずふたりとも座って?」
サクは丸い回転椅子の背もたれに手をかけた。
ここに座ったら千エルン。立っておけば料金は発生しないのではないか……と考えが一瞬よぎったが、そんな屁理屈通用しないだろうと思い直して腰掛けた。
「さて。何か飲む? 一応ココ、バーだからねっ」
アサヒは即答した。
「昨日と同じものがいいです!」
「ふふっ。アサヒちゃんはそう言うと思った。……サクちゃんは?」
「俺も同じでいいよ」
「オッケー。ちょっと待っててねっ」
しばらくして――。グラスが二つ、カウンターの上に置かれた。
青く透き通った液体。輪切りの黄色いレモン。赤いチェリーは、初めから添えられていた。
アサヒがうっとりとグラスを見つめて呟いた。
「きれい……」
「スゴい。昨日と全く同じ反応してる」
リサは頬杖をついて、しばらくじっとアサヒを見ていた。
「あたしも何か飲もっかなー。サクちゃん、おごってよ」
「え……」
「ウソウソ冗談。ちょっとくらい飲んでもバレないからさっ」
リサはそう言うと、グラスに透明の液体を注いで、マドラーでぐるぐるかき混ぜた。
そのグラスを傾けながら、胸の谷間に指を入れる。
サクが目をそらした隙に、コイン一枚とサイコロ二つがカウンターの上に置かれた。
「あたし、難しいルール覚えられないから、どっちかしかできないんだよね。
コインは投げて表か裏か当てるだけ。サイコロの方は、コップに入れて伏せて、出た目の合計が奇数か偶数か当てるだけ。カンタンでしょ?」
リサはアサヒに言った。
「どっちにする? アサヒちゃんが選んでいいよっ」
「う〜ん。……コインは昨日一回やったから、サイコロにします!」
「オッケー。あたしがコップを伏せたら、奇数か偶数か言ってね。当たってたら、マドラーをこのグラスに入れるね」
そう言って、リサは高さのある空のグラスをアサヒのそばに置いた。
「外れだったら、あたしのグラスにマドラーを入れる。十回終わったら一旦精算ねっ」
「はいっ」
リサはサクに顔を向けた。
「サクちゃん。悪いんだけど、何回やったか数えててくれる? あたし、すぐわからなくなっちゃうんだよねー」
サクは眉間にしわを寄せて言った。
「マドラーの数かぞえたら分かるだろ? それか、あらかじめマドラーを十本テーブルの上に並べておけば、無くなった時に十回やったって、分かると思うんだけど」
リサはハッとした顔をした。
「そっか! なんで今まで気づかなかったんだろ」
「いや、むしろ今までどうしてたんだよ……」
「なんとなくノリで? お客さんも大ざっぱな人ばっかりだったからねー。たまに十回終わったよって教えてくれる人もいたけど、だいたいは適当なトコでお客さんがストップって言ってやめる感じで」
「リサ……。それだと、客が自分の都合のいい時にゲームをやめて精算できるじゃんか」
「え?」
サクはため息をついた。
「たとえば……四回当たって、六回外した。十回終わった時点でマイナス二千エルン。その時点では負けてマイナスだけど、リサが気づかないのをいいことにゲームを続行して、連続で二回勝てばチャラにできるだろ? ……まぁ、さらに負ける可能性もあるわけだけど。
そもそも精算する時にマドラーの本数かぞえて、十一回以上やってたって気づかなかった?」
「ヤダなー、さすがに気づくよっ! お客さんがいーよいーよって言ってくれたり、多くやっちゃった分を戻してくれたりしたから、なんてことなかったけどね」
サクはまた、はぁ。とため息をついた。
「どうせリサのことだから、多くやった分の結果なんて忘れてるだろ? 戻した客は自分の利益になるように嘘ついてるよ」
「……そっか」
リサはあっけらかんとした声で呟くと、おかしそうに笑った。
「あたしバカだから、全然気づかなかったよ」
アサヒが言った。
「お店の人は誰も教えてくれなかったんですか?」
「え? うん。賭け事とかのゲームは仕事じゃなくて、個人でやってることだから。互いに干渉しないのが暗黙の了解? みたいな感じらしくて。
先輩たちに教えてもらったのはドリンクの作り方だけ。最初の頃、覚えが悪すぎて、めちゃくちゃ怒られたんだよねー」
「それじゃ、ゲームのやり方は誰にも教わってないんですか?」
「ううん。あたしをこの店に紹介してくれた人が教えてくれたの。ココで働き始めてからは、毎日あたしのトコに来てくれてたんだけどね……今はもう、違う子のトコに行っちゃった」
リサはそう言いながら、もの悲しい目でどこかを見た。
サクのグラスの氷が溶けて、カチャッと音が鳴った。リサはハッとしたように元の明るい表情に戻った。
「えっと……何しようとしてたんだっけ? あ、そうだ! アサヒちゃんと――」
言葉が途切れる。リサは大きく口を開けてあくびをした。
「……ゴメンねー。最近寝ても寝ても眠くって。他のお客さんの前ではずっと我慢してたんだけど、ふたりの前だと気が緩んじゃって」
アサヒが言った。
「ゲームはまた今度にします」
「え? 大丈夫だよ。コップにサイコロ入れて伏せるだけなんだし」
「リサさんが本調子じゃないなら、真剣勝負にならないのでだめです」
「マジメかっ」
そう言うと、リサは赤い唇の端を上げた。頬杖をついてアサヒを見つめる。
「ほら、それ。早く飲まないと炭酸抜けちゃうよ?」
「炭酸が抜けたっていいです。もったいないから、ゆっくり飲みたいんです」
「ぐいっと飲みなってばー」
「嫌です」
そう言って、アサヒはグラスの中身をちびちび飲んだ。サクのグラスはとっくに空になっていた。
サクとアサヒはそれぞれ、席料千エルンとドリンク代六百エルン――合わせて千六百エルンをリサに支払った。
朝昼夕の食事代の合計とほぼ同じ……。と心の中で呟きながら、サクは財布をカバンに戻した。
リサがにっこりと笑って言った。
「どーもありがとっ! また来てくれるとうれしいなー。できれば毎日」
「席料とられなくて、高いドリンクも頼まなくていいならいいけど」
「サクちゃん……ケチなの?」
「誰がケチだよ。ケチなのはこっち」
思わずそう返してから、サクはしまったと思ってアサヒの顔を見た。青い瞳が氷のように冷気を放っていた。
「いや……ごめん……アサヒ」
アサヒはふいっとそっぽを向いた。
「明日は朝昼晩、バナナねっ」
「なんでだよ」
リサが手を叩いた。
「はいはい。痴話ゲンカは店の外でやってねー」
「痴――」
「おやすみなさい、リサさん」
「おやすみっ。アサヒちゃん」
サクはビリヤード台の横を通って店の出入口に向かった。その時ふと、リサのいるカウンターとは反対側のカウンターが目に留まった。
「あの人……」
アサヒが「ん?」と反応して、サクと同じほうを向いた。
「あ。屋台にいた人だ」
「うん」
サクは呟くと、店のドアを開けた。そのまま歩いてホテルに戻った。




