29話
窓の外は壁だった。裏手の建物との距離は数十センチしかなく、部屋にはほとんど光が入らなかった。
それもあってか、サクは午後を迎える直前まで眠っていた。
顔を洗い、着替えた直後。コンコンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「……ごめん。こんな時間まで寝てた」
ドアを開けて、アサヒに言った。
「気にしないで。わたしもうっかりしてて、さっき起きたところなの。……それより大丈夫?」
「何が?」
「なんだか少し、体調が悪そうに見えたから」
アサヒはそう言うと、サクに顔を近づけた。サクは瞬時に横を向いた。
「昨日の疲れがまだちょっと残ってるだけだよ。……それより今からだと、あまり捜索する時間はないな。夕方にはリサの店に行かなきゃいけないし」
サクは腕につけた時計を見た。目的の場所まで、ここからどれほどかかるか分からない。そもそも行って戻れる距離なのか……。
アサヒがにこりと微笑んで言った。
「それなら今日はお昼ご飯を食べて、お散歩がてらに少し捜索して、それからリサさんのお店に行こうよっ」
なんてのんきな。と思ったが、今日ばかりはその方がいい気がした。
「分かった」
そう言うと、サクは部屋の中に戻ってカバンを肩にかけた。ドアを閉め、施錠する。一階の売店で地図を買い、ホテルの正面玄関から外に出た。
「ここって、こんなところだったのか……裏側と全然違う」
横一直線に伸びる道路の向こう側。青空の下を川が流れていた。手漕ぎのボートがすいすいと通り過ぎていく。
川べりには船着き場がいくつもあり、船はそこにいる人たちの元へ寄っていく。
アサヒが言った。
「あれってたしか、水上市場だったような……。前に先生と来た時、あんな感じの市場で果物を買って食べたの」
「へぇ……」
と呟きながら、サクは腕時計を見た。針は「9」を指していた。
ひとまず左方向に進もうかと思った時。目の前の信号が青になった。
アサヒが一歩踏み出して言った。
「とりあえず何か食べようよっ」
「……うん」
サクたちは川べりに下りていくと、パイナップルを買った。皮はお店の人がその場でむいてくれた。
パイナップルを食べながら川沿いを東に歩いていると、「バナナもいらんかね?」と別の船のおじさんに言われた。
中途半端に食べたせいで余計に腹が減ったので、サクはバナナを一房買った。それをアサヒと半分に分けた。
一本、二本……と皮をむいて口に運ぶ。四本目を食べながら、
「なんか猿みたいだな」
我に返って呟いた。しかも口の中が甘ったるくて気持ち悪い。サクはボトルの水を勢いよく喉に流し込んだ。
最後の一口を食べ終えると、完全に満腹になった。これ以上何かを食べようとは思わなかった。
しばらく歩くと、突然、ヒューと強い風が吹いた。
サクは嫌な予感がして、空を見上げた。太陽は灰色の雲に覆われつつあった。
「サク」
呼びかけられ、横を向く。アサヒが真剣な目をしていた。サクは無言で頷いた。
――絶対に濡れるものか。
近くの店に飛び込む。その直後、空が白く光った。続けざまに割れるような雷鳴が轟く。
外は一瞬にして真っ暗闇になり、バケツをひっくり返したような雨が降った。
「すごい雨……」とアサヒが呟いた。
「あぁ。間に合ってよかった」
サクは外の景色を見ながらほっと一息ついた。と、その時。
「あら、いらっしゃいませ~」
背後から甲高い女性の声がした。
そういえば、何の店か確認せずに入った。何の店だろう……と、サクは後ろを振り向いた。
その顔はみるみるうちに赤くなった。――そこは、女性用の下着屋だった。
「すみません! すぐに出て行きます!」
そう言って身を翻した。外へ出ようとしたサクの腕を、アサヒがガシッと掴んだ。
「どこに行くつもり?」
「いや、だって……」
「お願い。ここにいて!」
稲妻とともに青い瞳が鋭く光った。その眼差しに、サクは囚われ、動けなくなった。
店員がにこやかに言った。
「男性の入店はお断りしてませんから、大丈夫ですよ。雨が上がるまで、是非とも店内をご覧になってくださいね」
そう言われても。これではまるで恋人同士ではないか……。と、サクはまた顔を赤くした。
ふと店の奥の壁に、花柄のワンピースがかけられているのが目に入った。どうやら洋服のゾーンもあるらしい。
――よし、あそこにいよう。
「俺、あっちにいるから。好きに見てていいよ」
「うん」
アサヒは不思議そうに首を傾げた。
店の奥に隠れるように立って、サクは右足の半ズボンの裾を少しだけまくった。赤紫色のあざが覗く。まるで失敗した刺青のようだと思った。
これは魔法の代償だ。昨夜、そう確信した。
魔法をかけたり解いたりすると、体にあざが現れる。あざの大きさと現れる場所について、今のところ法則性は見られない。
触れても痛みは全く感じず、ただヒヤッと冷たい感触があるだけだった。
サクは幼い頃、父と一緒に風呂に入った時のことを思い出した。
父の腰や背中に、今自分にあるのと同じようなあざがあった。「それ何?」と尋ねると、父は「痛そうだろう?」と言った。いたずら心で触ってみると、「痛い痛い」と喚いた――。だが今にして思えば、あれは完全に演技だった。
父はその時すでに、何度か魔法を使っていたのだろう。
あざが全身に広がった父は、まもなく死んだ。医者が言うには、あざは体の内部に影響を及ぼすものではなかったらしい。実際、父が衰弱し、死亡した原因は分かっていない。
とすると……このあざは直接的な代償とは言えないかもしれない。
これは、魔法を使用した証であり、そして、死を警告する信号なのだ――。
父があまり魔法を使いたがらなかった理由は、これで説明がつく。だから教え子である彼女にも、「ほんの数回しか」魔法を見せなかったのだろう。
魔法は、気軽に使用してはいけない。サクは心にそう刻み込んだ。
そろそろ雨は止むだろうかと思い、外の様子が分かる場所に移動した。少しも止む気配はなかった。
左を向くと、アサヒが店員と楽しそうに会話をしていた。
サクは少し離れたところから、その姿をぼんやりと眺めた。
あざが現れるのは父と自分だけなのだろうか。それとも、彼女の体にもあざはあるのだろうか。
脚にも腕にもうなじにも、あざは見当たらない。それなら自分と一緒で、服で隠れたところに……。ゲホッ。ゴホッ。
サクは顔を真っ赤にしてむせかえった。
アサヒがすぐに近寄ってきて言った。
「どうしたの? 顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「あら、熱中症かしら?」と店員が言った。
サクは「大丈夫です」と言おうとしたが、むせたせいで上手く発声できなかった。
アサヒが店員に言った。
「昨日ずっと外を歩いてて、その疲れがまだ残ってるみたいだったので、そのせいかもしれません」
「まぁ、大変! 休憩室にある簡易ベッドで休んでもらいましょう」
「ありがとうございます!」
「さぁ、こちらへどうぞ」
サクは店の休憩室に連行された。
簡易ベッドというのは、起立式のハンモックのことだった。少し体を動かしただけでゆらゆら揺れる。
もし本当に熱中症だったなら、余計に気分が悪くなってバナナを吐き出すところだった。
「大丈夫?」
アサヒが真上からサクの顔を覗いた。サクはすっと顔を横に向けた。
「大丈夫。……ちょっとだけ寝かせて」
そう言って目を閉じた。少しも気分は悪くなかったし眠くもなかったが、雨が上がるまで、このまま揺られていようと思った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「ありがとうございました」
サクとアサヒは店の入り口に立って、店員に頭を下げた。
「いえいえ~。またいらして下さいね」
サクは「はい……」と答えながら、心の中ですみません。もう来ません。と謝った。
いつの間にか、雨はすっかり上がっていた。
サクは昨日と同じように、水たまりを避けつつ、アサヒに引っ張られつつ、腕時計を見ながら前進した。
少しのあいだ歩くと、昨日と同じ屋台街に出た。
「あれ?」
頭をかきながら首をひねる。
「どうしたの?」
アサヒの問いかけに、サクはすぐには答えず、地図と目の前の景色とを交互に見た。
「……やっぱりおかしい。昨日俺たちは屋台で夕飯を食べたあと、店に背を向けて九時の方向に進んだ。
この屋台街に入った時と、店を出て歩いた時。進行方向は同じだったよな?」
アサヒは右手の人差し指を右に向けた。
「たしかあっちから来て、あの屋台で夕食を食べて……うん。間違いないよ。それがどうかしたの?」
「あの路地裏から逃げた時、とにかくがむしゃらに走ったから、方向なんて全く気にしなかった。
そのあと宿を探して歩いた時も、おっさんに聞いた道を歩いただけだった……」
サクはアサヒに地図を見せた。指で示しながら言う。
「ホテル、ここの屋台街、昨日の路地裏。結ぶと、ほぼ直角三角形になる」
「ほんとだ! あの路地裏って、ホテルの裏側のさらに裏側だったんだね。……ってあれ? それっておかしいよ。それならホテルを出た時、時計の針は――」
「六時の方向を示すはず」
「……つまり、どういうこと?」
サクはしばらく時計を見つめてから、口を開いた。
「対象は動いてる。しかも、それほど遠くはない。なぜなら、今もこうして少しずつ針が動いているから――」
時計の針は「1」からゆっくりと、反時計回りに動いていた。
アサヒが目の前を行き交う人々を見ながら呟いた。
「それは、誰かの持ち物なんだね」
サクは頷きながら、アサヒと同じように目の前の人の往来を眺めた。
アサヒが言った。
「どうする? もう行かないと、リサさんとの約束の時間に間に合わないよ?」
ここへ来る途中に見た時計の時刻を思い出す。その時すでに午後四時半を過ぎていた。
サクはしばし悩んだ。約束を優先するべきか、自分の目的を優先するべきか。
「リサの店に行こう」
そう言って、針の指す方角に背を向けた。
サクはやや年季を感じる五階建てのビルを見上げた。
「この建物に間違いないはずなんだけど……」
探せど探せど、『レメディ』という名前の店が見つからない。表から見えるのは「たばこ」と書かれた看板が提げられた、地味で暗い商店だけだった。
裏口は一階にあるが、店自体は別の階なのかと思い、階段を上ってすべての階を探してみた。が、どこにも『レメディ』という店はなかった。
アサヒが言った。
「いっそのこと、裏口から入っちゃう?」
「いや、それはマズいだろ。鍵だってかかってるだろうし。……仕方ない。あの店の人に聞いてみるか」
足を踏み出そうとした、その時。
「サクちゃん!」
裏口のある通路から、昨日と同じような服装をしたリサが息を切らして出てきた。
「ゴメンねー。あたし、うっかりしてて……お店の入り方伝えるの、忘れてた」
アサヒが尋ねた。
「お仕事中なのに、出てきて大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫! 開いたばっかで、あまりお客さんいないし。それにあたし指名のお客さんはこの時間帯には来ないから」
――指名?
サクは眉をひそめた。
そういえば何の店か聞いていなかった。そこが何の店であるか確認せずに入ることは、大変危険なことである。と、昼間の自分が警告していた。
サクは真面目な顔をしてリサに訊いた。
「その店は、接待を伴う飲食店なのでしょうか」
「せった――なに?」
「リサさん。お店の入口ってどこにあるんですか? 探しても見つからなかったんですけど……もしや、隠し扉が……!」
アサヒはまるで探検に行くかのように、目を輝かせていた。
「ふふーん。隠し扉ってわけじゃないんだけどねー。さっ、レッツラゴー!」
階段でビルの二階へ上がる。目の前に重厚な黒いドアがあった。その横に掲げられた看板は、黒く塗りつぶされていた。
リサがドアを開けた。
そこはフロア丸々、クラブもしくはディスコと呼ばれるダンスホールであった――が。数年前に潰れたらしく、今はただ広いだけの寂しい空間だった。
「レメディは、元々ココにあったお店のおまけみたいなトコだったの。踊りに飽きたお客さんの休憩場所って感じで。
だから、ココを通らないと中に入れないんだよねっ」
サクとアサヒはリサのあとに続いて、ホールの左横に設置された階段を下りた。
すると目の前に『レメディ』と書かれた看板が取り付けられた、木製のドアが出現した。
「あ」
ドアの取っ手に手をかけたまま、リサが振り返って言った。
「そういえば……アサヒちゃんって何歳?」
「十六です」
「よかった! 十六なら大丈夫。サクちゃんは……たしかまだ十五だったよね? 悪いんだけど、ココでは十六ってことで。ね?」
年齢詐称には慣れていた。だが、嫌な予感しかしない。
逃げるなら今しかないと思った。急用を思い出したと言って逃げよう。サクは急いで口を開こうとした。――その瞬間。
「ようこそレメディへ」
リサがドアを開けた。
「何してるの? 早く入ろうよ」
背後でアサヒが言った。
サクは圧力に負けて、店の中へ足を踏み入れた。




