23話
新しい従業員が決まった日から四日後、休日の朝。
店の奥のソファで、サクはコーヒーを飲んでいた。隣に店主が、向かいにはヒロが座っている。
ヒロの視線の先に、カップに半分注がれたコーヒーがあった。
ヒロはあれから毎朝、カップに四分の一程度コーヒーを注いで飲むようになった。
余裕げな表情で「大人の嗜みだよね」と言ってから、あからさまに気合を入れて飲み干した。飲み終わったあとにはいつも、カッと目を見開いていた。
今日はいつもより気合が入っている。量も倍だ。
ヒロはふぅーっと長く息を吐いてから、カップを持ち上げた。
胸を反らせて一気に飲む。カッと目を見開いて、空になったカップをテーブルに置いた。
サクはプッと吹き出しそうになった。何度見ても、おもしろい顔だった。
しばらくして、アサヒとモモが二階から下りてきた。
モモはピンクと白の水玉ワンピースを着て、髪を三つ編みのお団子にしていた。トコトコと店主の元へ行き、その場でくるっと回った。
「かわいいでしょー」
アサヒが顎をくいっと上げて、モモと同じく「かわいいでしょー」と言った。
店主が大げさに「おぉ~」と感嘆の声をあげた。
「すごくかわいいよ。その髪型、とっても似合ってるね」
店主に褒められたモモは、アサヒと同じように顎をくいっと上げた。
「おにいちゃんもみて!」
モモの声に、ヒロは面倒くさそうな顔で読んでいた新聞を閉じた。モモはヒロの前に歩いて行くと、両耳の下のお団子をフリフリして見せた。
「おだんご、かわいいでしょー。マーちゃんにやってもらったの」
「はいはい、かわいいかわいい」
ヒロがぞんざいに答えると、モモはほっぺをふくらませた。ヒロはニヤッと笑って、モモのほっぺをつついていた。
モモはアサヒのことを「マーちゃん」と呼んでいた。今さら「アサヒちゃん」と呼ぶのは「なんかちがう」らしく、「アーちゃん」と呼ぼうとしたらしい。ところが、ずっとママと呼んでいたせいでうまくいかず、結果的に「マーちゃん」になった。
店主がヒロの方を向いて言った。
「モモのこと、頼んだよ。道路を歩くときは絶対に手を離さないこと。車に気をつけて――」
「わかってるって」
「そうだよね。ヒロはしっかり者だからね」
店主は「モモ」と呼びかけた。モモが振り向いて、店主の元へ寄る。
「お兄ちゃんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
「うん!」
「ママとお兄ちゃんと、いっぱい遊んでおいで」
店主はモモの頭を優しく撫でながら、穏やかに笑った。
ヒロとモモが出掛けたあと、サクとアサヒも店を出た。
特にすることもなく暇だったので、午前中は竿をレンタルして波止場で釣りをすることにした。
アサヒは心底楽しそうな表情を浮かべていた。
ただ釣りがしたかっただけなのか。いや、彼女が節約しているのは確かだ。
暑くなってきたので新しい服を調達しようという時に、彼女は迷うことなく古着屋に入った。もはや掃きだめと呼べそうなワゴンの中から、さっと水色の布地を手に取って広げると、すぐにレジに向かっていた。
その金額はというと……たったの百五十エルンだった。
魔法で直せるのだから、その行動は合理的といえば合理的だ。
だがそれだけでなく、魔法の力が及ばない――食費や交通費、宿泊費までケチろうとしていたのを幾度となく見てきた。毎度毎度ではないにせよ、確かに彼女は節約していた。
節約といえば――。ヒロの学校で見た父の過去。三年前、父も節約していたらしかった。
旅の最中だから、あとあと困らないように。そんなことを言っていた。結局無駄な買い物をし、財布を無くしていたが。
サクは腕時計を見た。
針が指す方へずっと進めば、大陸の南部へ入る。
最初、目的地に着けば、父が失踪した真相が分かると思っていた。だが、そう容易くはないらしい。
時計の針が指しているのが、あの絵と同じように父が魔法をかけた物なのだとしたら。それがいくつもあるとしたら。
全く予想もしていなかった、長旅になるかもしれない。――父と関わりを持つ、この少女と。
サクはアサヒを見た。
アサヒはピチピチ跳ねる、大きな魚を持って言った。
「どうかした?」
「いや、別に……。すごいの釣ってるなって思って」
アサヒは顎をくいっと上げた。
「これでお昼ご飯代、浮いたんじゃない?」
釣り竿のレンタル代や餌代を考慮すると、全く浮いたとはいえない。
だがそこについては、触れないでおいた。
「そろそろ切り上げて、店に戻るか」
サクはレンタルした釣り道具だけを持って、立ち上がった。
店に戻ったアサヒは、早速調理に取り掛かった。店主が隣に立って、あれやこれや尋ねながら手伝っている。
カレーに加え、オムライスも作れるようになった店主は、だいぶ自信をつけたらしい。
「お客さんに出すのは無理でも、家族で食べるものくらいは自分で作りたいなぁ。
ずっと料理担当の人に頼っていたけど、次の彼は住み込みじゃないし、負担になってはいけないからね」
新しい従業員が決まったあと、そんなことを言っていた。
店主はさっそくレシピ本を買ってきて、これまでアサヒが作っていた夕食を、その日から代わって作り始めた。
サクは邪魔になると思い、二人から離れた場所にいた。
そばに、あの絵があった。
父がなぜこの絵を熱心に見ていたのか、ずっと気になっていた。絵を見ている最中の父の心の声を聞いていれば、分かったかもしれない。が、父だとはっきり認識していなかったせいなのか、何も聞くことができなかった。
――やっぱり、似ているからなのか? そうだとすると、父さんはあの子のことを……。
ふっと頭に浮かんだ考えを、サクはすぐに振り払った。
父の失踪の真相を知りたいと思う一方で、知りたくないことからは逃げている。どんなことも受け止める覚悟はできていたが、自ら訊く勇気はいまだに持てなかった。
なぜこんなにもためらい、決心できずにいるのか。自分のことなのに、よく分からなかった。
「サクー! もうすぐできるから、テーブルの準備おねがい」
アサヒの元気な声に、サクは「うん」と静かに返事をした。
店の奥のテーブルに、取り皿を並べる。スプーン、フォーク、アイスティーを三つ。平たい皿に白いご飯を盛って、フォークの横に置く。
準備が完了した直後、アサヒが重そうに大皿を持ってきて、テーブルの中央にドンと置いた。
「でかっ」
サクは思わず口に出した。魚がまるごと一匹。まわりにミニトマトやオリーブの実が散りばめられている。
店主がハハハと笑った。
「ご馳走だね。ヒロとモモも美味しいものを食べてるだろうから、私も遠慮しないでいただこうかな」
アサヒがソファに座って言った。
「いっぱい食べてください。ここで料理するのは、これが最後なので」
「そっかぁ。寂しいなぁ……」
店主がしんみりした顔をする。サクは作り笑いを浮かべて言った。
「新しい従業員が見つかって、本当によかったですね。経験者だし、頼りになりそうじゃないですか」
これで自分たちは、やっと店を去ることができる。という意味を込めたつもりはなかったが、よく考えるとそう取れたかもしれない。
店主は笑って、
「そうだね。今まで本当にごめんね。そして、ありがとう」
と言った。
「……いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
サクは真面目な顔で頭を下げた。
「今お別れするみたい。出発するの、明日なのに」
アサヒの言葉に、サクと店主は揃って「あっ」と言った。アサヒは笑顔で両手を合わせた。
「仕切り直して……いただきます!」
食事の最中、サクは気になっていたことを、意を決して口にした。
「あの、『アリエス』ってなんだかわかりますか? 以前この店に来た画家のルゥさんが、北部出身の絵描きに聞いたと言ってましたけど……」
幻影の中で、父も言っていた。もしかしたら、父と彼女の関係に迫る言葉かもしれないと思い、中々口に出せずにいた。
正面にいる店主に向けて発した質問だったが、隣の反応の方がむしろ気になった。
「うーん、知らないなぁ。図書館に行けば、分かるかもしれないけど。……あっ。でも、今日図書館はお休みで、近くの本屋も改装中だね」
店主の返事を受け、サクは隣に顔を向けようとした。サクが視線を送るより前に、アサヒは言葉を発した。
「わたしも知らない。ルゥさんに聞くのが一番早いんじゃない? どこにいるか、わからないけど」
「どこにいるかわからないんじゃ、全然早くない」
そう言いながらも、サクはルゥを探してみようと思っていた。
明日にはこの街を去る。見つからなければ、潔く諦めよう。期限があるからこそ、行動してみようという気になった。
昼食を終え、午後二時を過ぎた頃。サクはカバンを肩にかけて、屋根裏部屋を出た。階段を下り、店主に出かけることを告げる。
一人で行くつもりだったが、
「わたしも行く! 買いたいものがあるから」
と、アサヒがポシェットを肩にかけて言った。
「買い物なんて、めずらしい」
「そうかな?」
アサヒはとぼけた顔で首を傾げた。どうやら自分がケチだという自覚はないらしい。
サクとアサヒは店を出ると、大通りへ向かった。
「じゃあ、わたしはここで」
アサヒはそう言うと、壁一面ピンク色の何の店なのか分からない店へ入っていった。
サクは大通りを中心に、周辺の広場や公園をまわってみることにした。
イーゼルを立て、絵を描いている人がちらほら。ルゥの姿はない。
そもそもルゥが外で絵を描くことがあるのか。それさえ分からない。絵だけで食べているとは思えないし、何か別の仕事をしているとしたら、今はその仕事中かもしれない。
サクは三か所ほどまわって、ルゥのことを他の絵描きに聞いてみようと考えた。
いざ、声をかけよう――と見回すも、皆、真剣な表情でキャンバスに向かっていて、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
そんな中、他の絵描きとは違う雰囲気の老人を見つけた。
ハンチング帽を被ったその老人は、池のほとりのベンチに腰掛け、膝に猫を乗せて絵を描いていた。
少し離れた場所から顔をのぞいてみると、いかにも穏やかそうに見えたので、サクはこの老人に話しかけてみようと思った。
「あの、すみません」
「はい。なんでしょう?」
老人は筆を置き、予想通りの穏やかな口調で応答してくれた。ついでに猫も「ニャア」と鳴いた。
「人を捜していて。ルゥという名前の画家なんですけど、知りませんか?」
「ルゥ? 聞いたことのない名ですな。女性ですか?」
「いえ。やせ細った、中年の男性なんですけど。板に絵を描いていて、無愛想で」
最後の一言は余計だったか? と思ったが、
「やせ細った中年の男性……板に絵……無愛想…………ほっ!」
老人は素っ頓狂な声をあげて、「はいはい」と頷いた。
「知ってるんですか?」
「えぇ、知ってますよ。彼がルゥという名前だったとは知りませんでしたが。……初めて会った時、彼は極度の人見知りのようで、名前を聞いてもだんまりだったのですよ。
すると、隣にいた私の友人が、彼の呼び名を勝手に決めてしまいましてね。ネコスケと」
「ネ、ネコスケ?」
「はい。私が抱いていた猫を見て、連想したのでしょう。友人は名の知れた芸術家でしたけど、実のところただのアホでしたから……。
あぁ、すみません。話が脱線してしまいましたね。それで、あなたはネコスケの居場所を知りたいと」
あくまで「ネコスケ」を貫く老人に、サクは得体の知れない恐怖心を抱きながら、「はい」と答えた。
「残念ながら、私も彼の居場所は知らないのですよ。普段どこにいるのか。何を食べているのか。なんてことを聞いてみても、『大丈夫です』と言葉少なで。
どうやら私は避けられているみたいでしてね。何度か見かけはしたものの、最後に話したのは……たしか、三年以上前でしたかな」
「そうですか……」
「ところで、あなたはなぜ彼のことを捜しているのですか?」
老人の問いに、サクは素直に答えた。
「以前ルゥさんが話していた、『アリエス』という言葉が何なのか気になって、本人に尋ねてみようと思ったんです」
老人が少しだけ、驚いたような表情をみせた。
「……『アリエス』とは、私の故郷に関係のある言葉ですね」
「えっ。もしかして、ルゥさんの言ってた北部出身の絵描きって……」
「北部出身の絵描き? きっと私のことでしょうね。あの地から、ここまでやってくる人間なんて、今では本当に少ないでしょうから。私以上の年齢の者ならそうとも限りませんが。まぁ、生きている者に限らなければですけどね」
そう言うと、老人はほっほっと笑った。
なぜ年寄りはこの手の冗談が好きなのか。サクは口元をひきつらせながら言った。
「それで、アリエスというのは一体……」
老人は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「北部に昔から伝わる、神の使いのことですよ。北部では、零域のことを『神の国』と呼びます。決して人が立ち入ることのできない、神達の暮らす土地。
その神の国からやってきた、一人の使者。青き花飾りの乙女。私の生まれ故郷では、その方を『アリエス』と呼ぶのです。……詳しいお話は機会があればまた。この子がお腹を空かせてますのでね」
老人はさっきから激しくニャーニャー鳴いている猫を抱えて、ゆっくりと立ち上がった。
サクは一礼してその場を離れると、まだ明るい日差しの中を歩いて店へ戻った。




