22話
「……ク……ク……サク!」
自分の名前を呼ぶ声がして、サクはふっと我に返った。視線の先にあの絵があった。両手でしっかりと掴んでいる。
「よかった。気がついて」
アサヒの声に、サクは顔を上げた。
思いがけない近さにドキッとする。腕にあった生暖かい感触が消えていく。どうやら、体を支えられていたようだった。
サクはその場に立ったまま、しばらく呆然とした。さっきまで見ていた光景や、父の声が頭にこびりついて離れない。そのせいで、ここがどこであるか、なぜこんな場所にいるのか、曖昧なままだった。
深く呼吸をする。肩や腕から力が抜けていく。だんだん混乱がおさまってきて、自分がどこで何をしていたのか、はっきりと思い出した。
「そうだ、ヒロ!」
ヒロが出て行ってから、一時間以上は経過しているだろう。早く行かなければ。急いで、ドアの方へ足を踏み出そうとした。
「待って」
腕を掴まれ、足を止める。
「何があったのか教えて」
「あとで話すから。今は早くヒロのところへ行かないと。一時間も待たせるなんて、さすがにまずいだろ」
アサヒは怪訝な顔をした。
「一時間? ヒロ君が出て行ってから、まだ五分も経ってないと思うけど」
サクは言葉を失った。たった五分? あの長い時間が?
思わず腕につけた時計を見た。時刻を示しているわけがなく、針は手に持ったままの絵を向いていた。
「サクが絵を見てから、急に針がくるくると反対向きに回り始めたの。びっくりして呼びかけたんだけど、返事がなくて。ゆすったら倒れそうになるし……。
体だけ置き去りにして、どこか別の世界に行ってしまったみたいだった」
「別の世界……」
たしかにここではない場所へ行っていた。自分の知らない父の過去――。
再び時計を見る。なぜ針が回ったのか。もしや、この時計があの幻を見せていたのだろうか……。
サクはアサヒに、見聞きしたことをかいつまんで話した。
アサヒは話を最後まで聞いてから、首を傾げた。
「ダン先生の過去……。それに、何の意味があるんだろう?」
彼女の言った通りだった。父の過去といっても、見たのは一部分でしかない。これでは、失踪の理由は分からずじまいだ。
時計の針は相変わらず絵を指している。これ以上は何もできないというのか。
サクは顔に悔しさを滲ませたまま、黙り込んだ。
アサヒは口元に手を当てて、考える仕草をした。しばらくして言った。
「もしかすると、時計の針は過去に先生が魔法をかけたモノを示しているのかも。そのモノにたどり着くと、時計はサクに先生の過去を見せる……。
それにどんな意味があるのかは、今のところわからないけど」
「この絵以外にもあるってか? 仮にそうだとしても、針は絵を指したままだから、他の物にはたどり着けない」
アサヒは真剣な眼差しをサクに向けた。
「絵の魔法を解けば、針は次のモノを示すはず」
「魔法を解く? たしか、魔法はかけた本人か、それ以上の力を持った魔法使いにしか解けないって前に――」
「うん。その絵の魔法は、わたしには解けない。でも、サクならきっと解けると思う」
サクは口をつぐんで、しばし考え込んだ。
もし自分にこの絵の魔法が解けたら、自分は父よりも力のある魔法使いということになる……らしい。
それがどれくらいすごいことなのか。魔法使い全体の中では、どの程度の順位なのか。そもそも、この世界に魔法使いは何人いるのか。――なんてことは、今は置いておくことにした。
「魔法を解くって、どうやれば?」
アサヒはパチパチと二回まばたきをしたあと、首を傾げた。
「どうだったっけ?」
「おい」
「そもそも魔法の解き方なんて、教わってない気がする。……だから、自己流でやってみて!」
「は?」
思わぬテキトー発言に、非難めいた声を出す。だが、アサヒの表情は真剣そのものだった。
サクはひとまず、もう一度両手で絵を持った。
見つめると、雪景色の中に吸い込まれそうになる。が、父の声は聞こえてこない。時計の針も回らない。
どうやら、父の過去が見られるのは一度きりのようだった。
三年前の父の姿。その幻影を見ていた時には感じなかった怒りや悲しみといった感情が、今頃になって湧いてきた。
父はなぜ、自分を置いていなくなったのか。なぜ、あざだらけになって帰ってきたのか。そして、死んでしまったのか。何としても、その真相を突き止めたい。
――解いてやる。父さんのかけた魔法を、解いてやる。破ってやる。ぶっ壊してやる。
絵を持つ手がどんどん熱くなる。
不思議なことに、どうすれば魔法が解けるか分かった気がした。
父が魔法をかけた時の光景を、頭に浮かべる。
『見る者を、引き寄せよ』
父の言葉、父のかけた魔法。それを心の底から、否定する。
感情をナイフにして振り下ろした。
――そんな魔法はいらない!
瞬間、パリンッと何かが割れた音がした。ガラスが割れたような音だった。
勢いよく顔を上げ、あたりを見回す。部屋に変わった様子はない。すると今の音は……。
「どうしたの?」
アサヒが訝しげな表情で言った。
サクは黙ったまま、手に持った絵を見た。美しい絵であることに変わりはない。だが、絵の中に吸い込まれるようなあの感覚は消え失せていた。
アサヒが絵を覗き込んで言った。
「もしかして、解けたの?」
「……たぶん」
「時計は」
その言葉にハッとして、サクは時計を見た。針は右手に持った絵とは反対方向、「8」のあたりを指していた。
サクは美術準備室をあとにした。来た時と同じ、螺旋階段を下りる。
一番下の段にヒロが座っていた。近づくと、ヒロは足音に気がついた様子で立ち上がり、振り返った。
「早かったじゃん」
体感では一時間を超えている。だが、実際は十分も経っていないようだ。妙な感覚が体に残っていた。
サクはヒロに絵を差し出した。
「返すよ」
「えっ。なんで?」
そう言いながらも、ヒロは絵を受け取った。訝しげな目で絵を見てから、すぐに顔を上げると、何か言いたそうに口を開いて、閉じた。
アサヒが言った。
「その絵、わたしたちにはもう必要ないから。あった場所に戻そうかと思ったんだけど、どこだったかわからなくて……」
ヒロは首を横に振った。
「いいよ。持って帰って、元の場所に飾るから」
「いいの?」
「どうせ僕が隠したってこと、お父さんにもバレてるんでしょ。隠したって何の意味もなかったんだから、元に戻したって一緒だよ。
それに、モモがアサヒさんのことママって呼ぶの、困るんだよね。近所の人とかに変な勘違いされたら嫌だし。絵の方がまだマシ」
ヒロはそう言うと、口を大きく開けてあくびをした。
「ねむー。早く帰ろーよ」
絵を脇に挟み、さっさと歩き出す。その背中はしゃんとしていた。
はっきりした態度と口調。優柔不断で、いつものんびりした父親とは正反対のように見える。
血の繋がった親子でも、こんなにも違うのだなとサクは思った。
「そういや、よくあの門を越えられたな」
校舎を出てすぐ、サクはヒロに言った。
「そんなことできるわけないじゃん」とヒロは答えた。
「じゃあ、どうやって中に……」
「こっち」
ヒロはそう言って進んでいくと、門から少し離れたところにある戸を開けた。それは、職員用の通用口だった。
戸を閉める。外側にダイヤル式の鍵がついていた。
「まさか鍵を開けて……」
サクは横目でヒロを見た。
「このくらい余裕の四番バッター、ミッチだよ」
「誰だよ」
ヒロは歯をニッと見せて笑った。
屋根裏部屋の窓から、まぶしい朝日が差し込んでいる。
サクはベッドに手をついて、重い体を起こした。
あくびが出る。胃がムカムカする。
父の幻影。魔法のこと。そして、突然戻ってきた絵を見た、店主とモモの反応。
色々なことが気になって、部屋に戻ってから一睡もできず、夜が明けるまでただ寝転がっていた。
Tシャツを脱ぐ。右手で胃のあたりをさすりながら、仕事着に着替えようと立ち上がる。
――ん?
手に違和感を感じた。触れている部分が妙に冷たい。
ゆっくりと右手をどかして、見る。
みぞおちのあたりに、赤紫色のあざができていた。
二つ目のあざ。
背中のあざは未だに消えておらず、それよりは一回り小さかった。
校門に登った時にできたのだろうか? それほど強く当たった覚えはないが。
少し押してみる。痛みは全く感じなかった。
疑問に思いながらも、サクはカーテンレールにかけてあった白のシャツに着替えて部屋を出た。
おそるおそる階段を下りる。
カウンターの内側に、いつものように腰掛けている店主の姿があった。コーヒーカップに口をつけながら、手に持った写真のようなものを見つめている。
サクは店主に近づくと、うわずった声で呼び掛けた。
「おはようございます」
店主は顔を上げて「おはよう」と言った。
いつもと変わらない口調。だが、表情はいつもと違ってどこか晴れやかだった。
店主は手に持った写真をすっと胸ポケットにしまうと、相も変わらず、のんびりとした口調で言った。
「眠気覚ましに一杯どうかな? なんだか今朝のコーヒーはとても美味しく淹れられた気がするんだ」
「……いただきます」
サクは胃の調子を気にしつつも、そう答えた。
カウンターの椅子に座り、受け取ったカップを口に近づける。
コーヒーの香りが眠気を誘った。眠気覚ましのはずなのに。
一口飲んで、たしかにいつもより美味しいと思った。心にざわざわとまとわりついた雑音を、洗い流してくれるような気がした。
店主が言った。
「店を続けようと決めて、それでもまだちょっと迷いがあったんだけど。絵が戻ってきたことで色々決心がついたよ。……あそこに飾ってあるってことは、もう絵はいらないってことだよね?」
ドキッとした。サクは顔の筋肉をこわばらせながら、「はい」と答えた。
「それはよかった。こうして見ると本当に素晴らしい絵だから、手放すのは惜しいと思っちゃってね」
そう言いながら、店主はカウンターを離れて絵に近寄った。
魔法がかかっていた時には近寄らなかったのに、魔法が解けた途端に引き寄せられている。……魔法なんて、たいしたものではないのかもしれない。
そんなことを思っていると、二階からアサヒとモモが下りてきた。
店主が振り返って、モモに言った。
「見てごらん。絵が戻ってきたよ」
モモは口を小さく開けて、絵とアサヒの顔を交互に見た。困惑しているようだった。
少しして、モモはたどたどしく絵に近寄った。
店主が膝を屈めて、モモに言った。
「ごめんね。お父さん、モモに嘘をついてたんだ。この人はママじゃないし、アサヒさんもママじゃない。モモの本当のママはね――」
店主は胸ポケットから写真を取り出して、モモに渡した。
「この人だよ。お兄ちゃんの横に写っているのが、モモのママ」
モモは写真をぎゅっと両手で握り、まばたきせずに見つめた。
離れたところからでは、それがいつ頃撮影されたものかは分からなかった。店主が本当は写真を捨てていなかったのかもしれないし、以前、ヒロが母親と会ったときに撮影されたものかもしれない。
「ママ……」
モモは写真を見つめたまま、小さく呟いた。
本当の母親を思い出したのかは分からない。だが、写真に写っている女性をモモが母親と認めたことは確かだった。
店主がモモの頭を優しく撫でた。
アサヒは少し離れたところから二人を見て、微笑んでいた。
それから十分ほど経って、サクとアサヒが店の奥のテーブルに朝食のサラダやトーストを並べ終えた頃。ヒロが階段を駆け下りてきた。
「寝坊しちゃった」
どうやら、熟睡していたらしい。すごい精神だ、とサクは思った。
店主はヒロにコーヒーカップを差し出した。
「たくさん淹れたから、ヒロにもあげる。ちょっと冷めちゃったけど」
ヒロは無言でカップを受け取った。口をつけるなり、「げー」と言った。
店主はハハハと笑ってから、笑顔のままアサヒとモモの方を向いた。
「アサヒさんもどう? ついでにモモも」
アサヒとモモはシンクロするように、頭を横にブンブン振った。
「やめておきます。クリームソーダにしておきます」
「モモもー!」
「モモは炭酸もダメでしょ。オレンジジュースにしとこうね」
モモは「えー」と言って、ほっぺをふくらませた。
ヒロはモモをじっと見ながら、片手に持ったカップに口をつけ、また「げー」と言った。
サクは見かねて言った。
「砂糖持ってこようか?」
「いい。今日こそ飲める気がするから」
ヒロはそう言うと、眉間にしわを寄せてコーヒーをぐいっと飲み干した。カッと目を見開き、凄まじい形相でテーブルにカップを置く。
店主がパチパチと手を叩いた。
「ブラボー!」
アサヒとモモも「すごい、すごい」と言いながら手を叩いた。サクは吹き出しそうになりながら、コーヒーを飲み干した。
この日の夕方、閉店後の店に若い男性がやってきた。年齢はサクよりも五つ上くらいだった。店主とその男性は二十分ほど、奥のテーブルで会話をしていた。
店主が立ち上がって、男性に握手を求めた。男性はそれに応じた。
「来週から、よろしくね」と店主が言った。
新しい従業員が決まった。彼は調理と接客、どちらも三年以上経験があるらしかった。
自分たちより、よっぽど頼りになるだろう。
サクたちは、五日後に店を出ることになった。




